紳士と車


自分の横には、何時も悪趣味極まりない漆黒のベンツが停まっている、だのに今日は、漆黒のレクサスだった。
俺は、誰か他の奴が停めたのだろうと気にも止めず、其の漆黒レクサスの横に真っ赤なシボレーを停めた。
「お早う御座います。」
「お早う、木島。」
午前八時半、九時から活動を始めるには丁度良い出勤時間である。始業前に気持ちを切り替える為、課長は特徴的な三つ編みを解いた儘机の整理をする。こうして見ると、課長の私生活を覗いているようで、なんだか嬉しい。課長が三つ編みを編み始めた時、此の捜査一課の一日は始まる。其れが大体九時五分前。
俺は自分の席に鞄を置き、横…悪趣味ベンツの持ち主の席を見た。
何故か判らない、如何言う思考回路なのか聞きたいが、此の席の主、加納馨という後輩でコンビの男は、約束すると必ず、約束の時間に自宅を出る…という摩訶不思議な行動を起こす。流石に出勤の時は九時前に来るのだが、大概何時も二分前とかである。なので課長の髪を解いた姿を、六月に配属されてから十二月迄の今の一度も見た事は無い。
八時四十分、当然姿がある筈無い。
如何するんだろう。
車である。
俺の横にはきちんとレクサスが停まる、基本的に場所は決まっていないのだが、大体が場所を決め駐車する。
赤い車の横にある漆黒の車は一課の加納刑事…と皆暗黙の了解で、好き好んで其処に停める奴は居ない。
違う、俺が嫌われてるんじゃない!加納が嫌われてるだけ!
最も、此の世谷署でSクラスベンツに乗る悪趣味な男は加納しか居ないが。署長も確かにベンツだが、クラスが違う。
前に一度、其の加納の場所にニッサンの可愛いマーチが停まって居たのだが、加納の怒りようはまあ酷かった。其のマーチを所有物だと思われた加納は其の持ち主…交通課の可愛い女なのだが、にしこたま嫌味を放っていた。一寸意味不明だが。
確かに、普段ベンツに乗るプライド高い加納が、ニッサンと間違えられたのは可哀想ではあるが、何故怒るのか判らない。其の女は泣き乍ら車を動かし、オレンジのマチ子可愛いよ、と慰めてやった。其の女は俺より先に出勤し、俺が何処に停めるか未だ把握出来ない新米だった。
此の出来事があるから、誰が好き好んで、態々、俺の横に車を停める。
だからだ、あのレクサスの持ち主可哀想…と思ってしまう。
レクサスなのが救いだった。
此れが若し、乗用車以下の軽自動車であれば…、恐ろしいので考えるのを止めた。
机の整理が終わり、クイックルワイパーでフロアを掃除する課長、誰か他の者がすれば良いのに、一課で一番偉い課長が掃除する。其の姿を見て、全員が身の回りを掃除するので良い話ではある。
何故課長がするか。
只単に掃除が好きなだけである。
五分程でフロア掃除が終わり、髪を纏めていたヘアクリップを課長は外す。
広がった髪から良い匂いがするんだ、本当に。
此れ迄で大体、八時五十分である。
座った課長は三つ編みを編み始め、良し、と鏡で見た時、加納が現れた。
「お早う御座います、木島さん。」
「…お早う…?」
普段と変わりなく席に着く加納。気味が悪い。てっきり怒り狂っていると思っていたのだが…。
「御前、車、停めれた?」
窺うように聞いた俺に加納は、書類を開く手を止め、俺を見た。
「そう、仰いますと?」
意味が判らないと首を傾げる加納に、俺の前と斜め前に席を構える井上と本郷が首を伸ばし見た。
此の二人も、俺と同じ疑問を抱いていたらしかった。
「レクサス、停まってたろ?」
聞いた俺に、嗚呼、と加納は云い、アレはワタクシのですよ、と書類を広げた。
「え?」
「あっはっは。」
課長が何故か笑った。
「ベンツにレクサス…、御前どれだけ悪趣味なんだ、幹部ヤクザ御用達の車ばっかじゃないか。」
あはあは、と課長は笑い其の儘、ガイズ、今日も一日頑張ろう、と九時一分を知らせた。
「アレ、加納さんのなの?」
井上が聞いた。
「はい。何か…」
「へぇ…」
BMWを愛車とする井上と本郷は、悪趣味過ぎて話にならん、と顔を逸らし合った。
「何で俺より先に来てたの…?」
何時もギリギリの癖に、其れに姿もなかった。
免許更新…?いや違う。此奴は三月生まれである。
車が違うのも不気味だし、俺より早いのも不気味だ。
すると加納、苦々しい顔で首を掻き、時間を間違えた、と呟いた。
「一時間、間違えて出勤したのですよ…」
「俺より先に来たぞ、此奴。」
あはあは課長は笑う。
「九時台にしては妙に車が少ないなぁ、とは道路で思って居たのですが、まさか時間が違う等…」
詰まり加納、八時半に目覚めたと思い込み(加納曰く起床時刻は七時から半の間)、慌てて出勤した。本気で遅刻したと思っていた。
「もう、可愛くてさ、夜勤の奴等もぽかーんとしてさ、泣きそうな顔でお腹空いたって云うから、夜勤の奴等と一緒に食事に出してた。此奴、夜は食べないらしいんだ。」
「馬鹿だな、御前。鏡だけじゃなくて時計も無いのか。」
「時計は、流石に御座います。」
ほら、と腕に回る時計と電話を俺の睫毛スレスレに寄せた。
そんなせんでも見えるわ。
早く出勤した理由、其れは良く判ったが、問題は車である。
「何で違うの。」
悪趣味には変わらんが、御前はベンツに乗っていれば良いんだ。御前にはベンツが似合いだ。嫌味の如くSクラベンツに乗っていろ。そうして俺のカマロを安物なんだかんのアメリカーノと鼻で笑えば良い。
「何故…?何故と聞かれても、ワタクシの持つベンツは左ですし。」
判らん。
左ハンドルなのは知っているし、何故今更そんな事を云うのか、俺もだが、課長と本郷も首を傾げた。
唯一人、井上だけが、嗚呼ね、とニヤついた。
「今日、デート?」
「え!?」
井上の声に加納は素早く顔を上げ、ノンフレイム眼鏡のブリッジを触った。
なんだ此奴、頬赤らめきもいな。一層キモい。
「やぁだぁ。課長、凄い紳士が居る。」
井上は一層ニヤつき、理解した課長も肩から流れる三つ編みを撫でた。
「おやおや、だったら今日は早く帰さんとなぁ?」
「明日、休みじゃなくて、良いのぉ?」
「おお、そうだな、休みが良いか?ん?何時に起きるか知らんが。朝はゆっくり、したいだろう?」
んー?と課長は斜めに流す身体の上体を机に乗せ、乗り出した。
因みに此れはセクハラに値するので、聞いてはいけない。
「如何言う意味だ?」
色恋事にてんで無知な本郷は聞く。
実云うと、俺も良く判って居なかったので、便乗した。
デート、だから右ハンドル。
此れが判らない。女に最初のデートで、悪趣味、私迄悪趣味だと思われる、と貶されたのだろうか。
「日本の車線は、右か?左か?」
課長に聞かれた本郷は、左です、と答えた。
「詰まりそういう事。」
「紳士ぃ、加納さん紳士ぃ!」
全く理解出来ない俺達は顔を合わせ、其の儘課長を見た。
「何?如何言う意味なの?」
「課長、本当に意味が判りません。」
課長は呆れ顔で鼻筋を掻き、本郷は仕方無いが、木島、だから御前はもてないんだよ、と痛恨の一撃を食らった。
「此れが判らんのなら、御前、結婚は諦めた方が良いぞ。」
心底呆れる課長は立ち上がり、ホワイトボードに線を引いた。
「日本は、左車線。」
カツカツとマーカーでボードを叩く。
「うん。」
「詰まり歩道は左だ。」
「嗚呼、そういう事か!」
本郷の声に、流石本郷、成る程木島、モテん筈だ、と未だ理解しない俺に課長は呆れようが無い程呆れ果てた。
「えぇ…、何よ…」
「本気で云ってるなら、御前死んだ方が良いぞ。世の女性の為。御前のシボレー、左だろうが。」
「そうだよ?だから何?」
「本郷が理解出来なかったのは、此奴のBMが右だから意識しないんだよ。」
「木島さん、呆れるわ。一寸真剣に考え改めた方が良いぜ。」
井上の言葉に信じられない傷を知った。
「アンタさ、女を車に乗せる時、何考えて乗せてんの?」
パンツ見えるか見えないかしか考えてねぇの?と聞かれた。
「ち…違う…」
「良いか?女を一人で乗せるにしてもよ?アンタ、車線に女出す気なの?マジかよ、ヤベェぞ、アンタ。」
其の言葉に、あ、と思い、だから俺はもてないんだ、と頭を抱えた。此処迄云われないと気付かないのが問題なのだ。心持ちの問題なのだ。
「あー、駄目だ木島、本気で危うい。如何したら良いんだ。」
課長の声に再起不能、涙迄出て来た。
「加納が凄い紳士に見える。木島がとんでもない鬼畜に見える。」
「唯でさえ、紳士なのにな、加納さん。」
「デートの為に右ハンドルを動かす紳士だ、どうせドアーも開けるだろう。」
「はい。」
「其れで自分は、女の後ろに立って、上、手で覆ってるだろう、女が頭打たないように。」
「皆さん、そう、されないのですか…?」
「するよ、皆。其れが、女を車に乗せる時の、男がすべき最低限のマナーだ。出来ん男は、最早女を車に乗せる資格は無い。然も左車線で左ハンドル…話にならん。女を死なす殺人鬼だ。どうせ女も女で、頭空っぽの左ハンドルに浮かれる足から車体に入るような品の無い女だろう。」
「え…?足から、入ら……え?」
「話にならん。ホンットに話にならん。」
呆れ返る八つの目、課長等呆れが越し、怒りさえ見せていた。加納には漏れなく鼻で笑われた。
「本人が本人なら、女も女だな。」
「やっぱり俺、課長手本にして良かったです。マジで、課長の仕草真似し始めたら、女にモテる率が上がった。」
「御前がそんな心持ちだから、女が遊びとしか思わないんだ、いいや、思えないんだ。女はな、丁寧に扱えば扱う程、浮かれるぞ、馬鹿だから。金を全部負担するだけが紳士じゃないんだよ。洗練された女と付き合いたいのなら、男がジェントルマンになるしかないんだよ。レイディはな、洗練された男にしか興味が無い。淑女には紳士が似合いだ、売女にはホームレスが似合いだ。判るかね、木島君。」
決して御前のような男では無い。
辛辣な言葉に俺は言葉が無く、気絶しそうだった。
「此処に居る女刑事、良く聞いておけ。此処は軍隊じゃない、一般の目がある場所だ。こんな男共が溢れる職場でも、常に女であれ、絶対に女を捨てるな、俺達男から意識されなくなったら、其れは男だ。タイを締めて来い。だから…」
きちんと化粧はして来い、其れが成人女の最低限のマナーだ、と化粧っけ無く少年っぽい姿格好をする女刑事に課長は向いた。
「御前は、ゲイにも相手されんぞ。断言出来る。御前は男っぽ過ぎる。」
「酷いです…」
「そんな男っぽい格好だから男に意識されず、だからと言ってゲイの女共にも相手されない。だって女が好きなんだから、女らしくないと相手にされないぞ。化粧しない女に興味は無いぞ。」
「あたし、ゲイじゃないです…」
「だったら尚だ、男の目を意識しろ。」
そして御前、ともう一人の女刑事に課長は向いた。
彼女は薄く化粧をする。
此処で此の二人を比較して見る。
男っぽい刑事をA、もう一人をBとする。
Aの靴はスニーカー、Bは走れる程度のパンプス、髪型はショートと同じだが、Aの方は唯切っただけ、Bはきちんとセットされ、片耳を出している、服装は同じパンツスーツ。
彼女達は“ボーイッシュ”で区切って仕舞えば其れ迄なのだが、根本が違う。Bには矢張りボーイッシュという言葉が似合うのだが、Aははっきり云って、ボーイ其の物なのだ。
「木島。」
「はい。」
「デートに誘うとしたら、“誰”が良い。」
唐突な質問に俺は困惑したが、Bと答えた。
「ふぅん。」
「え、何?」
「加納は?」
「ワタクシ、ですか?」
「そう。御前は、“誰”が良い。」
加納は暫く考え、そして聞いた、此のお二人だけですか、と。
課長は其の問い掛けに獅子の笑みを浮かべ、モテる男は違う、と静かに歩き、もう一人…Cとしよう、其の女刑事の両肩に手を乗せた。
「此奴、だろう?」
「はい、はいそうです。彼女が一番女性として点数が高いです。」
「木島、俺が何時、此の二人から選べと云った?」
「え!?」
「which、とは俺は聞かなかった。who、と質問した。そして御前は案の定二人から選び、加納は、見事だ、質問で返して来た、女がもう一人居る、とな。其れが此奴だ。敢えて俺は此奴を出さなかった。何故か、一番女らしいからだ。三人で並ばせた時、男の目が集まるのは此奴だから。」
「木島さんはアレですね、奥を考える能力が無いのですね、目先だけというか。」
「そうだ加納、俺は其れが云いたかった。」
だから左車線の国にも関わらず左ハンドルに乗り、女を乗せるんだろう、ともう此れ以上虐めないで欲しかった。
「御前、信号無視の阿保が突っ込んだらどうする気だ。右に乗る女が死ぬぞ。御前は助かってな。」
「恨まれますよ、御相手の御両親に。」
「俺が其の娘の父親なら、毎夜毎夜貴様の枕元に立ち、御前が死ねば良かったのに、と云ってやるな。」
爽やかな笑顔と台詞が合って居ない。
「加納は本当に頭が良くて紳士だな。右ハンドルを動かすのには驚いた。うん。上司として鼻が高い。完璧だ。」
だったらもう、日本海軍みたく、徹底した紳士教育をしたら良いだろう、と思った。
「ライダーの課長が云うの?」
少し反撃してみたが、鼻で笑われた。
「女は乗せん。事故って死んだら申し訳無いで良いが、傷…特に顔にでも付けてみろ。俺が精神的に死ぬ。申し訳無いで済まされんぞ。死んだら其れで終わりだが、傷は一生残る。其の傷と共に女は残りの人生を生きるんだぞ。そんな人生可哀想だろう。」
課長素敵、とCが立つ課長の腰に抱き着いた。
「くふふ、御前本当可愛いな。」
「もっと云ってー。」
「唯のぶりっ子じゃん!」
「そうですよ、課長!」
「化粧して出直せ、坊や。」
「酷いです!」
「俺は御前が一番好きだけどな。」
其の言葉にAは、よっしゃあ!ざまあ!等と男らしく叫び、其れだ其れ、其れが女を捨ててるというんだ、と全員思った。
忘れているかも知れないが、課長はゲイである。詰まりそう云う事。Cは女としてかなり高レベルではあるが、課長の趣味では無い。
中間に位置するBは少し不貞腐れて居た。
「なんでですか!何が悪いんですか!」
「悪い、なんて云ってないだろう。御前も充分可愛いぞ。ボーイッシュで可愛い。」
「なんで?彼女も私と変わらない薄化粧じゃないですか!」
Cもパンツスーツに薄化粧、長い髪はヘアクリップで一つに纏めてある。
課長は困ったように鼻筋を掻き、眼鏡を外した。
「此奴はTPOを弁えてるんだよ。加納は其れを含め、一番レベルが高いと云っているんだ。」
「そうですねぇ。」
「此奴、確かに今はパンプスにパンツスーツだが、此れは態々此処で着替えてるからな。」
「え…?」
其の言葉に全員黙り、Aは珍獣でも見る目でCを見た。
そら御前は、顔洗ってケアして着替えてさあ行くぞ、だろうが。
「何時もスカートだよな。無駄に高いヒール履いて。」
「はい。」
「帰る時はきちんと化粧して、スカートと靴を履き替える。遊び行くのか?って聞いたら、違う、バスに乗るから、が理由だった。バスは公共機関だろう?必要最低の格好で乗らないと無礼に当たると思ってるんだ。」
こういう女が加納みたいな紳士にモテるんだ、と頭を撫でた。
面白くないのはAとBである。
俺も少し面白くない。
「なのに御前、恋人居ないな。」
「えへへ、何故ですかねぇ。」
「本庁に行ったら、エリート共に群がられるから大丈夫だけどな。」
嗚呼、そうですか、良かった良かった良かったですね、早く試験受けて消え失せろ、と面白くない俺達は思った。
「おお、御前!俺のカマロに乗せてやるぞ!」
「課長、木島さんから殺人予告が来ました。怖ぁい。」
「よしよし、パンツ見せてやれ。殺意が吹き飛ぶぞ。」
「見ます?木島さん。ほらぁ、痴女ですよぉ。」
「いや、良い…」
「俺見たぁい!」
「井上さんは駄目ぇ。」
「なんでだよ…」
笑うだけ笑った課長は席に戻り、もう十時か、御前等仕事しろよ、と誰の所為でこうなった?と聞きたい。
「レクサス…ATか?」
「はい。」
「ATなぁ…」
「駄目ですか?AT…」
駄目ではない、と課長は云う。抑に国産車のレクサス、純正MT車が無い。国内で生産される車、ほぼAT車だと思って良い。MT車に乗りたければ、AT車が出回る前の世代で探さなければならない程、MT車の需要は無い。
「MT少ないもんな。」
「いえ、敢えてワタクシはベンツもATにしております。」
「え?なんで。」
井上が聞いた。
加納はううんと唸り、だって、ねえ、と俺を見た。
え?なんで俺を見るの?俺はMT車なんだけど。
「ワタクシ、左利きですもん。」
「おお?ワタクシも左利きですが!?」
と同じ左利き、且つ右ハンドルに乗る本郷が突っかかった。
「でしたら尚更、右ハンドルの場合、ATにする理由が判るかと。」
「うん、済まん。全然判らん。」
「利き手側に女性が居ります。」
「うん?うん。」
「ね?もうお判りでしょう?落ち着くんですよ。」
此奴は何を云ってるんだ、と一層眉間の皺を濃くさせた本郷。俺も良く意味が判らない。
駄目じゃないか、俺達。
「嗚呼ね!」
判るのが井上であり、
「…嗚呼、あはは。加納、意外と助平だな」
と云うのが課長である。
「ち、違いますよ…、そっちではありません…」
「あー、やだぁ、加納さん、えっちぃよぉ?未だ昼前、早い早い。」
「全く御前は本当に、期待を裏切らんなぁ。」
此奴等は何に就いて話しているのか、全く判らない俺達は見合った。
「ですからね、課長、違います。」
「違わない違わない、加納は明日休み、と、腰が痛いから。もう、足腰が立たんらしい。」
「いっひっひ。且つ寝不足も加えてて下さいよ、課長。ワタクシ、寝不足で視界不良で御座います。木島さんの顔が見えないのが救いです。ええ、全く全く、有難い。」
加納の真似をし、眼鏡も無いのにフレームを撫でる仕草をする井上に、本郷が笑う。
「セクハラに値しますよ、もう…」
「へえ?じゃあ、理由を云えよ。俺達の考えとは違う云う理由。」
ニヤニヤと加納を虐める二人、参加出来ないのが悔しい。
加納は押し黙り、暫くの沈黙の後、さ、仕事しましょ、と逃げた。
「ほぉらな、見てみろ。」
「やぁらぁしぃい、加納さん。」
「はいはい、どうせワタクシは厭らしいですよぉ。女性と猫が、だぁい好きです。」
「開き直ったぁ。課長、開き直りやがりましたよ、此の能面。」
「…俺も久し振りに今日、ドライブ行こうかな、車で。」
「生々しい、課長が云うと生々しい。」
「え?ジャガー、で…?」
俺は馬鹿なのか。課長の車はニッサンのフーガで、ジャガーに乗るのは又別の男であった。其れもかなぁり、禁句の男。
「殺すぞ、御前。何が良くてジャガーに乗らないといけないんだよ。其処はクラウンだろうが。自殺しろ。投身自殺をしろ。此の建物は九階だ、今直ぐ屋上行って来い。下で待っていてやる。」
巻き舌で威嚇された。
「霊柩車呼んどくわ。」
「先に警察呼んで…」
「煩い、早く屋上行け。」
結局如何言う意味なの?と加納聞くと、こんなお馬鹿さん見た事ない、と言わんばかりの顔で溜息を吐かれた。
加納は開いていたファイルを閉じ、机に立てて上を持った。
「此れ、ハンドルの代わりです。」
「うん。」
何を此奴、笑顔で俺の右手を握っているんだ、然も恋人繋ぎで。
「ね?」
ね?、では無い。
余りの気持ち悪さに、勝手に口角が釣り上がる。
「おやまあ。」
「此処迄されてATの理由が判らんとは、木島、投身自殺した後、焼身でもしたら如何だ?」
「課長…、なんで此の能面は、爽やかな笑顔で、俺の手を握ってるの…?馨し過ぎるよ…」
引き攣り過ぎて、頬が痙攣を始めた。
其れを見ていたCが、やぁだ、やらしい、と笑う。
「ふふ、今度乗せて差し上げますよ、レクサスですがね。」
「んふふ。目一杯お洒落してきまぁす。」
「んっふふ。可愛い。」
「ほぉらな、此奴にはちゃぁんと判るんだ。」
だから誰か教えてくれ、ATに乗る、其の理由を。
「本郷、判った?」
「はい。はは。」
駄目だな俺、一生結婚出来そうにない。




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