ヴァレンタイン デイズ


警視庁科学捜査研究所、出勤した物理担当の橘侑徒は一目散に主任である法医担当、菅原宗一のデスク前に立った。
「はい、先生ぇ、いっちばん大っきいのです。ハッピーヴァレンタイーン。」
垂れた妖艶な目を一層妖艶に細め笑う侑徒は、チョコレートの入る箱を宗一に差し出した。新聞を読んでいた宗一は顔を向け、大きに侑徒ちゃん、と笑顔で受け取った。
二月十四日、日本中の女子が浮かれる日である。尤も、侑徒は男子だが。でも良いのだ、此れが、世界のヴァレンタインの姿である。
「時一先生ぇ。」
心理担当で宗一の弟、時一のデスクに其の儘向かった侑徒は、二番目に大っきいのです、と宗一より一回り小さい箱を差し出した。
宗一の次に此の科捜研で権力を持つのが時一で、大きさといい渡す順番といい、計算された侑徒の行動に宗一は笑う。
ヘッドホンを付けていた時一は侑徒の気配に向き、ヘッドホンを肩に掛けた。
「ん?…嗚呼、有難う、橘さん。」
「時一先生ぇは、クッキーです。甘いの、確か…お好きじゃないんでしたよね…?甘さ抑えた物を選んだんですけど、お口に合わなかったら、本当、大丈夫です、気持ちですから、捨てて下さい。」
「はは、有難う。大丈夫、食べるから。僕の妻は、菓子作りが趣味ですから、クッキー程度の甘さなら大丈夫です。…やだ此れ、一寸、ゴディバじゃないですか。なんか済みません。」
「時一先生ぇですから。」
「なんか悪いな。有難う御座います。有難く、頂きます。」
流石にケーキや、チョコレートの甘さは無理だけど、と机に置いた時一は其の儘ヘッドホンを付け、パソコンの打ち込みを再開した。
侑徒は続いて、文書担当、斎藤八雲のデスクに向いた。
「斎藤さんは、モロゾフでーす。一番好きですよね?」
「大きにぃ!橘はん!嫁さえも忘れとる事!」
両手で受け取り、最敬礼で頭上に掲げて迄有り難る八雲に侑徒は笑い、膝に乗る八雲の愛猫にも乾燥した肉を与えた。
「コタちゃんは、無塩分の乾燥ビーフですよ。」
「あぉああ!たぁあ!」
猫からも全身で礼を云われた侑徒は上機嫌で自分のデスクに着き、あ、そうだ、と宗一に向いた。
「先生ぇ。」
「はあい?」
早速チョコレートを一粒口に放り込む宗一は慌てて珈琲で流し、喉を動かした。
「…なんや。」
「後で俺、世谷署行って来ます。」
「おお、はい。判った。」
此処に居るだけの人数分にしては大きい紙袋だなと思ったが、そうか成る程、捜査一課の男共にも配るのか納得した。
聞こえるモーター音。セグウェイに乗る化学担当、長谷川秀一が、恨みがましく侑徒の後ろに立った。
今日も絶好調に、調子外れのエックスを歌う。
「おい。」
「はい?」
「なんで俺には無い。」
宗一、時一、八雲…と続いて猫に迄与えたのに、何故俺には来ないんだ、振り向いた侑徒は無表情で、欲しいんですか?と聞いた。
「此の流れ!俺!下さいよ!」
「なんやの此の男、面倒臭いわな…」
「いやいやいや、おかしい。ね?」
「ほんなら、はい。」
白衣のポケットから、何時買ったの?と聞きたい程丸みを持つチロルチョコを秀一の手に乗せ、はい終い、とパソコンに向いた。無表情で自分を見る秀一に宗一は、あっはっはと笑い、時一も引き攣り笑い、八雲に至っては犬猿の仲である秀一の扱いに歓喜した。
「ざまあ、博士(ハクシ)!」
「は?なんて、丸眼鏡。」
「あ?なんや、黒縁眼鏡、煩いの。」
「なんで独身の俺がチロルチョコ、然も溶解する物で、既婚者の御前がモロゾフ、かっこ箱入りかっこ閉じる、なんだよ。先生のガレーには文句無いけど。」
「そら、人徳とちゃうんか?あ?」
「ハッセー。」
「なんですか。」
「ああん。」
「あざっす、あざっす!」
「先生ぇ?もう…」
「所有者はおぉれぇ。」
宗一から、ベルギー王室御用達高級チョコレートを一粒貰った秀一は八雲を見、眼鏡の奥にある釣り上がる切れ長の目を歪ませ、鼻で笑った。
「先生ぇ!」
「やぁよ、御前モロゾフ持ってるやん。」
「わいがチョコ大っ好きなん、知ってますよね!?」
「嫁に強請れば宜しやん。わいなぁ、ガレーのチョコ、食べたいねぇん、と甘ぁく、チョコよりも甘ぁい…其の声で強請らはったら?」
イン ザ ベッド…。ヘッドホンを片耳だけ浮かせ云う時一の言葉に侑徒も、口元にある黒子を妖艶に歪ませ笑う。
「そうそう、ベッドの中でな。店ごと買うてくれはるんと違いますのぉ?八雲さん、嗚呼八雲さん…八雲が望むなら買うたりますわぁ!買い占めるわぁ!と。ベルギー直輸入や。」
「はあ!?誰が頼むか!止めなさい、けしょい事言うの!時一さん!」
「あはは、ごめぇん。」
「ほんなら我慢しなさい。」
なんだろう、秀一より良いチョコレートを貰った筈なのに、知る此の敗北感は。
「コタ。」
「まー?」
「辛いの。エレ・キ・テルに負けたわ。」
「まーぁ…」
猫は秀一に近付くと、こらぁ!駄目よぉ!お父ちゃん虐めるなぁ!と愛らしく威嚇した。
「よしよし、コタは可愛いな。」
何処かの誰かと違って。
蛇(秀一)の挑発に虎(八雲)は牙を剥き出し、喉から威嚇した。


*****


「ハッピーヴァレンタイン!Guten Morgen!」
駐車場から捜査一課のある此の場所迄で、木島和臣の両腕は、チョコレートの入る大量の紙袋で埋まった。
和臣の大好きな日、其れは誕生日でもクリスマスでも無い、そう此の日、ヴァレンタインである。
「今年も多いな、木島。」
課長は机の上整理の手を止め、両手に花為らぬ両腕にチョコレートの和臣に微笑んだ。
「増えたんじゃないのか?」
「いえぇい!机にもいっぱーい!」
机に出来るチョコレートタワーに喜ぶ和臣の姿に課長は益々頬を緩ませ、はい俺から、と和臣が一番好きなチョコレートメーカーの箱を頭に付けた。
「有難う、課長!大好きぃ!」
「はいはい。」
柔らかい猫っ毛を撫で、課長は整理を続けた。
和臣、世界で一番好きな食べ物がチョコレートであり、モテる云々の話では無く、只単に大量のチョコレートが貰えるから此の日が好きなのだ。
なので此の日だけ和臣、最高に機嫌が良く、何があっても怒らないのだ。
和臣を頗る嫌う本郷龍太郎と井上拓也は、面白くない反面、毎日ヴァレンタインなら良いのに、と思って居たりする。
「井上さあん!」
ドアーから聞こえた声、署内案内の後ろに付く特徴あるお団子頭…児童福祉司の柳生節子が、兎みたく跳ね乍ら拓也を呼んでいた。
「節子ぉ!」
「ハッピーハッピーアンドハッピーヴァレンタインですよぉ!」
節子の後ろに続く子供達、全員手には紙袋を持っていた。全員身寄りの無い養護施設の子供達で、拓也の子供と云って良い。龍太郎の頬も、拓也の笑顔の前では綻ぶ。
「ダディ、ダディ!」
「あげるのぉ!」
「御前等、来たのか。呼んだら行ったのにぃ、此奴等ぁ!」
「こいつらぁ!」
養護施設で生活する子供達が態々拓也にチョコレートを渡しに来、節子からチョコレートの贈り物はないが、此の状況が節子のヴァレンタインプレゼントである。子供達の愛情を届ける節子の顔は顔はまさに菩薩で、龍太郎は破顔するしか無い。
「あの、本郷さん。」
「ん?」
養護施設で生活する子供達は一桁が多いが、龍太郎も負けては居ない、中学生…況してや高校生ともなる二桁の思春期女子には、端正な顔立ちに仏頂面、きちんとタイを締める龍太郎の方が格好良く映る。女子高生特有のスーツ姿に羨望抱くアレである。
「あの、宜しかったら…」
女子高生にチョコレートを貰った龍太郎は、良いんだろうかと思うが、反面眉間の皺を薄くさせた。
「有難う、…“ダディ”でなくて良かったか?」
「私達は、いいえあの、恥ずかしいんですが、本郷刑事の方が、男性として魅力的に映るので…、ダディは、ダディですので…、あの、迷惑ですよね…」
「いいえ、有難う。」
思春期の女子達に龍太郎の笑顔は魅惑的で、眺める和臣は面白くない。生意気だぞ本郷、と云われても、此の日ばかりは龍太郎とて、大人しいのだ。
若い女は嫌いだ、けれど女子高生、中学生となると、若過ぎて龍太郎には別世界の生き物に見える。此れが歳近い女であったら受け取らない。
優しい目で拓也達を眺める節子は、其の儘課長に向いた。
「貴方にも、勿論ありますよぉ?」
「ん?俺か?」
子供に用は無い筈だが、と節子を見ていた課長は、しっかりと足に知った衝撃と体温に、困ったな、と笑顔で首を振った。其の顔は、どんな高級品より上質な笑顔だった。
「…真由美。」
「かちょーさんよぉ、みつあみさんよぉ!」
真っ白な短い腕を目一杯伸ばし、小さな手を大きく広げる真由美という子供に課長は、此れ以上可愛いものがあるか、といった目で抱き上げた。
此処に来た子供達、全員で昨日チョコレート作成をしたのだが、三歳児ある真由美に火は使えず、板チョコをデコレーションした其れを持って来た。中々に器用なもので、ピンク色のチョコペンで課長が描かれていた。丸に三つ編み…だけだが、課長を知る人間なら此れが課長の顔だと判るだろう。眼鏡もちゃんと付いていた。周りには一杯、此れでもかとハート型のチョコレートが貼り付けてあった。
チョコレートオンチョコレートアンドチョコレートである。
「たべるゆのよぉ?」
無残にも真由美は、其の顔を真っ二つに折り、課長の肉厚な唇に押し付けた。割った衝撃で、何個かハートが落ちた。
眺める和臣は、課長、甘いの駄目じゃないっけ、と思ったが、盲愛する真由美から貰ってしまっては食べない訳にはいかない。小さな手で割られた板チョコを一口だけ食べ、其の儘血色良い、まさに桃と比喩するに相応しい真由美の頬に肉厚な唇を押し付けた。
「んー、有難うな、まゆ。」
「まゆちゃん、うれしぃよぉ?かちょーさん、だいすきよぉ!」
「おい、御前等、今日は事件起きても絶対仕事せんぞ。真由美といちゃついとく。」
「何時もじゃないっすかぁ、課長は。」
「おっとぉ?井上黙れよぉ?」
「へーい。」
課長は真由美にキスをした、然し拓也は逆で、十人以上の女子からチョコレートと共にキスを貰っていた。
どんな女のチョコレートより、高級チョコレートより、拓也には此れが一番である。
「井上さん、あたしもあげますよぉ?」
「え、要…」
要らない、と云うより先に、先手必勝、拓也の窪んだ両頬をがっしり掴んだ節子は、拓也の肉厚な唇に自身の薄い唇を重ねた。目を見開いた儘。
「おお。」
口元がばっちり見えた龍太郎は口を真横に引き伸ばし、まゆには一寸早いな、と課長は真由美の目元を手で隠した。
一旦離した拓也は、やられた、と目元を隠したが、ハイエナの眼光一つ、御返しだ馬鹿女郎、と其れはもう濃密で濃厚なキスを返した。節子の薄い唇を撫で上げる舌迄龍太郎には見えた。強いて言うなら、糸引く唾液迄見えた。
此れは一寸、朝の八時半には相応しくない。十二時間程ばかし早いかも知れない。
「はぇ…、吃驚した…」
「大人んなれ、節子。」
食事の終わった獣のように自身の唇を舐める拓也は云い、此奴等肉体関係があるんじゃないかと龍太郎は疑う。勿論無いが。処女は相手にしないのである、拓也は。
「節子姉ちゃん、帰ろう。」
「邪魔になっちゃうし。」
大人になりましたと赤面で課長に報告する節子に高校生組が云う。
聞こえた言葉に丸い頬を膨らます真由美は課長の首にしっかり抱き着き、帰らないのよ、と一同を困らせた。
「まーゆ。」
「ややのよ!」
「真由美。」
「ややのさ…」
然し、降ろされた真由美は渋々課長から離れ、高校生の一人の手を握った。凄い膨れっ面で。
捌けた団体に課長は、一気に疲れた、と椅子に座り、時計を見た。
九時五分前。
仕事も始めていないのに疲れた。何も気力が起きず、窓に向くしかない。
「課長、引き取ったら良いのに。」
拓也の言葉に課長は頭を動かし、一瞥すると又窓に向いた。
皮のシートに、髪が擦れる音が嫌に響いた。
「俺達は何時死ぬか判らん。感謝より恨みを貰うのが仕事のようなもんだ。此れが普通のサラリーマンなら、バイク乗るの止めて、俺の残りの全人生と全愛情と全財産掛けて良かったが…」
俺が死んだら、真由美から又、父親を奪う事になる――。
真由美の背景を知る三人は其の言葉に黙り、此の方は何処迄愛情深いのだろうと、視線を落とし、拓也は軽率な発言に謝罪した。
「其の時はさ、課長。」
俺が代わりに死んであげる。
和臣の言葉に課長は口元を緩ませ、しっかりと向いた。
「ならば今直ぐ死ね。」
「え…、なんで…?」
「腹が立つから。」
「ええ…」
課長の為に死ぬのは良いけど、課長の所為で死にたくない、と和臣は呟いた。
「お早う御座います。」
「お早う、加納。」
チョコレートは沢山あるのに、何故沈んでいるのだろうと和臣のチョコレート狂いを知る加納馨は首を傾げ、差し上げます、と此処に着く迄に貰ったチョコレートを、甘いの嫌いな馨は和臣に押し付けた。
又其れが、和臣の心を抉った。


*****


十二時四十五分、しっとりとした声と共に、妖艶な笑み蓄える侑徒が世谷署捜査一課の部屋に入った。
「橘?」
食後の毛繕いをしていた課長は驚きの目で侑徒を見た。
「…なんか、頼んでたか…?」
「いいえ、ヴァレンタインです。」
誰よりも浮かれたのは和臣である。
科捜研で一番気に入りなのが侑徒で、そんな侑徒からチョコレートが貰えるとは素直に嬉しい。
一目散に課長の前に来た侑徒は、腕に掛ける紙袋から大きな箱を出した。
「悪いが橘、俺、甘いの嫌いなんだよ。」
「知ってます。だから生ハム持って来ました。肉食ですよね?課長さん。ライオンだから。」
「そうして皆、俺のワイン中毒に加勢してくれるんだろう?有難う。今日も飲み過ぎるよ。」
鼻に箱を押し付け、大きく胸を迫り出す課長は、縞馬かヌーの匂いを察知したライオンに見える。
実は課長、医者から警告が来ているのだ、肝臓の数値が怪しいと。此の儘行けば確実にストップを掛ける数値になると。
拓也も酒飲みだが、此方は未だ三十手前なので大丈夫なのだろうが、なんせ課長は四十半ばだ、大学時代から一日たりともワインを欠かさぬ課長の肝臓はそろそろ危うい。来年か再来年辺りにドクターストップが掛かるのでは無いかと皆ヒヤヒヤするが、警告来た去年から、二本を一本に減らしたんだ、大丈夫だろう、と暢気なのだから始末悪い。
医者も医者で、先ずに身体も日本人より大きく、日本人の肝臓の作りで無い、酒豪国の肝臓の作りなのでそう心配はしないが長生きしたいのなら減せ、貴方は極めてアジアの血が薄いので北欧の数値で考えた方が良いですね、でも控えて下さいね、と云う。
なんだ、長生きしたいのか、課長。
「嗚呼…メロンも持って来れば良かった…」
酒飲みなのは知るが、其れがワインだと知らなかった侑徒は下がる眉を益々下げる。
「いや、俺はアボカドだ。昔からアボカドが大好きなんだ。俺の主食はアボカドと肉だ。」
イタリアンとスパニッシュの主食がトマトのように、俺はアボカドだと課長は云う。
「アボカド?」
だから、渡されたのだろうか。
紙袋からアボカドを取り出した侑徒は机に置き、先生ぇからです、と言葉を添えた。
「…要らん!」
一気に険相変えた課長はアボカドを掴んだ。然し臆する事なく侑徒は机に品を並べた。
「此れは時一先生ぇ。」
置かれるヘアケア製品、課長愛用のメーカーである。課長が良い匂いなのは、此のメーカーのお陰である。
「此れは斎藤さん。」
御歳暮かと聞きたい選べる美容カタログ。
「ほんで此れは、博士からです。」
シルクの白いリボンで枝を飾る深紅の薔薇。
手にした課長は花弁を高い鼻に押し付け、濃密な匂いを感じとるとリボンを解いた。三つ編みのゴムを外し、少し先を解くと其のリボンを器用に絡ませ、そして又ゴムで括った。
「うわぁ、課長さんの白髪(ハクハツ)に其のリボン、しっくり来ますね。光沢と云い、柔らかさと云い、一部みたい。」
うっとりと侑徒は云い、其の薔薇も活けましょうよ、と拓也が云った。流石に其れは刑事では無くホストになるから、と課長は笑顔で取り合わなかったが。
「薔薇が似合い過ぎる…!」
何気無く薔薇を弄ぶ課長の姿に和臣は興奮し、無断で携帯電話のカメラシャッターを切った。
「良いよぉ、良いよ課長!最高、超綺麗、美しい!ビスクドールみたいだ、なんでこんなに綺麗なんだ…、生ける彫刻品だ…。良いよ、良い、今日もお美しい、相変わらずお美しい、課長!なんでこんなに美しいんだ…、息してるとか嘘だろう…」
和臣、美しい物が本当に好きで、図書館の次に出没する場所が、実は美術館だったりする。何よりも美しいものを愛し、だから重度の潔癖症なのだが、人の目も忘れ、薔薇を弄ぶ課長に興奮した。
其の姿、正に変態である。
血走る目で画面を見、シャッターを切る和臣に侑徒はドン引きし、龍太郎達は苦笑うしかない。
「もう良い、もう良いよ、木島…」
「足らん!未だ足らん!俺の課長フォルダー、未だ足らん!潤わん!」
なんなのだ、其の“課長フォルダー”とやらは。
「判ったから…」
「美しい…、美しいよ課長…、世界遺産に登録される美しさだよ…」
和臣は断固として否定するが、御前やっぱりバイセクシュアルだろう、と皆思う。
軽蔑の目で和臣を見る拓也、最早見ないと決め込んだ龍太郎、今後何かで脅迫に使えるかも知れないと痴態晒す和臣を更に動画撮影する馨、…カオスである。
「変態刑事、でYouTubeに上げようかな。」
等と呟く。
「木島さんって、課長さんのストーカー…なんですか…?」
引きに引き切った侑徒は聞いた。
其の言葉に和臣は真っ直ぐ背中を伸ばし、真顔で答えた。
「うん。俺、世界一の課長のストーカーだよ。だから此処に居るんだよ。」
良いね課長!と再びシャッターを切った。
完全に諦め切る課長は頷くだけで、好きにさせた。
「冗談抜きに此奴、俺のストーカーだからな。」
三つ編みを撫でる姿も又美しいねと、和臣の暴走は止まらない。
「ええと…」
「俺が刑事だから、此奴も刑事なんだ。」
如何言う意味、と聞くと、まあなんとも素晴らしき和臣の痴態を教えてくれた。引きようが無い、最早引く等と云う次元では無かった。普通に気持ち悪かった。
「どれ位前かな、兎に角大昔だ、此奴が未だ、ブレザー着てた時代。かぁわいかったぞぉ、此奴。本当。もう、な。如何にもなお坊っちゃま。世間何も知りませんよ、僕大事に育てられてますよ、ってのが全身から滲み出てる感じだった。」
大凡十五年前の話である。今では邪悪に邪悪を重ね、唯の邪悪な家鴨口のボブカット男だが、昔は其れはもう、可愛い男の子だった。
「俺、此奴の父親と接点があったんだよ。其れで高校生だった頃の此奴に会って、其処からストーカーになった。だよなー?木島。」
「そう、そう、そうなの!俺!課長のストーカーなの!世界で一番課長が好きなの!」
生安呼んで来いよと皆思うが、こんなオープンなストーカー、捕まえられるのだろうか。ストーキングされる課長が被害届を出さないので構わないのか…。
椅子から立ち上がる其の姿も良い、と課長の行動ならなんでも美しく和臣の目には映る。
紙コップに珈琲を入れ、其れを侑徒に渡した。
「御前達には判らないさ!…いいや、課長の美しさは、俺だけが判っていれば良いんだ…、そう、俺だけが見ていれば良いんだ…」
此れは本物である。
課長を始めて見た和臣は、言葉通り、ショックを受けた、こんな美しい生き物が存在するのかと。
今でこそ課長、四十半ばの親父だが、和臣が会った頃の課長は三十前半…ほんの数ヶ月前迄二十代だった、美しさを凝縮させた頃だった。課長を見た和臣は余りの美しさに過呼吸引き起こし、其処で、和臣が過呼吸持ちだと知った。
「其れで、大学卒業するわな、俺の前に現れますよね、本物過ぎて、もう言葉が無かった。」
「一生側に居るから、課長…」
「うん、今直ぐ死んでくれ。」
「ううん、違うの、課長をね、殺すの。其れでね…」
剥製にして一生俺の傍に置いておくの……。
「んふ、んふふ…、課長、大好き…」
「判った…」
歪みに歪み切った愛情を知った一同は息をするのも忘れ、納得した、課長の和臣の扱いも、其れに全く疑問を持たない和臣も。
ぞんざいな扱いこそが、和臣の喜びなのだ。究極のマゾヒスト、此処にありである。
侑徒の持つ紙袋には、一応、四人のも用意していたが、和臣に渡すのが嫌になって来た。其れ程侑徒は和臣に引いていた。
「ええと、井上さん。」
「ん?」
「課長さんだけ、ってのも悪いので。」
「マジで。良いの。なんか、有難う。」
例え美しくても男から貰うのは如何なものか、複雑な気持ちで拓也は受け取り、続けて龍太郎も貰った。チョコレートに変わりはないので、食べるが。
「加納さん。」
「嗚呼、ワタクシは結構。木島さんに渡して下さい。」
婦警から貰ったチョコレートでさえ和臣に押し付けた馨、男の侑徒から受け取る等言語道断である。
「はぁ…、ほんなら、どうぞ…、木島さん…」
「いえーい!」
侑徒からチョコレートを貰った和臣は此れ見よがしに箱を振るが、元は馨のである。其れで此処迄浮かれるのだから和臣用のは要らないだろう…いや然し。
何時もは悲しそうに下がる口角が、吊り上がった。
「木島さん。」
「何?きゃー、モロゾフよぉ?課長、モロゾフよぉ?」
「真由美みたく喋るな…」
一粒食べる和臣に侑徒は、全く同じ箱を差し出した。
「もう貰ったよ。」
「はい木島さん、ハッピーヴァレンタイン!博士からです。」
瞬間侑徒の美しい白肌が茶色く染まり、物凄い速さで侑徒の手から箱が吹き飛んだ。
「要らんわ!持って帰れ!」
「そんな…、博士可哀想…」
泣き真似をするより先に、顔面に吹き付けられたチョコレートを拭いたら如何だ?と皆思うが、侑徒の嘘に此処迄あっさり騙される和臣は、誠の馬鹿ではないのかと楽しい。
「絶対電気入ってる。」
「既製品ですよ。」
「蓋を開けたら、びりりぃって来るんだろう!知ってる!」
「ほんなら、俺が開けてあげますよ。」
「良いから、そんな優しさ要らないから、持って帰って、ね!?」
吹き飛ばされた箱を拾い、蓋を開ける侑徒を和臣は後ろから必死に止めた。
なんだろう、高校生カップルが、誰から貰ったのよー見せなさいよー、駄目だってー開けるなよー、と戯れているように見える。
「ほら、ね。大丈夫でしょう?」
濃密なチョコレートの匂いが鼻を抜け、其れだけで和臣はうっとりとした。其の半開きの口に侑徒はチョコレートを押し付け、侑徒の体温を唇で知った和臣は思わず赤面した。
「よう、ホモ。」
「やっぱあんたホモじゃん。」
「素直になりましょう、木島さん。貴方が今更ホモでも、俺達、なんっとも、思いませんから。ええ…」
「おやまあ、気持ち悪い。」
「此れから、背後に立つなよ、木島。バイクに乗せるの怖いな…、何されるか判らん…」
「なんで、真性からホモだってバッシング受けなきゃいけないの!?」
本人公認のストーカーをバイクの後ろに乗せるのも如何かと思うが、和臣の言葉に全員が冷たい目を向けた。
「課長、馬鹿にすんなよ。」
「課長のゲイと貴方のホモを一緒にしないで下さい。」
「課長のゲイは許されるのですよ、然し、貴方のホモは許されません。唯々嫌悪します。」
「俺はゲイだ、御前はホモだ。」
「一緒じゃん!」
「あんた馬鹿か?一緒な訳ねぇだろうが。次元が違ぇんだよ、次元が。」
「然もストーカー…、気持ち悪い。」
「おやまあ、吐きそうです。」
「俺と張り合おう等とは、烏滸がましいホモだな。おい、警察呼んで来い。」
「呼びますねー。」
顔面を綺麗に拭った侑徒は笑顔で事務電話の受話器を取り、生活安全課の内線は…、と探した。
「あ、今日は、一課ですけど。あのですね。」
「止めて、止めてよ、橘さん!」
受話器を奪い取ろうとするが、がっちり課長に固定され、年貢の納め時だな、と囁かれた。
「木島刑事がですね、課長さんのストーカーらしいんですよ。」
「あっはっは、あのねー、其れ、凄い有名ですよ?今日は何してたんですか?」
電話から拡散される生活安全課の刑事の声、笑うしかない。
「ううんと、写真撮って、気持ち悪い事云ってました。」
「あー、課長フォルダーってヤツですか。」
「嗚呼、其れです、其れ。」
「んー、多分大丈夫ですよ、昨日も盗撮してましたから。」
明るく生活安全課刑事は云うが、和臣をがっしり掴んでいた腕から力を抜かした。
「おい。」
「あ、課長さん!」
「昨日も盗撮してたって?如何言う事だ。」
「あ…、いえ、なんでも無いです。」
ブッと内線は切れ、再度繋いだが、繋がらないようになっていた。顔を逸らした和臣はゆっくり課長の側から離れ、目が合う前に部屋から飛び出した。
「木島ぁあ!」
「違うんだよ、課長!」
「違わない、おい!」
廊下に響く怒号、何事ですか、と同じフロアに部屋を構える刑事達が姿を現した。
「電話出せ、おら、木島!出せや!」
「止めて、止めてぇ!」
壁に和臣を押し付けた課長は鬼の形相と巻き舌で怒鳴り、其れを見た侑徒が、先生ぇそっくり、と呟いた。
「違うのぉ!」
「違う事あるか、此のガキ何も言わんかったらほんま付け上がりよってからに。出せや、電話!」
「出さないもん!」
何故って?四階の此処から電話を渾身の力で垂直に投げられるから。電話が良くニュースで耳にする、全身を強く打って、になってしまう。
ドアーから眺める四人、馨は案の定動画を撮っている。流石平成生まれ、事故現場でも平気で電話を手に持ち笑う世代である。
「課長さんって、関西の方なんですか?」
「彼の方、京大ですよ。」
「…へえ!先輩やぁ!」
「あ、橘さんも京大だっけ。」
「そうですよぉ。」
一番に止めに入らなければならない一課の刑事が傍観し、止めるのは二課と三課の刑事、なのだが、課長の気迫に腰が引いている。
「もう許さんぞ、御前。全部データ消してやるからな。クラウドアカウント抹消してやるからな!」
三つ編みをボロボロにし漸く電話を奪う事に成功した課長、其の背中に和臣が飛び付き、案外小さいのも役に立つんだな、と感心した。先程の侑徒と和臣が高校生のカップルだったら、課長と和臣は、父親に戯れ付く子供である。おんぶの形で、返してと後ろから三つ編みを引っ張る和臣、前屈みで抗う課長、ぎゃあぎゃあと煩い空気が、一つの足音でびたりと止んだ。
しんとした廊下に、落ち着いた声が響く。
「何をなさって居るんですか、貴方は。煩いんですよ。仕事の邪魔です。」
捜査三課の課長…課長のパートナーである宗廣の声が廊下に打ち込まれた。
「助けて、宗廣さん!」
「貴方は本当に、何をしてらっしゃるんですか、子供じゃあるまいに、大声出して。恥ずかしい。」
「違う…」
「違いません、煩いんです。其の訛りも耳障りだ。腹の立つ。なんですか、其のアクセントは。」
がくんと膝から落ちた課長は和臣を乗せた儘廊下に座り込んだ。
此の宗廣という刑事、死ぬ程怖いのだ。腰が抜ける程、恐ろしいのだ。凶悪犯が泣いて許しを乞う程怖いのだ、凶悪犯から恐怖抱かれる龍太郎の次元では無く、龍太郎を五倍怖くした感じの刑事である。
怒鳴らないのだ、宗廣という刑事は、決して。其れが一層、怖いのだ。
「電話取って!」
和臣の言葉に電話を抜き取った宗廣は其の儘窓を開け、窓の外に腕を伸ばすと無言で指の力を抜いた。
「静かにして下さい、良いですね。」
「はい…」
「いやぁあ!俺の携帯がぁあ!」
「黙れと云ったんだ、木島。」
「はい…、済みませんでした…」
小さく靴音が響き、バタンとドアーが閉まった。呆然と廊下を眺める二人に、四人は云った。
「あのチョコレートって、マジで博士から?」
「いいえ、俺からですよ。」
「矢張り…」
「悪いねぇ、橘さん。」
「お人が悪い、ふふ。」
「ま、ええヴァレンタインプレゼントになったんと違います?」
「だな。」
「お、電話だ。龍太、取って。」
「うん。」
はい此方世谷署捜査一課、如何されました?
「侑ちゃんが帰って来んのですけどぉ。一寸誘拐ぃ?敵わんなぁ。」
「至急送還致します。」
「大きに。」
宗一から連絡、と云うと侑徒はきちんと頭を下げ、お邪魔しました、と微笑んだ。


*****


あはは、と宗一は笑い、秀一もニヤニヤ笑う。
「見たかったな。」
「なー。」
自分の席に戻った秀一は、鍵の掛かる抽斗を開けた。
「用意、一応はしてたよ、和臣。」
真紅の箱を取り出し、暫く考え、ゴミ箱に捨てた。




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