075 振り返らなくていいよ、行こう




「栞」


 名を呼ばれ、栞は振り返る。傷だらけの白い肌が、やけに目立った。「もう、眠くない?」少しだけ声を和らげて問いかければ、彼も笑顔で頷いた。あの時、力を使いすぎたせいで一時的な睡眠を必要としていた彼の体だったが、戦いの最中に十分眠ったのだろう。縁側に座っていた栞の横へと舞い降りると、少しだけ顔色を曇らせる。


「…残念ダったネ」
「……もう、8人目を、――私たちの世界を、守れないのかな」
「…ねえ。何のたメに、誰ガ、あノゲートを作ッたノか。考エてごラん」
「え…?」
「今まデのコとに無駄なコトなんてナイ。…でショ?」


 栞はその言葉に、ここに来るまでの経緯を思い出した。
 日本へと戻る道が閉ざされ、希望の道が途中でへしおれた。その後、城外へと逃げることができた子供たちは――何せテイルモンの置き土産であるデビドラモンが襲ってくるのだ。逃げることも一苦労だった――ゲンナイにそのことを報告した。
 希望が消え去り、「残念じゃすまされないんだよ!」「日本中が大混乱だわ!」悔しげに唇を噛みしめる子供たちに、ゲンナイは一言「ゲートを開けることができないこともない」と言った。しかしそれは簡単なものではなくて、道具を使うとのことだった。そうしてゲンナイの家へと招待された子供達は、光を頼りにゲンナイの家に辿りついた。彼の家は湖の中にあり、変てこな空間だった。本物のゲンナイとようやく対面した子供たちは一斉に質問を繰り返した。「どうして今まで出て来なかった」「ここはどこだ」「選ばれし子供たちって何?」…ゲンナイはめんどくさそうに答えた。ただヤマトの「俺たちを選んだのは誰だ?」空の「ゲンナイさんなの?」という厳しい質問には、少しだけ間を置いて、首と横に振った。そして「今お前たちが必要なのは8人目の選ばれし子供――つまりは9人目の仲間を助けることじゃ」そう彼等に諭した。家の中へと入った子供たちは現在のヴァンデモンの居る位置を教えられた。――光が丘。ヴァンデモンが向かったということはすなわち、そこに8人目が存在しているということである。――光が丘。栞は顔色を曇らせた。真田家へ来る前に居た場所であった。あまり、良い思い出はない。栞の顔色を気遣うようにか、ゲンナイは子供たちの前へと10枚のカードを並べて見せた。アグモンやゴマモンなどが描かれており、二人は嬉しそうに声をあげた。何でもそのカードを、城内の石板へとはめこめれば、ゲートは再び開くとのことだ。しかし光子郎が気づいたのは、カードが一枚多いということだった。ちらりと一瞥しただけだが彼の脳は覚えている。9枚しかはめこむ穴はなかった。ゲンナイはくぐもった声で告げた。「よく分からんのが一枚まじっとる」「どれをどの穴にはめこむんだ?」「それも分からん…」返ってきた言葉に、子供たちは一様に重たいため息を吐きだした。
 適当にはめこめばいいだろう。そう楽天的に言った太一を真っ向から反対したのは、イヴモンだった。「そウいウワけにハいかなイと思うヨ。何せ違う世界ヘと向カウ大事なゲートだからネ。間違った知ラナい世界に飛ばさレルかモしれナイシ、もしカシタら人間とデジモンが融合しテしまうカモしれなイ。そんな簡単なものじゃない」ぴしゃりと言い放ったイヴモンは、どこか不機嫌そうにも思えた。
 「…じゃからヴァンデモンが呪文でやったことを、お前たちは自分の力でやらなくてはならん。…まあ守人も付いておる、何とかなるじゃろ」ゲンナイは常時適当に言った。手掛かりが何もない状態の中で、もしかしたら全く違う世界に飛ばされてしまう危険もある。先ほど以上に苦しげに寄せられた眉に、ゲンナイは今夜は休むよう促した。
 栞は口を紡ぎ、イヴモンを見下ろす。やはり白い体にあちらこちら付けられた傷跡がやけに目立つ。そっと横に置いておいたショルダーバックの中から、青色のハンカチを取り出した。


「栞…?」
「…コレ、あげる」
「え?」


 小さく微笑みながら、彼の傷口――主に目立つ首へと巻き付け、後ろで縛ってあげれば、スカーフの完成だった。「ん、やっぱり蒼似合うね」そのままその脇に手を突っ込んで、彼女の眼前まで引き寄せる。


「え、エ?こ、コれ…栞の、デショ?僕、大丈夫、だかラ…そノ…」
「イヴモンの白い肌に、青色はよく映えるね。それに空色の瞳と合わさって、とっても綺麗だよ」
「…栞…。あ、りがと。大事に、するよ」


 思わぬプレゼントに、イヴモンは頬を緩ませ、やがて嬉しそうに微笑んだ。カードをはめこむのに失敗したら、全てを失ってしまうかもしれない。そんな不安さえ、イヴモンと共に居ると消えていく。ぎゅ、とふわふわの毛だまりを抱きしめた。生きている感触が、直に伝わって来るのが分かる。


「栞…?」
「道は、一つじゃないんだよね…。帰れる、よね」
「――当たリ前ダよ。栞は絶対、僕が元の場所ニ…カズマのモトに帰しテアげルかラ」
「今度はちゃんと一馬にイヴモンのこと、紹介したいな。絶対、びっくりするよ」
「フフ。楽しミ」


 ぷかぷか浮かぶゲンナイの作ったメカ魚たちを見ながら、二人は微笑んでいた。夜が更け、子供たちが眠りについた後も、縁側に座りつづけた。


★ ★ ★




「準備はいいかな?」
「はい!」


 朝目覚めた子供たちは、久しぶりに布団の上でゆっくり休み、美味しい朝食を食べたおかげか、妙にすっきりとした表情をしていた。もし間違えてしまったら違う世界に飛ばされる。それでも僅かな可能性に賭けさえすれば、もしかしたら自分たちの世界に戻れる。その僅かな可能性に、希望を見出した。
 また昨夜、光子郎とゲンナイが話し合いをしたらしく、彼はパソコンにアダプタを取りつけてくれた。何でもそのアダプタにデジヴァイスを差し込めば、アナライザにその持ち主が出会ったデジモンの情報を加えられるとのことだ。新機能もいくつか入れてくれたらしい。これを使いこなすことが出来れば、カードに隠された秘密や、どのカードがゲートを開く鍵なのかも分かるかもしれない。
 ありがとうございます。光子郎は笑顔でお礼を述べ、パソコンに触れると嬉しそうに頬を緩ませた。


「選ばれし子供たち、大変だろうがその力を信じなさい。君たちには守人がついておる。勝てないわけがない」


 ゲンナイのくしゃくしゃの顔が、ふ、と優しげな笑みを浮かべた。自分のことを言われているのだ。栞は少しだけ恥ずかしくなって俯いた。


「選ばれし子供の力かー…」
「信じましょうよ!私たちを、デジモンたちを!」
「…役に立たなくてすまん」
「そ、そんなことないです…!ゲンナイさんには十分助けてもらいました」


 弱気な丈を空が叱咤し、継いだゲンナイの言葉に栞は返す。これ以上、彼に何かを求めるのはお門違いな気がする。これから先は、選ばれし子供たちである彼等が。そして、自分が守人と呼ばれる所以を示すべきだ。もう後にも引けないところまできた。あとは突き進むだけだ。


「すまない、守人。頑張ってくれるか?」
「あ!…い、いいえ…。みんなが居てくれるから、…私もがんばります」
「そうそう。栞には俺達がついてる。なっ?」


 どれだけ否定しようとも。どれだけ闇の中へと落ちようとも。仲間が救いあげてくれる。だから、無茶を出来る。頑張ろうと思える。栞は、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「では行け。子供たちよ。幸運を祈っておる」
「「「はいっ!」」」


 その先にある未来を信じ。帰るためにも、そして新たな仲間のためにも、無謀かもしれないが、彼等は歩き続ける。

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