『寒さのせいで』(5年目)

足が痛くてたまらない。


その日、アスヒは中々寝付けずに、深夜の食堂に訪れていた。真っ暗闇の厨房で、持ち込んでいた燭台の明かりを数カ所に移していく。それでも厨房は仄かな明かりを保つだけだった。
『電気』の無いこの世界にも大分慣れてきてはいたが、夜はどうしても光量が足りずに不安に思うことがある。足が痛むこんな夜は余計にだ。

アスヒは取り出してきた鍋でミルクを温め、それを火にかけたまますぐ近くの椅子に息を吐いて座った。

彼女は数年前、動かなくなった足を切り落とし、ミズミズの実の能力で作った義足を常に付けていた。
周りの人間は彼女が義足であることを知らない。時折、付け根が痛みを訴えるため、足を引きずってしまうことがあるけれども、それは怪我の後遺症ということにしていた。
昼間は使用人もメイドも心配させたくないが故に痛みなんか隠しきってしまうのだけれども。

(ねむたい)

欠伸をひとつ零すアスヒ。睡魔は間違いなくあるのだが、足の痛みが気になってしまって中々ゆっくりと眠れない。
膝を抱えて足を摩っていたアスヒだったが、また短く息をついて立ち上がる。鍋の中を覗き込んで蜂蜜を流し入れてまた温める。
蜂蜜は中々高価なものではあるが、たまにはいいだろう。屋敷で暮らしている者達の食費を出しているのはクロコダイルだ。少しくらいの贅沢は許される。

温まったホットミルクをマグカップに移して、アスヒはまた椅子に座る。息を吹きかけて覚ましながらゆっくりと口をつける。
流石にいいミルクといい蜂蜜なだけがあって、とても美味しい。足の痛みも収まってきた気がする。

片付けはあとでやろう。足の調子がいい今の内に少し休んでから、その後で片付けよう。アスヒは机に伏せて、ふわと欠伸を零す。


がつん、がつんと金槌が振り下ろされる。男達の下品な声。痛みで意識が跳ぶ。苦痛を訴えても状況は変わらず、恐怖だけが続いていく。
現れた砂嵐は確かに遅かった。それでも、現れた砂嵐に心から安堵したのを覚えている。


香りがした。それは葉巻の香りだった。

「えっ…?」

目を覚ました瞬間、部屋の中に誰かがいることに気が付いて、そしてその人物がクロコダイルであることに気が付いて、アスヒは驚きに思わず声を上げてしまった。
クロコダイルは不機嫌そうな顔をしたまま、厨房の簡素な椅子に腰をかけて足を組んでいた。彼の近くには珈琲の入ったグラス。
いつから待っていたのか、グラスにはもう残り少ない珈琲が入っているだけだった。

アスヒが起きたことに気付くとクロコダイルは視線すら向けないまま口を開く。

「部屋に掛けでも出やしねぇ。行っても居ねぇ。厨房で居眠りか?」
「…申し訳ございません。以後気をつけます」

静かに謝罪するアスヒ。クロコダイルはアスヒのそのしおらしさに一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
まだ少し夢心地のアスヒはふわりと欠伸を零しながら、身体を起こす。彼女の視線はクロコダイルの左腕に向いていた。厨房の淡い明かりの中で、クロコダイルの金の鉤爪は鈍く輝いていた。

「……クロコダイル様は腕を無くした日のことを夢に見ますか?」

アスヒは長く息を吐いて、ぽつりとそう零した。クロコダイルは黙ってアスヒを見つめていた。

「私は見ます。そして決まって目覚めは最悪です」

彼女の視線はクロコダイルの方には向いていた。だが、クロコダイルを見ているわけではなかった。
首筋をしっとりと湿らした寝汗が気持ち悪い。きしりと痛み出した足が忌々しい。

あまり夢見の良くなかったアスヒは足をゆっくりとさすってから小さく声を零す。
夢の内容を語る気はない。クロコダイルに縋るほど子供でもない。自身の手を重ねて嵌められた赤い指輪を撫でる。

「…あの時…、思っていたより怖かったんですね」

1度目を伏せたクロコダイルが、まっすぐにアスヒを見つめる。
厨房の中には仄かな明かりしか灯っていない。いつも気丈に振る舞うメイド長は、ぼやけた明かりの中では、やけにか細く見えた。
軽く目を伏せたクロコダイルは彼女を鼻で笑う。

「弱ぇ奴だ」
「貴方様は強い人ですね」

言葉は素直な感想だった。だが、クロコダイルにはそれが皮肉にしか聞こえなかった。
アスヒの視線がようやくきちんとクロコダイルに合わさった。
彼女はいつものように微笑みを浮かべようとして、少し寂しげに微笑んだ。

「飲み物のおかわりは如何ですか?」

よく見るとクロコダイルは冷え込むアラバスタの夜にも関わらず冷たい珈琲を飲んでいた。

そしてふと思い至る。クロコダイルは今まで自分で珈琲をいれたことなどあっただろうか。と。

「…。温かい飲み物を入れますね」

きっと珈琲セットの位置さえも知らないであろうクロコダイルのために、アスヒは立ち上がる。
足がどうしようもなく痛みを訴えていたが、そんなことよりも主に仕えることの方が優先だった。

立ち上がって珈琲豆を手にしたところで、不意に深々と溜息をついたクロコダイルがアスヒのすぐ後ろに立った。
近すぎる距離と違いすぎる身長に驚いていると、彼はアスヒの手元を鉤爪で引っ掛けて小さく呟く。

「腹が減った」

拗ねたような声を聞いてしまってアスヒは思わず口元を抑えて小さく笑う。どうやら彼が起き出してきたのは小腹が減って切なくなったからだったらしい。
笑いだしたアスヒにクロコダイルは不服げに「おい」と低く声をかける。アスヒは苦笑を返して、背中側にもたれかかるようにしてクロコダイルに近づく。
クロコダイルももたれかかってきたアスヒを突き放すことはなく、軽く彼女の腹あたりに腕を回していた。

「すぐにお作りいたしますわ」
「ん」

短く返事をしたクロコダイルはアスヒに引っ付いたままだ。
体格差故にアスヒが全力で押してもクロコダイルなら倒れなさそうだ。普段は絶対にしないがアスヒも夜食を作りながら、時折休むようにクロコダイルの肩口に頭を寄せる。

(今日は特別さむいからだ)

言い訳じみたことを思いながら、短く息をつく。クロコダイルに軽くもたれかかっていると、不思議と足の痛みが和らぐ気がする。
彼の吸っている葉巻の香りも、彼が使っている男性用の香水の香りも、案外悪くない。

スープをかき混ぜるアスヒから小さな欠伸が零れる。口元を隠しながら浮かんだ涙を拭って、またこてりとクロコダイルに少し寄りかかる。

「眠たくなってきました」
「作ってからにしろ」

ぼやくようにそう言えば、お腹を空かせたクロコダイルが口を尖らせて催促をしてくる。アスヒは微笑みを浮かべながら、おざなりな返事をして作業を続けた。


(寒さのせいで)

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