薔薇が赤い理由


全く本当に、良くそんなの見付けて来るよね?とバー ローザのマスター、ヘンリーは顔半分を手で隠し、拓也を見た。
拓也の手に持たれるのは凡そ五年前…ヘンリーが未だイギリスに居た頃の、ゴシップ焼き増しDVDである。
今では日本でバーテン等しているが、拓也と知り合った十八歳の頃から二十三歳位迄イギリスではかなり名の知れたモデルだった。知らない奴は余程世間に疎いか、情報機器が無いか。ヘンリーが表紙の雑誌は店頭に並べば一時間後には消え、三日もすると書店から一切の姿を消す…其れ程のモデルだった。
其処迄売れたのは顔や経歴だけでは無く、特殊なモデルであったから。
ヘンリーは、勿論男である。然もゲイ。然しまあ、イギリスでゲイのモデル等そんな物珍しい者ではない、四割のモデル何かしらゲイをカミングアウトし、バイセクシュアルを含むと其の数値は跳ね上がる。
月光のようなブロンド、エメラルドのような目……日本では珍しいがイギリスでは普通、然しヘンリーの美貌が他のモデルより桁外れなのには理由があった。
ヘンリーの母親が此れ又、ナイトの称号を持つ大女優なのである。其の看板を引っ提げヘンリーは業界入りした。
当然、デビュー前から名前は一人歩きし、業界人達の意欲を燃やした。ヘンリーの母親は徹底したパパラッチ嫌いで、此処迄の大女優にも関わらず…いや、だからだろう、一切のプライベートが世間に知れなかった。息子が四人居るのは産休の事情で皆知るが、息子達の顔は一部の業界人しか知らなかった。
だから、早く見たかった、当時で十九年前、突然舞台を降板する理由になった其の赤ん坊の顔が。
ヘンリーは此の大女優の長男である。
もっと早くデビューさせろと周りに散々云われたが、十八迄は、親が責任を取らないで済む迄は絶対に何があっても、此の業界に私の目がある限り出さない、と母親が云った。
満を持して、と云う言葉が此処迄似合う二世は居なかった。
大概の有名人は、一般に子供の顔が知れている。親側が弁護士に其処迄金を掛けず、徹底した厳守主義では無いのだ。ヘンリーの母親は、他芸能人家族やセレブと此処が違ったのである。
十八歳の誕生日、宣伝費用日本円にして約一億、其の膨大な資金でヘンリーはイギリス全土に顔を晒した。あの大女優の二世として。
此れが又そっくりなのである、母親に。
若かりしき頃の母親を知る男達や、母親を世界一の美女と崇拝していた女達から、女神が降臨した、と歓喜され、ティーンエイジャーには唯単に其の美貌で持て囃された、人形みたいだと。
そうヘンリーは、モデルでありながら一七〇センチしかない身長を生かす為、敢えてレディースモデルとして立場を決めたのだ。其れでも雑誌モデルよりは幾らか小さいが、メンズモデルの中で埋もれるよりマシだった、此れはヘンリー自らが決めた。
女以上に美しく、且つ、ゲイ……此れにミーハーなティーンエイジャーが食い付かない筈が無かった。
大好きなのはニホンとアニメ、ニジゲンサイキョウ、俺はニジゲンになる、と雑誌で答えた、生粋のオタク。群を抜いて好きなアニメが“ワンピース”であり、チョッパーが死ぬ程好きである。なので毎回、チョッパーのぬいぐるみや何かを持って写真に写っている。ファンから貰って一番嬉しかった物は何か、と聞かれた時、ニホンで売ってるチョッパーのハット、と答え、旧式のピンクと新世界からの水色を披露した。

――此れカワイイでしょ!?
――なんだい、此れ、此の茶色いの…
――角だよ、角が帽子から出てるんだ。
――角!?そうか…。彼?
――そ、彼は男の子なんだ、とっても可愛いね。
――判った…、ええと、此れは鹿?
――違うよ、トナカイだよ。人語を話すトナカイ。
――(一同爆笑)
――誰よりも優しい心を持つトナカイだよ。

此れが全国放送で流れたのだから凄い。
其の後ヘンリーは此の帽子を被り、物陰から覗くチョッパー往年のアレをやり、ウレシクネーゾ、コンニャロー、コンニャロメー、と日本語で披露し、観覧者と司会、茶の間を沸かせた。
ヘンリーを見ない日は無かった、何処に行ってもヘンリーの顔はあり、ヘンリーの顔を見ない場所を探す方が困難だった。
然し、モデルの命は、正直短い。パリコレで専属モデルをすれば話は別だが、生産消費性の一過的な物にしか過ぎない。
母親は其れを良く知って居たのだが、ヘンリーは何処迄も子供で、未だ未だ大輪を大衆に魅せられる時期だったにも関わらず、自ら枯らした。
薬物と云う、史上最悪の農薬で。
二十歳でコカインの快楽に溺れ、其の儘墜落した。
五年という短い時で、薔薇は根元から腐った。
コカインとセックスに溺れ、自らの地位を奪い去った。
誰の所為でもない、ヘンリー自身が、自分を枯らしたのだ。
度重なるスキャンダルにヘンリーの信頼は失せ、ドラッグ狂のモデル達とつるんだ、其の裏…いいや表で、あの大女優は大衆の前で息子の非行を詫び、母親はヘンリー以上のバッシングを受けていた。なのに、ヘンリーのドラッグへの意欲は失せなかった。当然仕事は激減し、最後には業界を追放された。私が管理出来なかったから、と何の非も無い母親の、其れ迄血反吐の思いで築いた地位や名誉迄をもヘンリーは愚行で剥奪し、親子諸共業界から消えた。
五年前…ヘンリーが業界から追放された時期と重なる。拓也の持つDVDに、失われた、ほんの少し前の輝きを見た。
ヘンリーは息を吐き、拓也の前にウィスキーのグラスを置いた。
「何処で仕入れたんだい。」
「ま、大昔の伝手で。」
拓也からDVDを受け取ったヘンリーは其の儘パソコンに読み込ませ、店内のテレビに映し出した。
ハンディカムで撮ったであろう荒い画像、ボロボロの自分、五年前の腐った薔薇が其処には居た。酒とドラッグに酩酊し、パパラッチだか一般人だかに怒鳴って居る。

――ヘンリー、あっちこっち怪我してるけど大丈夫かい?
――嗚呼?煩いよ!喧嘩したんだよ、喧嘩!
――彼氏と?
――そうだよ!彼奴本当煩い、煩いよ!君も煩いよ!
――其れ、病院行った方が良いよ、脹脛から大量の血が流れてるんだけど。
――ん?嗚呼、此れ大丈夫。自分で切ったから。
――自分で切ったのか?
――虫、虫だよ。虫が居たんだって!で、うん…
――コカイン吸ったら消えた…?
――そうそう、そうだよ。

此処で一旦ヘンリーは画像を停止し、此れは酷過ぎるだろう、と項垂れた。五年前の自分はこんなだったのか、こんな醜態をクラブや一般人に晒していたのか。頭が痛くなって来た。
「御前、本当酷かったもんな。」
時差考えず、拓也が大学に行っている時間帯に届くメール、電話、そして夏休みに遊びに行った其の先。年を追うごとに酷くなり、最後は最早此れが、ヘンリーであるのか疑った。
あんなに綺麗だったのに、あんなに綺麗な薔薇だったのに……。
エメラルドは濁り、髪は使い古した箒のようで、なのに眼球だけは何よりもギラついていた。
自力に起き上がる事も出来ない程コカインに落ちている癖に、其の一時間後にはコカインを吸っていた。オーバードーズで病院に搬送され、出た其の先でコカインを吸った。心臓とて本気で一回停まった。其の時はモデル仲間が全裸でAEDを起動させ、病院に運ばれた。
此れ以上咲くのは無理なのに、枯れている事さえ、ヘンリーには判らなかった。

もう、休もう、ヘンリー…、もう、良いぜ、な…?御前、死んじゃうよ…

二十歳を過ぎて、拓也が泣いたのは此の時一回だけだった。呼吸を乱すヘンリーを抱え、必死に救急車を呼んだ。

――拓…也…
――御前迄死んだら、俺、如何したら良いの…、何もねぇじゃん…、御前迄失ったら、俺……
――拓也、御免…、俺、薬、止める…、次こそ止めれそうな気がする…
――約束だぞ、絶対、止めろよ…、じゃなきゃ御前の事、嫌いになるから…
――お願い、拓也。君だけは見捨てないでくれ…

知った薔薇の接吻、其れで立ち直れるなら安いもんだろうと、拓也は堕ちた。腐り切った薔薇の世界に咲く、一輪の美しい薔薇を見付けたかった。
誓った、拓也の漆黒の其の目に、絶対に立ち直り、拓也が記憶する美しさで又姿を現そうと。
快楽から地獄に突き落とされた。此の不快感は此の世の物では無く、コカインだったから良かったのか?いいや、世界最強ドラッグ・ヘロイン同等禁断症状地獄にヘンリー堕ちた。
気丈で居られたのは、拓也の漆黒の目。暗黒に吸い込まれる感覚の中で、何よりも黒い太陽を眺めた。眺め、浴び、再び薔薇を咲かせた。
去年の八月、パソコンに入ったメールに拓也の全身は粟立った――番号未だ変わってない?
名前は何処にも無かったのに、此れがヘンリーだと判った――嗚呼。
三年振りに聞いたヘンリーの声は、初めて聞いた時と何も変わらず、美しい薔薇が脳裏に浮かんだ。

――馬鹿、おせぇよ。
――あはは、御免。ねえ、今何してる?
――家で酒飲んでる。
――あ、本当?じゃあさ、一緒飲まないかい?俺、今日本に居るんだ。
――マジかよ、行くわ、瞬間移動で行くわ。

ビルの六階、見上げた拓也は熱風に浮かぶ満月を見た、其の月光の美しさに目眩がした。
薔薇は確かに存在した。
幻惑的な月光の中に、妖艶な薔薇はあった。

――やあ、拓也。いらっしゃい。
――…何時もので。

拓也がヘンリーの前で飲むのは決まってウィスキー、満月のように丸い氷に垂れる琥珀色の液体を拓也は眺めた。

――何で日本に来たんだ?店迄持って。永住する気か。
――永住…、嗚呼其れも良いね、考えておこう。日本に来たのはゲームする為だよ。
――は?

イギリスにも日本製のゲーム位あるだろう?と思ったが、筋金入りのオタク且つゲーマーなのを思い出した拓也はもう何も聞かなかった。

――御前、良く店構える程金あったな。
――嗚呼、財団の御曹司誑かしたんだ。あの財団だよ、アノ…

二次元より、薬より、犬より子供より、何よりもヘンリーが愛するのは、金。ニヤつくヘンリーの顔に、マジかよ…、と拓也は頭を抱えた。
寧ろ、イギリスに居れば先ず耳にする、イギリス屈指の財団の御曹司と良く知り合ったと思う。聞けば向こうからコンタクトを取って来たらしく、最初にコンタクトして来たのは父親の方…此の父親がヘンリーの母親崇拝者で、其処でヘンリーは御曹司を紹介された。其の御曹司が又、モデル時代のヘンリーを崇拝する一人の男に過ぎなかった。ヘンリーを見た瞬間、俺と結婚してくれ、とチョッパーのぬいぐるみと共に求婚したのだが、君は俺をずっと知ってるかもしれないけど俺は君を知らないから嫌だ、でもチョッパーは貰っとく、と瞬殺された。
其処から此の御曹司の求愛が始まり、最早ストーカーだった。ヘンリーの元には週一で必ずチョッパーの何かが届き、チョッパーを嫌いになりそうだ、とうんざりした。
機転は去年のヘンリーの誕生日だった、御曹司から何が欲しいと聞かれたヘンリーは、からかってやろうと百万ポンド(日本円にして約一億七千万)を要求した、然もキャッシュで。男は一瞬面食らったように垂れたブルーの目を見開いたが、其れを用意したら、少しは俺を見てくれるか?――一晩、一緒に過ごしてあげる――一時間、時間貰えるか?
男は秘書を従え足早に何処かに行った、阿保らしいとヘンリーは煙草を咥えた儘ゲームをし、気付いたら一時間経っていた。

――ヘンリー。
――待って、今良い所なの、邪魔するなよ。…はい、で何……

DSから顔を上げたヘンリーは、チョッパーの後ろに聳えるマネーマウンテンに卒倒した。

――キャッシュで百万ポンド、お望み通り持って来た。…誕生日おめでとう、ヘンリー。
――君は、底抜けの阿保なのか…
――何時デートしてくれるんだ?
――明日。今日はゲームの気分だから。

男は慌てて秘書の顔を見、翌日のスケジュールを確認した。運悪く、仕事が入っていた、何時も暇なのに。最もヘンリーは、男が其の日仕事なのを父親経由で知っていたが。

――明日…?明日は…、…駄目だ。明後日、なら…
――じゃあ、此の現金持ってお帰り下さい、ミスター。御機嫌よう。明後日の気分なんか判らない。

無慈悲にヘンリーは言い放ち、ゲームに集中した。
男は溜息を零すと、現金を其の儘に立ち去った。おい一寸持って帰れよ、と後を追い掛けたが、男の身体はリムジンにあっさり吸い込まれ、あんな大金俺に如何しろって云うんだ……裸足で地面を踏み、スモークウィンドウを叩いた。

――待って!
――何。あの金は御前にやるから、ゲームなりなんなり買えば良いよ。
――あのさ。
――うん。
――俺、此のリムジンに乗りたい。…明後日。

覚める程の青い目を、有難うと云う言葉と共に細めた。ヘンリーは、単に此の濃紺のリムジンに乗りたかっただけなのだが。
翌々日の七時、男は約束通り其のリムジンで迎えに来た。

――リムジンなんて、乗り慣れてるだろう。今更物好きだな。
――確かに怪しいパーティーは大体リムジンの中だったけど、此れ、ファントムだろう?乗ってみたかったんだよ、ロールス・ロイスのリムジン。俺達が乗って遊んでたのは…ええと何だっけ、アメリカの。
――…嗚呼、リンカーンだったのか。
――そそ、リンカーン。
――何でイギリス人が態々、ファントムじゃなくてリンカーンに乗るんだよ。
――ファントムより安かったんだよ。
――教えてやろうか、ヘンリー。
――なんだい?
――此の間やった百万ポンド…、其れで買えるぞ、ファントムのリムジン。此れ、確か、九十万ポンド(約一億五千万円)だったから。

車内を眺めるヘンリーはモエを傾ける男に向き、ラベンダー色のリムジンってあるかい?、と男の笑いを誘った。ヘンリーの好きな色がラベンダー色なのだ。

――君、何でそんな安いシャンパン飲んでるんだい。大富豪の癖に。
――其処に転がってたんだよ。昨日の残りじゃないか?知らんが。誰が乗ってたかも覚えてない。
――煙草吸って良い?
――どうぞ。一本毎に一ポンド払え。
――一昨日貰った金で払うよ。
――…ラベンダー色のリムジン買うんじゃないのか…

吐き出た煙は面白いように一瞬で消え、咥え煙草の儘猫のように車内を詮索した。五分程で詮索に飽きたヘンリーは男の横に座り、フルートグラスを傾けた。
何の話をしたかは覚えて居ない、互いの話をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。二時間程話し、シャンパンを二本開けた、リムジンは何処を走っているのだろうか。

――何処に向かってるんだい?
――ロンドン。
――ロンドン!?

冗談で云った現金百万ポンドを用意する所と云い、車でロンドンに向かう所と云い、此の男は矢張り底抜けの阿保なのではないかとヘンリーは疑った。
ヘンリーの自宅は北部イングランド最大都市(と云う割には何も無い)のニューカッスル・アポン・タインで、ロンドンとの距離は、飛行機で約一時間半、インターシティ(日本で云う新幹線)で約三時間半である。其処に車で向かって居るのだから、運転手の疲労は並大抵では無いし、ロンドンに着くのは何時の事やら……呆れていると、ニューカッスルの別荘に行く時は何時も此れ、と破天荒な事を云った。だからヘンリーの自宅にリムジンで来れたのだ。
ヘンリーはグラスを空にし、運転席との仕切りを開けた。

――引き返して良いよ…?
――あは、あはは。
――良いの、行け、ロンドンに。
――普通にニューカッスル一周とかで良いよ。俺、帰るよ!
――今丁度真ん中辺りなんだよ、此の儘ロンドンに行け。後一時間位でノッティンガムに入るだろう?
――はい。
――何で下に行くの!?上に行こうよ、スコットランド!其方の方が明らかに近いじゃないか!
――スコットランドなんかに用事無いもん。
――俺だって、ロンドンなんかに用事無いもん。
――ファントムで、タワーブリッジ、走りたくないか?此れ、上開くぞ。
――走りたい。
――良し、行け。其の儘ロンドンに突き進め。

男は仕切りを閉じ、其の儘クラシック音楽を流した。シートを倒し、寝転がり両手足を伸ばす男の横にヘンリーもうつ伏せで寝た。天井を見る男の鼻筋に人差し指を滑らせ、男は寝返り打ち、ヘンリーをきちんと見た。

――夢みたいだ。
――何がだい?

頬杖付いた儘男の髪や顔を撫で、其の青い目に触れた。男の黒い睫毛が指先に触れる。

――だって、ヘンリーが目の前に居る。ずっと、夢見てた事が、現実になってる。
――おいおい、御曹司の云う言葉じゃないよ。そんな凄い男じゃないよ、俺は。
――ずっと触れたかったんだ。ポスターじゃないよな?今。
――あー、君、ポスターとかにキスするタイプだね?
――嗚呼。毎日してた。起きた時と寝る前。
――大丈夫、本物だよ。

重ねた唇の隙間から、本物だ、と聞こえ、きちんと締まる男のタイに指を掛けた。クラシック音楽に絡まる男の吐息は何処迄も甘美で、ヘンリーの息も荒がった。

――此の儘好きにしてくれ…
――云われなくてもするよ。
――嘘みたいだ、ヘンリーが最初なんて。

其の言葉にヘンリーは、男を包むようにシートに流していた腕を伸ばした。

――え?
――俺、処女だぞ。
――君、ゲイじゃないのかい…?
――いや、ゲイだぞ、生粋の。昨日もヤッた。でもキング。クィーンは、生まれて此の方した事無い。
――一寸、冗談だろう…?

ヘンリーは其の儘身体を離し、口元を隠すと男を見た。
まさか、処女だったとは…。
ヘンリーの態度に男も同じに起き上がり、肩に下がるシャツを整えた。

――処女…駄目だった…?
――いや、駄目…じゃないんだけど、駄目だよ…、こんな、車の中とか…
――セックス自体は嫌って程してるから、問題無いぞ。
――そう云う問題じゃなくてさ…

縋るような、求めるような男の青い目にヘンリーは眉を顰め、然し如何したら良いのか、互いの下半身は変態していた。

――判った、ブロージョブしてあげる。
――なら、もう、ヤッてよ。
――無理無理無理、君みたいな御曹司の最初をこんな場所で貰ったら、君の父親に殺される…
――何処だったら良いんだ…?
――ううんと、ムードある場所、かな…?
――今、ムードあるけど。
――車は駄目。ベッドの上が良い。シャワーがちゃんとある場所。

男の手は、ヘンリーより一回り大きかった。
男はヘンリーの指先に唇を落とし、又シートに寝転がった。其の儘シャツのボタンを自分で締め、タイも直した。
青い目が、細まる。

――…百万ポンドの価値はあった。いや、足らん位だ。自宅に帰る時、又百万ポンドやろうか。
――あれ、冗談だし、持って帰ってくれるかい?
――良いよ、好きに使え。
――あのさ、百万ポンドとか、俺、一生働かないで暮らせるよ…?判ってる?二十七で、もう働かないで済むんだよ?
――だったら、そうすれば良いさ。其れで、偶に俺とデートしてくれ。
――もう、判んないかなぁ…

男に言葉は通じないのか、ヘンリーは不安を覚えたが、男が笑う度、感じた事のない安堵感を知った。此の安らぎは何処から来るのだろう、男の青い目にヘンリーの全身は水中に浮かんでいるようだった。

――愛してくれなんて云わないさ、ヘンリー。唯、少しで良い、御前の視界に俺を入れてくれ。俺がずっと、そうして来たように。
――じゃあ、毎朝、起きたら俺にメッセージを頂戴。俺は其れを見るから。

シートは起き上がり、グラスの中で気泡が浮上した。
此れが、始まりだった。
聞いていた拓也は、詰まり御前の現在の職業は御曹司のジゴロなのな?、とウィスキーの入るグラスを傾けた。
「失礼だな、バーのマスターだよ。」
「其の百万ポンドで、生きてるんだろうが。」
「まあ、ね。」
「此処、買ったの?」
ヘンリーは濡れた手を拭きながら、首を傾げた。
「と云うか、此のビル自体が、俺の物なんだよ。」
「はい?」
良く良く聞くと、ヘンリーが日本に行くと云った時、其の御曹司が、偶然に丸々一棟売りに出されていた此のビルを買い取ったらしいのだ。そして、此のビルにテナント構える店舗からの家賃をヘンリーに与えている。
詰まり、金と暇を持て余した御曹司の遊びなのだ。
「あ、でも俺、雪子から家賃は貰ってないよ?彼女も、俺と同じに苦労してるから。」
雪子……此のローザと同じフロアに店を構える、バー ミッドナイトキャットのミストレスの名である。其の雪子も又、十代の頃は酷いコカイン中毒者で、売春と薬を繰り返し、ヘンリーと似たり寄ったりな人生を歩いて来た。底無しに男運が悪く、付き合った男は消える時何故か何時も、雪子の通帳と共に消えた。
其の被害総額何と五千万円、洒落にならないのである。
暇があると此の二人は何方かの店で暇を潰し、雪子曰く、男は私から金を奪って邪悪な行く生き物、…ヘンリーが同情しない訳無かった。コンビニで男の店員から釣り銭を少なく受け取った時も、ほらね、男は何時も私からお金を奪うのよ、と腐していた。
聞く拓也は、彼奴未だ二十三だろう?、と雪子の短くも濃厚過ぎる人生を嘆いた。
「でもまあ、御前もだけど、雪子もあれじゃねぇの?」
「ん?」
ナッツ類を入れていた小皿、空になったので引いた。吸い殻の溜まる灰皿に新しい灰皿を重ね、引いた。咥えた拓也の煙草に、拓也のジッポーで火を点け、ヘンリーは態々マッチで火を点けた。
「御前は、あの御曹司を垂らし込んだ、雪子は……」
ドアー越しにも聞こえた雪子の嬉しそうな声。拓也には不愉快極まりない“其の声”だが、雪子には何物にも変えられない魔法の声だろう。
硝子の靴を生み出す、其の魔法の声。

雪子ぉ、会いたかったぞぉ!――和臣さぁん!

椅子から下り、ドアーからこっそり廊下を覗く、世の中クソ面白くないと云わんばかりの拓也の表情にヘンリーは笑う。キリキリと、本当に楽しそうに笑う。
「終わり良ければ全て良し……てな?」
稀に見るシンデレラ・ストーリー。イギリスの地で、日本の地で、今日も繰り広げられる。
「和臣、金持ちなんだろう?」
「木島さんがバックに付いたら、一生安泰だ。全力で、雪子を守るぜ。二度と、落ちやしねぇよ。」
堕ちても良い、人生狂わせたって良い、クソみたく這い蹲っても、他人から唾吐き捨てられようが、最後の最後に笑えば、其れだけで人生儲けもんだ、人生に価値がある……、拓也の言葉に、ビールの栓を抜いたヘンリーは笑う。
響いた電子音、ヘンリーはiPadに向いた。
イギリスと日本の時差、凡そ九時間……イギリスではティータイムの時間。日本の日付けが変わる頃、毎晩メッセージが届く。そしてヘンリーが眠る時、あの御曹司も仕事が終わる頃合いで、ヘンリーは御曹司の声を聞きながら眠る。
「おっと失礼、邪魔か?向こうに行けないんだ、寄せてくれ。」
月光(ブロンド)よりも輝く其の白髪(ハクハツ)、iPadを見ていたヘンリーの真っ白な頬が赤く染まった。
薔薇を咲かすのは何時だって、男達からの愛情で、色が付くのは、そんな男達への愛情。
今度は何色の薔薇になるんだろう……真紅のワインを傾ける課長を眺めるヘンリーは思った。




*prev|1/1|next#
T-ss