頑張れ、おかん


菅原先生はおとんタイプで、課長はおかんタイプだよね――今日も世谷署、暇である。こんなで給料貰って良いのかと思う程暇である。余りの暇さに詰まらぬ事を考える。
和臣の呟きに向かい斜め席の龍太郎は、嗚呼、と同調する。
「課長、如何にもなお母さん性格だもんな。」
龍太郎の横に座る拓也も続く。
「拓也、其の偏食、課長に治して貰え。」
「やなこったぁ。」
拓也は重度の偏食者で、此奴良く生きてるな、と龍太郎は思って居る。何を食べ拓也が生きているのか…正直、龍太郎にも把握出来ていない。
「加納、御前、料理出来る?」
横に席を構える馨に和臣は向いた。パソコンに向いていた馨は一瞬だけ和臣を見、はい、と其の儘パソコンを眺めた。
「マジで、やっぱなぁ。」
完璧な男はなんでも完璧なんだ、と拓也は云い、和臣を見た。
「御宅は。」
「出来るよ、妹が料理する訳無いだろう。俺がしなきゃ、二人揃って餓死だ。」
世の中には外食産業というのが存在する事、和臣は知っているのだろうか。金を持つ以上、日本で餓死する事は先ず無いと云って良い。
「龍太は出来ねぇもんなぁ。」
頬杖を付き、左手で龍太郎の頬を軽く殴った拓也は笑い、嗚呼、出来ん、と偉そうに開き直るのが龍太郎である。出来んが生きて行ける、正に命を張って証明していた。
「どれ位出来ないの?」
「此奴、卵割れないぜ。」
「は?」
「依って、目玉焼きも作れない。抑に内、調理器具が一切無い。使わないから。」
偉そうに云う事なのか?と和臣は思うが、龍太郎が餓死しようが知ったこっちゃないので、黙って於いた。馨に少し笑われたが、出来ないものは仕方がない、出来ないのでやる気も起きない、目玉焼き等食べずとも生きて行ける。
龍太郎宅のガス台、実は一度も稼働した事が無い。と云うより、余りにも使わないのでガス会社が、使ってるんですか?と態々聞き、使ってない、と云ったので停まっている。良心的な会社である。
「お湯、沸かさないの?」
「電気ケトルがあります、珈琲はサイフォンです。」
「電気って、便利だな。」
ふっと、エレ・キ・テル氏最強なり、と笑いながら踏ん反り返るあの化学者の顔が浮かんだ、が、気の所為だろうと四人は頭を振った。
「あ、お帰りなさいませ。」
「お帰りなさい、課長。」
切れた珈琲豆を、態々、職務中に買いに行っていた課長が、珈琲豆とコンビニ袋を下げ戻って来た。コンビニ袋を置いた課長は時計を見、一時間サボれた、よしよし、と満足を見せた。
「事件あったか?」
「無いです。」
「よしよし、良い事だ。平和は良い事だ、うんうん。此の儘定年迄平和なら良いのに。」
貴方は平和云々、仕事したくないだけでしょう?と皆思うが、課長の仕事嫌いは署長でも知って居るので、考えた所で無駄なのだ。
「帰ろ。」
「え?帰るんですか?」
龍太郎の言葉に、俺は確かに国家の犬だが社畜じゃない、と壁に掛かる時計を指した。
午後五時半過ぎ、成る程、帰る時間である。
警察官は地方公務員なので、始業終業時間は役所と同じである。事件が無いのに、当直でも無いのに(抑課長クラスは当直等しないが)、終業時間過ぎても居る方ではないのだ、課長は。さっさと未練無く潔く帰るのが課長である。
「其の儘帰ったら良かったじゃん。」
課長に唯一タメ口を聞き、又其れが許されるのが和臣、同じに帰り支度を始めた。龍太郎達も始めた。
「其れでも良かったんだけど、俺が帰って来ないとブー垂れるだろうが、御前。」
馨、龍太郎、拓也が鼻で笑った。煩いよ、と家鴨口を尖らせ威嚇してはみるもの、可愛い可愛い、と課長にペチペチ頬を叩かれると、今度は嬉しさで尖らせた。
何をしたって、和臣の家鴨口は尖るらしかった。
「材料買って帰ろう。」
「今日の晩御飯何!?」
課長宅の晩御飯内容等聞いて如何するのか、ストーカーは、全てを把握しておかないと気が済まないのであろうか。
「おでん。昨日、署長からあご出汁貰ったんだ。」
「うっそ、マジで?行きたいです!課長の家!其れで酒飲みましょうよ!ハンペン入れて下さい、ハンペン!其れだけで俺充分です!」
拓也の偏食加減…其れは酒に合う物と、日中は甘い物しか口にしない。後は只管酒を飲むのである。
「ん?来るか?良いけど。」
「やったあ!」
「え、嘘!俺も行きたいんだけど!課長!」
拓也が行けて、何故ストーカーの俺が行けない。
和臣も食い付いた。
「…良いよ、来れば?」
「課長愛してる!」
「本郷、来るか?」
「いえ、私は良いです。有難う御座います。」
「なんで、行こうよ、おでん。おでんパーティーだぜ。」
拓也にせがまれたが、出来るなら行きたい、然し行けない理由がある、課長の自宅に。
「俺、犬が駄目なんだよ…、御前知ってるだろう…」
「あ…」
盲点であった。おでんに舞い上がりすっかり忘れていたが、課長の自宅には大型犬が二頭居る。
犬が大の苦手な龍太郎、動物其の物が大嫌いな拓也。
提案者でありながら行けない拓也は泣きそうな顔で課長を見、何で犬が居るんですか?、と意味不明な事を云った。
「何、此の絶望感…、半端ねぇ…、目の前がマジで真っ暗になったわ…、え?何此れ…」
「よしよし、おでん食べような、今日は。コンビニで買って、ヘンリーの所行こうな。」
「やるせねぇ…」
本気でショックなのか、拓也は椅子に座り込み、額を押さえた。暫くは動けそうにない。
其れもそうであろう、あご出汁おでんから一気にコンビニおでんに格下げしたのだから。
「明日、ハンペンだけ持って来てやるから。」
「あざっす…」
課長は笑いながら拓也の肩を叩き、馨を見た。視線に気付いた馨は支度する手を止め、斜めに落とした顔を隠すように手を振った。
「なぁんだ、結局木島しか来ないのか。」
「わは、わはは、ハンペン全部食べてやる。」
「御前マジで死ねよ…」
「木島さん、此れ以上拓也を虐めないで下さい。」
馨は小さく笑い、お疲れ様でした、と誰よりも先に部屋を出た。一番最初に帰ると言い出したのは課長であるのに。
「良し、じゃ帰るぞ。」
「ざまぁ、井上。ばいばぁい。」
課長に肩から腕を流され、邪悪な笑みで和臣は手を振った。拓也の中指が立ったのは、龍太郎がしっかり隠した。
途中課長は捜査三課のドアーを開き、今日おでんパーティーだから、とパートナーの宗廣に伝え、続けて携帯電話を取り出した。肩に腕が垂れ下がる和臣は其の顎のラインを眺め、何で此の方は全てが格好良いんだろう、と日課の観察を始めた。
「なんやぁ。」
「宗、御前暇だろう。」
「暇な訳あるか。死体ばっか見てますよぉ、僕はぁ。」
「今日、おでんパーティーするんだ。暇なら其方も来いよ。こっちは木島しか居ないけど。」
「うぉお!行く!行く行く!這ってでも行くわな!ちくわぶ入れなさい、貴方!」
「飛んで来い。」
「斎藤以外、全員行くわ。」
「斎藤…」
「斎藤はな、うん、仕方無いのん。俺達と関わりたくないし。」
此方も良い大人である、学生でも無いのだから、向こうが仕事以外で一切関わるなと云うのなら無理に関わらない、そんなタイプの人間に寄り添っても煙たがられ、最悪関係が悪化し仕事に支障来す恐れがある。科捜研は具合良く回っているのだ。
電話を切った課長は、荷物多くなりそう、と何処か嬉しそうに電話をしまった。


*****


「科捜研、到着したよぉ。」
午後八時、課長宅のインターフォンは鳴らされた。応対したのが和臣で、全員、木島さん、課長さんの養子だっけ?と困惑した。其れ程我が物顔で課長宅を闊歩して居た。
「和臣ぃ。」
「止まれ!…電気を置け。其処だ、其処のシューズボックスの上にショックペンを置け。」
スラックスのポケットに手を突っ込んでいた秀一は、二メートル手前でモデルガンを構える和臣に舌打ちした。
其の素早さといったらない。ベルトコンベヤーのように続く宗一達を笑顔で迎え入れていた和臣なのだが、秀一の気配を察知するや否や、腰に仕込んでいたモデルガンを引き抜き、秀一に向けた。
背中は玄関に向き、顔は侑徒に、然も笑顔だった。和臣は笑顔の儘背中に手を回し、回転と一緒にモデルガンを引き抜き、そして真顔で構えた。
其の時間、凡そ二秒。
コンマ差で和臣が早かった。
其の俊敏さ、流石は警察、といった具合であろうか。
「俺が良いって云う迄動くんじゃないぞ。」
「学習したな。」
会うと必ず、挨拶と同時に電気を流される。何ヶ月関わったと思う、いい加減学習しなければ猿以下である。
「ほら、置いたよ。」
指示通り下駄箱にショックペンを置いた秀一は両手を開いた。
「頭の後ろで手を組んで、膝立ちしろ。」
「…はいはい。」
タイルに膝を突いた秀一は大人しく検問を受けた。
「…無いな?絶対に無いな?」
「あるよ。あるに決まってるだろう。エレ・キ・テル氏は三兄弟だ。次男はラボで寝てる。其処に居るのは三男坊だ。」
「出せ。」
「ズボン脱がなきゃ出せない。長男は威力が桁外れに違う。ショック死させられるレベルだ。だから見付からない場所に仕込んでる。職務質問程度じゃ調べられない場所に。」
「…判った。御前、絶対トイレ行くな。」
「膀胱破裂しちゃうよぉ。」
「だったら、俺が監視しておく。」
「あ、そっちの趣味?上級だねぇ。」
ケラケラと秀一は笑い、組んでいた手を解いた。
「何してるんだ、御前達。」
何時迄経っても二階に上がって来ない和臣達を課長が迎えに来た。
結局課長が出迎える形になったのだ。
「課長さん今晩はぁ。」
「ほら、酒。」
「はは、気が利くな。いらっしゃい。」
「課長さんのエプロン姿可愛い。あはは。」
「…喜ぶべきなのか?」
「萌えてまぁす、あはは。」
「木島、何してんだ。」
「物騒、此奴物騒。」
秀一にモデルガン構える和臣の姿に、シュウ、と手を動かした。
「いやぁ、此れは出せませんなぁ。幾ら貴方の頼みでも。」
「入れないぞ。」
「だって、出したら捕まっちゃうもん。現行犯だよ。」
エレ・キ・テル長男…桁外れの威力とはそういう事か。だったら絶対に安全だと和臣は背中を押した。
長男を出された場合、和臣は確実にショック死する。断言して良い。
一階からでも良い匂いがして居たが、二階に上がるとおでんの匂いが充満していた。
「すっごぉい!此れ中庭やぁん!きゃー、凄い!」
おでんよりも、中庭に惹かれた侑徒はテラスに出、むっちゃ凄い家、とキョロキョロした。
課長宅は中庭を囲うように設計されている。
「刑事って、そんな儲かるのか?」
秀一は和臣に聞いたが、和臣にも判って居ないのだ、給料以外に収入があるのは把握するが、此の家は桁が違う、課長が何故に億はするであろう家に住んで居るか…。
宗一はゆっくりとテラスに出、侑徒と並んだ。
「…凄い?」
「凄いです…、東京でこんだけの家…」
「俺と結婚したら、此れ位の家、直ぐ買うたるよ。一億位やったから。」
「え…?」
凝視する侑徒に構わず宗一はテラスから離れ、嗚呼、そうなんや、と侑徒はもう完全におでんの事等忘れ、中庭を眺めた。
続いて時一が侑徒の横に立ち、ニヤニヤ笑った顔で侑徒を覗いた。
「気付いた?」
「やっと判った…」
実は侑徒、宗一が捜査一課に肩入れする理由が良く判って居なかったのだ。課長に肩入れするのは判るが、其れが何故なのか。
「宗一は昔から、課長さんがだぁい好きなの。でも、相手にされないの。」
「そう、何ですか?」
「うん。結局此の家、別れる時慰謝料であげちゃったしね。ショックでショックで、京都に逃げたの。あいた…」
後頭部に知った痛み。振り向くと、シェパードを両脇に添わす宗廣が、デコピンの手をしていた。
「うわぁ、凄い久し振りに見た。お久し振りですね、宗廣さん。」
「彼の方のプライベートを、ベラベラ話さないで頂きたい。」
「はい、済みません。」
笑って謝罪した時一は、怖ぁい、と目を開いた。
宗廣の横に付いていた犬達はカウンターの前で行儀良く座り、出汁の匂いを散らす細長い湯気を眺めていた。
態々設置した長机に二つの鍋、何故か上座に宗一が座ったので、其処は絶対違うよ先生、其処は課長なの、と全員に突っ込まれた。犬達でさえも、課長が座るべき席に宗一が座った事で困り顔をした。互いに顔を見合わせ、俺達何処に座りゃ良いの、とキッチンに立つ課長を見上げた。
「別に良いぞ。此の間取りで上下(カミシモ)無いだろう。」
階段から一番遠い場所に宗一は確かに座るのだが、其の後ろは寝室に繋がる廊下が続き、だからといって中庭が見える位置を上座をすると、キッチンが背中に来る。
「ほぉら。」
「課長、俺、テラスが良い。」
「ほら、此処にアホが居る。」
「一人だけ外って、罰ゲームじゃん…」
テラスに出た和臣、秀一がそっと窓を閉めた。
「鍵!駄目鍵、駄目絶対!」
硝子張りの手摺に凭れていたのが悪かったのか、窓に触れた時にはロックされていた。
蛇の笑み、ショックペンは無いが意地悪は出来るのである。
「お母さん、助けて!エレ・キ・テルが又虐める!」
「大丈夫、和臣、御前は丈夫な子だよ。お母さんの子なんだ、丈夫に決まってる。一晩位、死にゃしないよ。」
課長は笑って一瞥するだけで酒の用意を進める。あっさり無視された和臣に秀一は笑い、置物みたく座る犬を構った。関心のベクトルが犬大なり和臣である。
母親が駄目なら父親だ。
お父さん、と叫んだ和臣に、二人が動いた、宗一と、宗廣が。
長机に同時に手を付き、同時に腰を上げた。視線も同時に合った。
課長が“お母さん”と呼ばれたのなら、パートナーである自分が自動的に“お父さん”になる。そんな事宗一にも判っている事なのだが、条件反射で身体が動いた。
二人は黙って見合い、…手ぇ洗って来る、と宗一が立ち、手水は彼方です、と宗廣が鍵を開けた。
たった三秒、されど三秒、緊張に心臓が停まったかも知れない。三秒位停まっても気付きゃしないだろう。其の緊張感に秀一一人が笑っていた、元凶なのに。和臣は其れ所では無いので、二人のタイミングが一緒だったのだろうとしか思わなかった。
「お母さあん、寒いよお!エレ・キ・テルが虐めるよお!」
「はいはい、御出で。」
「マザコン。」
「誰が締め出したか、誰が。」
「誰が先に出たか、誰が。」
「はい、煩い、御前達。喧嘩するな。御前は俺の腰に引っ付いとけ。そしたら虐められないだろう?」
「そうする。」
「やーい、腰巾着。」
「煩い。」
言葉通り和臣は課長の腰に腕を回し、背中に頬を引っ付かせた。
「大智。」
「はい。」
「運んでくれ。」
腰に回る和臣の手をしっかり握りながら課長はキッチンを宗廣に渡し、云われた通り調理台に並ぶ茶碗蒸しをお盆に乗せた。其の儘宗一が座っていた場所に課長は腰を落とし、パタパタと尾を振りながら犬も近付いた。背中からは和臣が覆い被さっている。
大型犬が三頭に見える。
戻って来た宗一は場所が取られた事に眉を上げ、課長から一番遠い場所に座る侑徒の横に座った。其の前には時一が座る。
茶碗蒸しを並べ終わった宗廣は二つの鍋蓋を取り、強くなったおでんの匂いに皆興奮した。
何故だろう、中身が判っているのに、例え透明の蓋でも、鍋の蓋が開く瞬間興奮してしまう。精神科医の時一にも此の心理だけは判らない。
此処でも和臣は座る場所を宗廣と揉めた。
和臣は何時ものように課長の右腕側に座ろうとしたのだが、宗廣も同じ事を考えていた。
「どうぞ、宗廣さん。」
「いや、木島で良いよ。俺はこっちに座る。」
云って宗廣は和臣の前に座り、其の横に秀一が座った。
「はいじゃあ、皆んな乾杯。何に乾杯か判らないけど。」
烏龍茶を手にする秀一は云い、今日も一日お疲れ、と其々グラスを傾けた。
「橘、竹輪麩と白滝。筋はばらして。」
「はーい。時一先生ぇは?」
「ええと、僕は玉子と大根。」
「長谷川さんは?」
「汁頂戴。」
科捜研組は一番下っ端の侑徒がよそう係で、刑事組は和臣…と思いきや、此処でもお母さんするのが課長である。
「木島、御前なんだ。」
宗廣の好みは把握するので聞かなくとも充分、宗廣の器に具を入れる課長は聞く。
「玉子大根白滝竹輪、ええと…牛筋!」
「有難う御座います。」
「嗚呼、餅巾着!」
「そんな器に入るか、最初は大根と牛筋な。」
「餅巾着入れてよぉ!」
「はいはい。」
「うわあ!此の茶碗蒸し、めっちゃ美味しい!俺の舌にめっちゃ合うぅ。」
おでんより先に茶碗蒸しを食べた侑徒は絶叫し、なんでこんな美味しいの、と目の色変え食べた。秀一もおでんには手を付けず、黙々と茶碗蒸しを食べている。宗一は黙って、焼酎を傾けながら牛筋を口に運んだ。
「先生、銀杏食べて。」
秀一に渡さた銀杏を口に入れ、又黙って酒を飲む。
「課長さんて、料理御上手ですね。」
侑徒の言葉に、おでんに上手いも下手もあるか、と返したが、茶碗蒸しが本当に美味しいらしいのだ。
「なんて言うか、京都寄りの味してますね。ほんま美味しい。」
びたりと宗一の動きは止まったが、空気は止まらなかった。黙って酒を傾ける宗廣の視線が宗一に向いた。
「課長の作る御飯、何でも美味しいよ。」
「私、幸せ者でしょう。」
「ほんま、言えてますわな。こんな美味しいモン、毎日食べてたらバチ当たるわ。」
「如何しましょう、私、地獄行きです。ふふ。」
「そうか、じゃあ、俺も其処に行こう。閻魔を餌付けしよう。」
「良いですね、毎日地獄の釜で鍋しましょう。」
「じゃあ俺も地獄行く!」
「来るなよ…」
「じゃあ僕も招ばれます。」
「ほんなら俺も招ばれますわ。」
「おいおい、皆んなが集まったら極楽になっちゃうだろう。」
課長は破顔し和臣の猪口に酒を注いだ。
「秀一は来なくて良いよ。」
「はは、頼まれたって行かないよぉだ。」
黙々と茶碗蒸しを食べる秀一はあっかんべぇし、舌を出した。箸を進めていた課長はふと、繊維が足らん、と腰を上げた。
「昨日、がめ煮したんだ。食べたい奴居るか?」
「がめ煮って、なんですか?」
時一が聞いた。
「筑前煮の事や。」
食事を口にして初めて宗一が口を開いた。
「食べたいです!」
「僕も食べたいです。」
「一杯食べて、大きくなれ?」
「え?横にですか?一寸厳しいな…、三十代からの此の代謝の悪さ、なんでしょうね。橘、覚悟しときな、三十で代謝の悪さを痛感し、三十半ば過ぎたら一気に体型に来るから。」
「気ぃ付けまぁす。」
「其れを、四捨五入して五十になる男の前で云うんじゃない。」
課長の言葉に、秀一の手が止まり、キッチンに振り向いた。
「は…?」
「ん?」
「そんな、歳行ってました…?」
「俺、今四十六だぞ。」
四十代なのはなんとく把握するが、其処迄行っていたか。
判らん、と秀一はスプーンを動かした。
筑前煮を侑徒と時一、宗廣に渡した課長は、汁しか入らず、黙々と茶碗蒸しだけを食べ続ける秀一の器に首を傾げた。
「好きな具材、無かったか?」
「茶碗蒸しが好きです。」
「じゃあ俺のあげるよ、秀一。」
「やったぁ、頂戴。」
和臣はもう何度も課長作の茶碗蒸しを食べているので、今更秀一に渡した所で味はしっかり覚えている、具の内容迄覚えている。
「でしたら、私のも、如何ぞ。」
宗廣からも渡され、秀一は、普段引っ込む頬を丸くさせた。
なんだろ、此の違和感は。
確かに茶碗蒸しは食べているのだが、具材が避けられている。宗一に銀杏を渡したのは、嫌いだからと取って良い。銀杏嫌いは大人にも多い。然し、椎茸も鶏肉も蒲鉾も無視されている。
後から食べるのだろうと座った課長、珍しく焼酎を傾けながら箸を突いた。
「うわぁ、此の柚子ごしょう美味しい!」
食べる度に一々絶叫するのだろうかと、侑徒は何時になく煩い。
「紅葉下ろしも良いよ。」
紅葉下ろしで食べる時一は云う。尚、柚子ごしょうも紅葉下ろしも、課長作である。
其れを聞いた秀一が、柚子ごしょう頂戴、と云い、汁に溶かすとスープのように飲み、又茶碗蒸しを食べた。
自分に用意された茶碗蒸しを食べ終わった秀一は蓋をし、続いて和臣から貰った茶碗蒸しに手を付けた。そして、柚子ごしょうを溶かした汁を飲み干すと又汁だけよそい、今度は紅葉下ろしを溶かした。
「あー、こっちの方が好きかも。」
「だよね、紅葉下ろしだよね。」
「うん。」
此の辛さが堪らん、と秀一は満足見せる。
「課長!ハンペンが無いよ!」
拓也が望んだハンペン、今此処で壊滅させてやるつもりだった。
「ハンペンは、井上の為に阻止した。御前と云う、パワハラから。」
如何云う意味ですか?と時一が聞くと、おでんパーティーに発展した一連の流れを教えた。
聞いた時一達は笑った。
「井上さん、可哀想。」
「だからハンペンは、きちんとタッパーに汁と一緒に浸かってる。明日渡して、夜温めれば、充分だぞ。」
「本郷は白滝とがんもどきが好きなんだよ。」
「良し、カズ、食べるんじゃない。俺の可愛い可愛い部下にあげる。御前より、ううんと可愛い部下に、な。」
「良いんだよ!本郷なんか!おでん食べられないストレスで胃潰瘍悪化させて死ねば良いんだよ!」
あはは、と時一の感情無い其の場凌ぎの笑い声が聞こえた。


*****


「ヘイ、拓也。オデンは日本の素晴らしい、食文化の最高潮と云える代物だけど、其処迄落ち込まなくとも良いだろう?」
バー ローザ。マスターのヘンリーは龍太郎からコンビニのおでんを受け取り、今頃木島はあご出汁おでんに舌鼓打ってるんだ、と拓也は悔しさで焼酎を傾けた。
「良い匂いがするぅ。」
「ハイ、ユキコ。リュタがオデン買って来てくれたんだ。」
ローザと同じビル、同じフロアに店を構える、バー ミッドナイトキャットのミストレス…雪子が暇な余り、ローザに足を向けた。
「あたし、おでん好き。」
「一緒飲もう。ドーセ、暇デショ?」
「宜しいかしら?」
「ええ、如何ぞ。」
龍太郎の紳士的な笑顔に真夜中に生きる猫は、薔薇の花園に足を踏み入た、クローズよ?、オゥケィユキコ…、ヘンリーの笑顔に拓也は救われた。


*****


元が弱いんだ、と慣れない焼酎に少し酔った課長は呟いた。然し其れでも後片付けはする。宗廣、和臣と一緒に鍋を片し、洗い物は宗廣担当らしかったが、其の後の…所謂二次会的な用意を課長はしていた。和臣は長机に布巾を掛け、此れって彼処で良いんだよね?、と息子張りの働きをする。
「木島、良いぞ、俺がするから。壁にでも立て掛けて…」
「構いませんよ。宗廣さんは、洗い物に集中してらして下さい。彼の方は…」
ちらりと課長を見た。
「ワインの支度に…」
「お忙しい。」
二人は作業の手を止め、笑い合った。
和臣と宗廣、実は先輩後輩の位置付けに当たる。
和臣が世谷署に配属された時、捜査一課は課長の宗廣の、検挙率九割の…ゴールデンエイジとも云える時代で、歴史…伝説だった。其の当時の和臣は、課長と宗廣のコンビネーションには羨望するものがあった。課長と宗廣で和臣を一課の空気に慣れさせ、和臣にとっても、宗廣は課長並の影響力持たせた人物である。
左遷でもなんでも無い…目先三寸の三課に宗廣が配属されると決まった時、一番不安覚えたのは和臣他為らない、和臣を盲愛溺愛して居たのは、課長であり、宗廣だった。
本当に俺が、彼の方の右腕として、宗廣さんの代わりになるのでしょうか、と、今では考え付かないしおらしさを和臣は見せた。

――大丈夫、彼の方が、御前を此れ以上無い側近だと決められたんだ。俺は…いいえ私は、側で見守らせて頂きます。
――宗廣さん…
――今生の別れじゃない、三十秒程あれば私に会える。貴方が声を張り上げれば、聞こえる位置に私は居るでしょう?大丈夫、貴方なら、彼の方の側近に相応しい。
――でも…、俺には、宗廣さんの代わりなんて…
――和臣、…大丈夫。何の迷いも無く、今迄通り、彼の方の側に居れば良い話だ。

彼の方の目が御前を信頼してる……そして、課長和臣の二大勢力、真の黄金時代が幕を開ける事になる。
宗廣が捜査三課に配属された時、捜査一課は課長を頂点とした。黄金時代幕開けに相応しい時だった。
課長には平然とタメ口聞く和臣だが、宗廣には其れはもう、敬語通り超し尊敬語で話す。此れは宗廣側が和臣を尊重し、敬意示すように話す為であり、そんな人間に対し、タメ口を聞く程和臣は無礼且つ不躾では無い。敬意以って接して来る相手には、例え年下でも其れ以上の敬意で返す、其れが和臣の信念である。
なので、宗廣と会話する和臣を見ると、本当に、元からの育ちが良いのを周りは痛感させられる。気付いたのは時一であった。
「木島さんは、本当にお育ち宜しくて遊ばられる。」
「見た儘ですね」と侑徒も云う。
長机を元あった場所に収納した和臣はワイシャツの袖を下ろし、如何でしょう、と微笑み返した。
和臣、科捜研メンバーには、秀一以外敬語である。
「そうそう、此奴、本物だよ。」
床に座り、犬と戯れる秀一が云った。
中学時代から和臣を知る秀一、中高一貫であった為、全学年最高になった時の和臣の信頼と羨望といったらなかった。
「此奴、生徒会長だったよ。」
「やっぱり。」
一課は安泰ですね、とワイングラス揺らす課長に、時一は向いた。
「……嗚呼、俺が居なくなっても、一課は大丈夫だ。」
「課長…?」
「大丈夫、定年迄しがみ付くから。」
良かった、と、今にも消えてなくなりそうな雰囲気出す課長に、安堵した。
フルボディの匂いが、冬特有のきつい空気に絡む。何故にこうも、冬の空気は匂いがきついのか。
「菅原さん、何方です…?」
洗い物済んだ宗廣が、テラスで酒の熱と宴会の余韻に浸る全員に聞いた。酒で火照った身体には、丁度良い温度であった。
「そういえば…」
見ない…と侑徒が云った。
何時から見えなくなったか覚えて居ないが、気付いたら居なかった。
一瞬の沈黙の後、課長はグラスを空にし、彼奴が居ないとは良い、と無理矢理に作った笑顔で答えた。
「…此奴等、寝かし付けてくる。……直ぐ戻るぞ?」
だからワインを飲み干すなよ、と課長は茶目っ気たっぷりに云い、犬達の寝室がある一階に降りた。一応は番犬である、玄関に一番近い部屋に彼等の寝室はある。
暖房の切れる一階のリビング、電気さえ無く真っ暗で、中庭を眺めるだけのように設置されたソファに宗一は座っていた。
二頭は課長からキスを貰うと静かに寝室迄行き、見届けた課長は背後から宗一に囁き掛けた。
「如何した。」
「……しんどいわ。」
此の家に居る事も、此の家で御前と居る事も。
思い出す過去に宗一は焼酎グラスを傾け、横に座った課長は置かれた空のグラスに氷と酒を入れた。
「だったら、来なきゃ良かったのに。」
マドラーを動かし、煙草を新たに咥える宗一の薄い口を眺めた。
暗い中で一点の炎の明るさ、平坦な顔付が良く見えた。
「御前から誘われて、…断れるか。」
宗一の垂れ目は普段、温厚な雰囲気を見せるが、今だけは犬の本性とでも云おうか、はっきりとした捕食側の目の色であった。
男の手にしては繊細過ぎる細い手、此の手が、何百という命を救った。
俺を掴むには細過ぎた、けれど、其の手を求めていた、患者が求めるように。
気付いた時には其の、細く骨張った手を握り、頬に寄せていた。
「…酔ってる、俺…」
「……判るよ。」
「…俺は最低だな。大智を選んでいる筈なのに…」
酒の絡む息を吸い上げた宗一は灰色の目をしっかり捉え、鼻先を擦り付け合った。
理性が吹き飛べば、キスは簡単に出来る。ギリギリの所で二人は互いの息を教え合い、酸欠になりそうだった。
「なんで、同時に二人は、愛せないんだ…」
貞操観念云々では無く、ラブとライクの違いを課長は云う。君の事は愛してる、だけど、其れと同じように妻を愛してる、と物語進めた小説はなんであっただろうか。
そう。
本妻に罪悪感覚える程愛人を愛し、愛人を愛する程本妻の大切さを痛感する。
本妻が居なければ、唯の恋愛で済んだ。
「大智は、死ぬ程好きだ、俺の全てと云って良い…、捨てられたら、俺は確実に道を見失う。だのに、なんで、破滅と判っていても、御前を求めるんだろう。」
「御前以上に、人生捧げてええて、思える相手が見付からん…、俺、何時なったら、御前の呪縛から逃れられんの。」
キスをしてしまえば同じ事の繰り返し、もう次は無い、流石の宗廣とて課長に愛想付かせ、捨てる。
だからと言って、宗一に己の全人生は捧げられない。捧げるには、余りにも無謀で危険でしかない。
「なんで、御前に惚れたんだろう…」
「そん儘返すわ…、御前以上の男が見付からん…」
キスは出来ない、すれば全てを失う……此のもどかしい至近距離に課長は悶えた。
「なんで俺を求めるんだ…」
「判らん…、判ってたら、苦労しないさ…、本当に俺は……」
御前を愛してた。
革張りのソファは軋み、真っ暗な迷路を明かりも無しに進んでいる気分だった。
キスしたいと宗一は苦しく吐き捨て、俺だって同じだと課長も囁いた。もどかしい息遣いが暗闇の中で繰り返された。
此の暗闇の迷路での頼りは、聞こえる相手の息遣いだけ、其処に向かって歩くのが正しいのか、反対に逃げれば出口が見付かるのか。
答えを探して、何年になるのだろう。
「甘酸っぱい魅惑的な果実は如何?危険を伴う美味しさだけど…」
かっ喰らいそう程宗一の舌が伸び、引き寄せられるように課長の舌が伸びた。
「おっと、お邪魔だったかな?」
…アダムを真っ先に誘惑した蛇の声した。然し此の蛇は、中々に制御的な蛇で、誘惑する所か、其の誘惑を断ち切らせた。
「愛人を自宅に呼び、愛人に屈辱を味合わせ、そして裏では二人揃って本妻を嘲笑う……、御見事です、課長。其のドス黒さ、嫌いじゃない。」
秀一の言葉に宗一は身体を離し、課長はゆっくりと立ち上がった。
「反論、なさらないのか?」
其の儘通り過ぎた課長を引き止めるように秀一は笑い、二階に姿が消えると喉奥で笑った。
「先生も先生ですよ。」
「大きに、助かった。」
又、迷路を複雑にする所であった。此れ以上複雑にした所で面白い事は何もないのに。
彼奴は遠の昔に出口を見付けたのに、何故俺は出口を見付けられないのだろう。抑、出口なんて存在するのか?
課長という巨大な迷路を、宗一はもう何十年も彷徨っている。
「煙草、貰えます?」
「どうぞ。」
肩から煙草を渡された秀一は一本引き抜き、立てて振った。
「煙草の火は小さい。けれど、甘く見ると、惨事ですよ。こんな豪邸でも、あっという間に燃え落ちる。貴方は御自分で、自分の城に火を放とうとしてらっしゃる。」
宗一の口に押し付けた秀一は其の儘二階に上がった。口から離した煙草をテーブルに転がした宗一はソファに倒れ込み、腕で目元を隠した。
「菅原先生は?」
テラスから聞いた和臣に、御前は気楽で良いな、と呟き、カウンターに置いた烏龍茶を飲んだ。
「何の話してるんだ?」
時一、侑徒、和臣…此の三人で一体どんな話をするのか、知的な話で無いのは何と無く判る。だからといって其々の趣味を語り合うのも違う。
「恋話。」
「女子か、御前。売れ残り三十女の女子会かっこ失笑かっこ閉じる、みたいだ。」
「えー、楽しいよね?恋話。」
「楽しいです。」
「ほーら、橘さんは楽しいって。」
「次の議題はどうせアレだろう、結婚したぁい。中身がなさ過ぎて参加したくない。」
其のやり取りに課長はグラスを口に付けた儘笑い、秀一に向いた。
「御前、恋人居るのか?」
烏龍茶のグラスを付けた儘秀一は視線を流し、カウンターに置くとテラスに出、手摺に背中を預ける和臣の横に立った。
「居ません。」
手摺から腕を垂らし、中庭を眺めた。
「秀一って、ゲイだよね?」
「嗚呼。」
「好きな人、居るの?」
其の言葉に視線を和臣に向けた。
「…居るよ。凄く身近に。」
「…まさか、課長…?」
和臣と同じにブランデー傾ける宗廣の喉が詰まった。
和臣から視線逸らした秀一は腕の間に頭を下げ、肩を揺らし笑った。
「おいおい、なんで此の方になるんだ?烏滸がましくも恐れ多いわ、惚れるなんて。」
「俺は、シュウの好みじゃない。シュウは可愛いタイプが好きだから。」
「なんで課長が秀一の趣味知ってるの?」
「吐かせたから。」
刑事が他人から何かを吐かせるのは得意中の得意だから、と時一のグラスにワインを注ぎながら云った。
「じゃじゃ馬っぽいのが好き。」
「一筋縄じゃいかないような男。」
「ふぅん。秀一頑張れ、成就するよう適当に応援しとく。」
「もっと気合い入れて応援してくれ、実りそうないから…」
「判った、じゃあ相手の事教えて。」
「僕も分析お手伝いします、そして其処から相手をどう動かせば良いか、貴方がどう動けば良いか、考えてあげます。」
誘導尋問。其処から秀一の片思い相手の話を聞き出すつもりであったが、此の超天才に和臣が敵う筈が無い、其の手に引っ掛かるか、と和臣と同じように床に座った。
「俺の話は良いから、橘さんに聞こう。恋人居るの?」
急に振られた侑徒は一瞬強張り、然し蕩けるような笑顔を晒した。
「……はい。」
「誰だ、おい、今直ぐ別れてくれ。橘さんに恋人が居るとか辛い。俺の唯一のオアシスが枯れた。相手の性別はどっちだ。」
凄む和臣に、やっぱり御前もソッチじゃん、と秀一達は思った。
「ええと…今は…男性、です…」
「あはは。」
場違いな時一の笑い声が響く。
「橘さん、バイなんだよ。」
「良し、じゃあ俺もバイになる。ユウナさんバージョンでお願いします。健全なお付き合いしましょう。」
ユウナさん、とは科捜研と関わる事になった事件で、侑徒が女装した際名乗った名前である。其の時和臣も女装し…誤解されないよう云っておくが趣味では無く、真面目な捜査の一環であり、和臣の女性名はミユキである。
「じゃあ木島さんは、ミユキちゃんでお願いします。ミユキちゃんは、かなり良かったです。」
「なんか違う、なんか違う。色々おかしいです。ゲイカップルに変わりは無いけど、なんか色々混ざってる。傍目は女同士で、実態は男同士とか、カオス過ぎる。」
其れに秀一が声を出し笑った。課長も笑う。
「木島、恋人居るけどな。」
「しっ、しっ。なんで云うの!云ったら駄目!」
「…最低、木島さん。」
侮蔑の眼差しを向ける侑徒に、課長の所為で振られた、と和臣は拗ねた。
「木島さんも橘さんも恋人が居る…うん、話が進む前に終わちゃいましたね、あはは。」
時一の笑い声が虚しい。
「又振られたな、木島。」
「辛い…」
此の儘テラスから飛び降りてしまおうか。
秀一の肩に頭を乗せた和臣は、グラスを傾けた。
午前零時半、上がって来た宗一が、明日も仕事あるから帰る、と荷物を取りに来た。
「侑徒、帰るよ。」
「はーい。」
持っていたグラスをテーブルに置き、荷物を持った宗一は聞いた。
「御前等、未だ残る?」
「宗一が帰るなら、僕も帰る。」
「俺は和臣と一緒帰る。」
「判った。」
一瞬でも宗一は課長と目を合わさなかった。
「御前、帰れよ…」
「帰らない!」
「泊まって良いぞ。」
「え!?じゃあ、俺も泊まる!」
「はいはい…」
課長から目配せ貰った宗廣は、三人に挨拶を済ますと、ゲストルームの整えと風呂の用意、タクシーの手配で消えた。
一階に下り、挨拶を交わしているとタクシーが配車され、課長は笑顔で三人を見送った。


*****


何故、目の前に秀一の寝顔があるのだろう、と六時半に鳴る携帯電話のアラームで起床した和臣は思った。
あの儘課長宅に泊まった二人は、同じゲストルームで寝た。其れは判るのだが、セミダブルベッドが二つで、其々に寝た。なのに何故、秀一が自分のベッドに居るのか。
「…違う、俺が秀一のベッドに入ったんだ…」
二時近くに秀一が一足先に寝た、和臣は三時近く迄課長達と酒を飲んだ。其処からゲストルームに入り、一旦は空いている方のベッドに入ったのだが、寒かった。酔っていた和臣はエアコンのリモコンが何処にあるのか判らず、秀一のベッドに入った。
酔っ払い無双である。
秀一が起きる前に、知られる前にベッドから抜けようとしたのだが、身体が動かなかった。腰にしっかり秀一の腕が回っていた。起こさないように腕を掴んだが、拒絶するように力は強まった。
息を吐いた時、喉奥から響く秀一の声に戦慄した。
「起きてるよ、ばぁか。」
目を閉じた儘秀一は吐き、ゆっくりと目を開けた。
「可愛い寝顔だったぞ、和臣。」
「なんで見るの?」
「アラームが鳴る前に起きてたから。起きたらなんだ、御前が赤ん坊みたいな顔で寝てる。可愛いから写真撮ってやった。」
「そして其れを雪子に見せるんですね、知ってる。」
「…ふ。」
天井に向いた秀一は前髪を掬い上げ、サイドボードに置いた眼鏡を手にした。
「あ、待って。」
「ん?」
「御前、眼鏡無い方が格好良い。」
「は?」
カシャ、と秀一を撮った和臣は、俺の写真を雪子に見せたら、此れを御前の想い人に流す、と脅迫した。
「御前、寝癖凄いな…」
「うん…」
二人同時にベッドから下り、大爆発する和臣の頭に笑った。其の儘一階に下りると、朝食の匂いが充満し、課長と宗廣に二人は頭を下げた。
「お早う、二人共。」
「木島、凄いな、其の頭。ある種の芸術だ。博士、お早う御座います。」
「御出で、木島。セットするから。シュウ、先に食べてろ。」
此の方は何時迄お母さんに徹底するのだろう、と思いながらも秀一は座り、和臣はぼうっとした頭を課長に弄られた。
「お腹空いたよぉ。」
「判った判った。」
そんな二人のやり取りを、味噌汁飲みながら秀一は聞いた。温泉卵を限りなく液体化させ、其れを流し込んだ。
「課長、味噌汁もっと下さい。」
「注ぎますよ。」
宗廣は碗に味噌汁を継ぎ足そうとしたのだが、碗に残る揚げや若芽に首を傾げた。碗を渡し、観察した。味噌汁だけを眈々と飲み、白米等には一切手が付けられていない。
気付いたのは、課長も同じだった。
昨日から妙ではあった。
秀一は、液体或いは、口内で液体に出来る物しか口にしない。
気の所為と思って居たのだが、二回も続けて見ると、流石に異様でしかない。横で白米を摂取する和臣の所為で益々異様に映った。
「シュウ。」
「はい?」
「なんで、味噌汁ばかり、飲むんだ?」
箸を止めた秀一は箸置きに置き、云ってなかったですか?と課長を見た。
「何が?」
「俺、固形物が食べられないんです。液体しか。」
秀一の発言に和臣は味噌汁を喉に詰まらせ、宗廣は余りの衝撃に珈琲を口から零し、噎せた。課長に至っては絶句し、菩薩のような顔で瞬きを繰り返した。
「え?」
漸く声が出、いやだから、と秀一は続ける。
「固形物、噛むのが面倒で、食べないんです。顎疲れるんで。」
液体しか摂取しない理由、和臣と宗廣は余りの下らなさに絶句し、先生は知ってるから貴方も知ってると思った……其の言葉に課長の母親機能に火が付いた。
駄目だ、駄目だあの父親は。此処迄放置されているとは思わなかった。
「白米、貸せ。」
「お粥も俺、舌ですり潰せないから無理ですよ。」
「嗚呼判ってるさ、貸せ!」
秀一から白米の入る碗を受け取った課長は、其れを擂鉢の中に入れ、冷凍庫から笹身を取り出すとレンジで解凍し、其れも擂鉢に入れた。
「課長…?」
「離乳食だろう…、中期離乳食を作れば良いんだろう…」
取り憑かれたように課長は擂鉢で白米と笹身を擦った。舌と上顎ですり潰せるのが離乳食中期の柔らかさである。
筑前煮の人参を取り、其れも包丁で細かく切った。其れ等を全て鍋の中に入れ、鶏ガラで味付けし序でに卵も落としとろみを付けた。其の間に昨日の大根を別の鍋で繊維が溶ける程煮詰め、皿の中でガンガン潰した。そして其の上に、摩り下ろしたお浸しを乗せた。
「くそが、あの男…、完全に放置しやがって…、面倒見るなら見るで、食事迄面倒見ろ…、中途半端に面倒見るんじゃない!駄目な父親、駄目な父親、無能!父親の資格無い!」
擂鉢其の物が宗一であるかのように課長は悪態吐いた。
荒く息を吐いた課長は秀一の前に、限りなく液体のお粥と限りなく液体に近い大根を置いた。
「此れで文句は云わせんぞ、食べられるだろう?ん?」
「凄い…」
スプーンで限りなく液体に近い大根を掬った秀一は感激し、満面の笑みで頂きますと口に入れた。
唖然と口角引き攣らせ和臣は眺めた。宗廣も同じである。
「宗!」
其の儘課長は宗一に電話を掛け、良くも此処迄放置したな、と、まるで離婚した夫婦のやり取りをした。父親に子供を取られ、久し振りに我が子と食事した母親が、其の杜撰な食事の取らせ方に怒りを見せる…といった具合である。
課長の抗議を聞く宗一は、此処でも駄目親父っぷりを発揮した。
「ばれたか。黙ってたのに。」
詰まり、課長に知れたら今の状況になると判る宗一は敢えて黙っていた。
「馬鹿か貴様、其れでも保護観察者か!御前が面倒見る約束でシュウを病院から出したんだろうが!」
「監視してるわな。面倒見てるよ。」
「良いか、御前がやってる事はな、子供を手元に置くだけで、教育も躾もせず、唯々生かししてるのと同じなんだぞ。そんなのは面倒見るとは云わん!犬の子育てより酷いわ!」
「和臣。」
「何。」
「此れ美味しいよ。」
「そう…、良かったね…」
久し振りにお米食べた、と云う秀一に、宗廣は唯々秀一が不憫で、此の気持ちはアレだ、引き取って俺達で育てた方が良いんじゃないのか、である。
「あー、煩い!ほんなら御前が面倒見たらええやないの!」
典型的駄目親父の骨頂である。
「はあ!?御前が保護観察者になったから出られたんだろうが!御前が、出したんだろうが!無関係の俺に許可が下りる訳無いだろう!」
秀一の今の立場は、社会復帰プログラムの一環で病院を出ている。宗一が上司として、社会秩序を教育する、と云うので主治医である時一から許可が下りている。此れを宗一が放棄したら保護観察者が居なくなり、秀一はめでたく病院に送還される。
電話を切った課長は珈琲を一気に飲み、綺麗に片付いた秀一の皿を見た。
「美味しかったか?」
「はい。」
「シュウ、悪い事は云わん、俺と養子縁組を組め。そして此処で暮らせ。あの男は責任なんて言葉、知らん。」
「私も、其の方が宜しいかと…」
「良いね、考えておこう。」
ポケットから薬を取り出した秀一は、味噌汁で其れを流し込んだ。
「其れ、何…?」
「俺の頭を正常化するとかしないとかで、あのクソ精神科医が用意した奴。多分、効いてない。」
親指を舐めた秀一はシニカルに笑うと、課長が折角セットした頭をぐしゃぐしゃに撫で回し、そしてショックペンを首筋に当てた。
昨日一階に態々下りたのはショックペンを取り戻す為で、課長達の行動は計算外だった。
「嗚呼!朝から!」
「シュウ!」
「いっひっひ、やっぱ御前の悲鳴が一番だな。」
秀一自体を昨日初めて見た宗廣は、唯々奇怪な恐怖を覚え、眩暈迄して来た。
「嗚呼…、井上達に渡すタッパー、用意しなきゃ…」
疲れ果て座った課長は、溜息と一緒に立ち上がった。




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