寝台の上で上半身だけを起こして本を眺める。

読んでいる本には血でついた黒い染みのようなものが確認できるが、この程度のものならばもう既に見慣れ始めていた。
病室の壁は本についた血なんか比べ物にならないくらいに汚い血錆に塗れている。

世界は『裏側』に来ていた。

だが、いつも傍にいてくれる赤い三角頭の姿が、今日はない。
世界が血錆に塗れてかなりの時間が経っているが、三角頭は私の隣にはいなかった。

「あれェ? 今日は1人かい?」

本を捲る途中で嫌な声がして、思わず顔を向ける。すると入口あたりからこちらを伺うウサギの姿が見えて、私は思い切り顔をしかめることになった。
今日のウサギは子供くらいの大きさで、相も変わらず口元は血で汚れており、笑顔は無機質で乾いていた。

嫌悪感を隠すこともなく、そしてそれ以上ウサギを見ることなく、問いかける。

「何しに来たの」
「可愛い可愛いセニョリータの様子を見にね。いつものセニョールは?」
「知らない」

きょろきょろと可愛らしい仕草で辺りを見渡すウサギ。私は冷たい声で返事をした。
ウサギは私の答えを聞くと、無機質な笑顔を変えないまま、私の寝台のその先にある窓を見つめていた。

私は三角のいない理由がわからないままだったが、ウサギは勝手に納得したようだった。

「ふぅん。まぁ、きっと来たんだろうな。飽きねぇな」

一瞬だけ口汚くなったウサギが、けろっとしたように一気に雰囲気を変えて、私に笑顔を向ける。

「まぁ、いいやぁ。丁度ナースもどっか行ったみたいだしー、じゃあ遠慮なく」

ウサギの笑顔はいつものように狂っていた。いきなり手斧を振りかざしはじめるウサギ。
私は臆することなくウサギと手斧を見つめ続けていた。

手斧が私に振り下ろされる瞬間、半分だけ引かれていた紗幕の隙間から黒い腕が覗いた。
ウサギが下ろす手斧の少し先、私を庇うように伸びてきた黒い手と、現れた黒い三角頭の大きな姿。

私はウサギを睨みながら言葉を紡いだ。

「私は別に1人だと返事をした覚えはないわ」
「……へぇ。護衛付きかよ」
「三角が貴方対策で連れてきてくれたの。正解だったわね」

長く息を吐きながら、私はウサギを睨み続ける。本当にこのウサギは油断も隙もない。
三角頭に恐怖していないのだから、三角頭がいくら私を守っていてもウサギにとっては脅威にはならない。
守ってもらわなければすぐに死んでしまう私にとって、ウサギは1番に気をつけなければいけない存在だった。

ウサギは私を殺そうとしたことを忘れたかのように、黒い三角頭と寝台を挟んだ反対側に椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。

「んで、アンタは何してるのォ? 教団員を探さなくてもいいのォ?」

からかうように黒い三角頭にそう言うウサギ。黒い三角頭は一切の動きを見せず、再び椅子に腰を下ろした。

彼は大鉈を握ったままであり、いつでもウサギを阻止出来るようにしていた。
まあ、それはいつでも私を殺せるということでもあるのだろうけれど、黒い三角頭は最初に会ったあの時から私を殺そうとはしていない。
それならばまだウサギよりかは信用出来る。このウサギに殺されるなんて真っ平ごめんだ。

「帰すなら帰す、殺すなら殺した方がいいと思うけど」

ほら。ウサギはこういうことしか言わない。これ以上本を読み続ける気分にもなれなくて、溜息をついて本を閉じた。

「帰れないわよ。1人じゃ動けないもの」
「キャハハハ、レッドピラミッドシングに送ってもらえばいーんじゃない?」
「本当に、アンタが、大っ嫌い」

この世界でウサギ以上に嫌いなものはないと思う。早くここから帰ってくれないかと願うが、ウサギが私の思いを汲み取ってくれるわけはなく、変わらない笑みを向け続けるだけだった。

心底気分が悪くなって、視線を落とす。見えるのはシーツの下にある先を落とされた足だった。
そして不意に思い出す赤い三角頭の彼。彼は何故か熱心に私の面倒を見てくれていた。

怪我をした私をナースの元まで連れて治療をしてくれた。そればかりではなく、私が望めば動けない私を連れて散歩をしてくれる。望んだ場所に連れて行ってくれる。望んだものを用意してくれる。
そして、私を殺そうとするウサギや、勘違いとはいえ私に襲いかかってきた黒い三角頭と対峙してくれる。

何故、化け物である彼がそんなにも私の面倒を見てくれるのだろうか。

「…え、何…?」

深く黙り込んでいたんだと思う。だが、急に黒い三角頭がゆっくりと私に手を伸ばしてきた所で、意識が覚醒する。
今まで身動きひとつしていなかったということもあり、私の警戒心が高まる。

「いた、いっ!」

急に動き出した黒い三角頭は混乱する私を抱き上げる。彼は赤い三角頭のように怪我している箇所を気にしてくれるわけはなく、走った激痛に詰まったように声がでなくなる。
そして私を抱えたまま歩き出す黒い三角頭。どこかに連れ出そうとする彼に、困惑に包まれた私が悲鳴にも似た叫び声を上げる。

「ちょっと、どこに…っ!」

黒い三角頭は私を連れて病室を抜ける。暗い世界はいつもと変わらないはずなのに、恐怖が私を包み込む。
視界の端に映る黒い金属の頭に恐怖が増長されていく。

「嫌、やめて!!」

かたん、かたんと黒い三角頭の履いている軍靴のような靴が音を立てる。私を抱えてどこかへと連れて行く。
私の悲鳴に気がついたナース達が何処からか現れたが、黒い三角頭が握った大鉈の先を向けると、彼女達の足は止まる。

ナース達では決して黒い三角頭には勝てない。勝てないのだ。

ウサギは動き出した黒い三角頭を止めることなく、少し後ろを歩いて付いてくるだけだ。
ここには私を助けてくれるものはいない。私を助けてくれるのは、あの、赤い――。

黒い三角頭の動きがぴたりと止まった。再び走る激痛に耐えながら必死に視線を上げると、そこには赤い三角頭が立ちはだかるように私達の前に立っていた。

彼の姿を見て、私は思わず、赤い三角頭に向かって手を伸ばす。助けを求めるように、手を伸ばす。

伸ばした手を、赤い三角頭がすぐに掴んだ。大きな手が私の手を包み、そのまま引っ張られて僅かに痛みを覚える。
それでも黒い三角頭にこのままどこかに連れて行かれるよりかはいい気がして三角の手をぎゅうと握る。黒い三角頭が機械の排気のような息を吐き出し、足を止めた。

私の身体が黒い三角頭から離れ、赤い三角頭に抱えられる。

赤い三角頭は手に持った大鉈を黒い三角頭へと突きつける。赤い三角頭の身体から溢れ出すようなドロドロとした殺気に、空気が切り裂けそうな程に張り詰めた。

やがて、黒い三角頭がゆっくりと動き出した。警戒を続ける赤い三角頭の横を通って、緩慢な動きで私達から離れていった。
彼は既に私に興味がないようで、自分の大鉈をゴリゴリと引き摺りながら病院の前から離れていった。

「三角…」

声をかけながら三角頭の金属の頭に触れると、しっとりと私の手を赤い液体が濡らした。
赤い三角頭から発せられる殺気が少しも緩まなくて、私は肩に乗せられたまま小さく不安げな声を掛ける。

「怒ってるの…?」

ねぇ。と私は三角頭に声を掛ける。だが、三角頭は一切何も動きを見せないまま、遠くに歩いている黒い三角頭に背を向け、病院に足先を向けた。

病院の入口に立ったままのウサギが、肩に乗せられている私に顔を向ける。
ウサギの笑顔は何も変わらないはずなのに、ウサギの顔を見て急に不安と恐怖が溢れ出す。

「可哀想にセニョリータ」

酷く優しげな声で、憐れむようにウサギがそう言った。返事をした私の声が震える。

「なに、が」

可哀想に。と言ったウサギが理解出来ない。もしかしたら理解しているのかもしれないけれども、頭は理解することを拒否している。

足を奪われたから? この世界から出られないから? 

可哀想だと言われる原因はぱらぱらと思いつく。でも、ウサギがそんな簡単なことを今更憐れむとは思えなかったし、なんとなく、そんなことを言いたいわけではない気がして、ますます混乱が広がる。

「お気の毒様」

混乱に満ちる私を抱えたまま、三角は私の視界をその大きな手で隠した。
疑問の声を上げる前に、ウサギの断末魔が聞こえて私は三角の気遣いに感謝した。

三角の手からは酷い血の匂いがしたのに、対して気にならなかった。


◆クロロホルム

常温では無色で、甘い味を有し、強く甘い芳香をもつ液体である。多くの有機化合物をよく溶解する。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、一般的な吸入麻酔薬として外科手術の際に利用されてきた。その後、より高い安全性を持つものに置き換えられた。

中枢神経に作用するため、その特性を逆に利用して麻酔剤として利用されてきた。
しかし大量に吸入すると血圧や呼吸、心拍の低下を引き起こし、重篤な場合は死に至る。
また呼吸器、肝臓、腎臓に影響を与えることが確認されており、発がん性も疑われている。


(Wikipediaより引用)


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