053 透明なこいごころ




 空は栞の手を握りしめ、ただ早く目を覚ましてくれることを祈っていた。泣きそうになるほど込み上げる想いを、唇を噛みしめることで押さえつける。後悔ばかりが胸を支配していた。


(どうして…どうして気がついてあげられなかったのかしら…!)


 栞が途中で何も話さなくなることは、何も今回が初めてというわけではないし、しょっちゅう起こり得ることだった。だから特に気にも留めていなかったのだ。もしかしたら暗いところがあまり得意ではなかったのかもしれない。もしかしたらずっと疲れていたのかもしれない。もしかしたら何か病気を持っていたのかもしれない。考え出したらきりがないが―――空は己の失点を知っていた。


(…私…紋章のことで、いっぱいだった…)


 あと見つかっていないのは空の紋章だけ。今まで紋章を手に入れるのに苦労しなかったことはない。全員を己のせいで危険に晒してしまったら、と、杞憂に陥っていた。そのことで、先ほど太一にも指摘された。もし先に見つかったのが空の紋章であったのなら、空はそんなに悩んだのか、と。それは考えもしないことだったので、素直に告げる。けれど―――と眠る栞を見ながら想った。そのせいで、栞の体調不良にも気付けなかった。


「…空。栞は大丈夫だカラ、モう寝テも大丈夫だヨ。明日モ、早いでショ?」


 ふわりと夜の冷たい風になびいたイヴモンの毛は、純白に包まれていた。空は、曖昧に小さく頷いた。朝になったら栞が目を覚まして、笑顔でいてくれますように。そして、紋章が、無事に手に入れられますように。
 朝になっても栞は目を覚ますことはなく、ただ静かに眠っていた。空は沈痛な面持ちでそれを見つめ、やがてコンピュータで最終チェックをしている光子郎の傍にそっと寄った。一通りのことを問うと、光子郎は少しだけ考え、すぐに口を開いた。


「…そう、ですね。僕たちはデータと言ってもかなり膨大で緻密なデータです。これだけのデータをこの世界に移し替えたのなら、元の世界にもどる時にもフィードバックされるはず…」
「つまり生身の肉体を持ってるのと全然変わらないってこと?」
「そう考えた方がいいです」
「…栞が倒れたのも、『守人』っていうことが、関わってるかもしれない」
「僕はそう考えます。いつから具合が悪くなったのか分かりませんが…おそらく彼女が黙りだしたのが、僕が『データ』の話をし出したころだと推測すれば…」
「分かった。今回のことを成功させるか、あるいは何かしらが起こるまで栞は目を覚まさない。それと今がデータだからって投げやりになっちゃいけないってことね」


 空はき、と目をつりあげた。整端な顔に刻まれた一つの決意に、光子郎も重々しく頷いた。
 朝日がだいぶ天高く登ったころ、壁際に隠れた彼等は光子郎のパソコンに送られてきていたピラミッドの地図を念入りにチェックしていた。エテモンがいるこの場所で軽はずみな行動は避けなければいけない。


「ピラミッドには普通は見えない隠し通路があるそうです」
「今回はあくまでも差出人を助け、空くんの紋章を手に入れることが目的だからな!余計な戦闘は絶対しないように!」


 丈が釘をさすようにほぼ太一の方に顔を向けて言えば、太一は煩わしそうに首を縦に振った。


「僕も行きたいのに…」
「わがまま言うな、タケル。俺たちはここにいて、栞を守らなきゃいけないんだ。分かるな?」
「…うん」
「ミミちゃんも、頼むわね」
「うん。空さんたちも、気をつけて」
「…空。あんまリ、背負わないデ」
「…、ええ」


 イヴモンの言葉に、空はただ曖昧に笑って頷いた。彼等は顔に真剣を縫い付け、隠れながらピラミッドに近づいて行った。
 その場に残されたタケルとミミ、ヤマトは、とりあえず見つからないように再び洞窟の中に避難した。彼らが戻って来るまで、 未だ眠る彼女を守るためにここで待機していなければならない。いつでも戦えるように、とミミはパルモンに言い聞かせていた。


「…栞さん、大丈夫かなぁ?」


 先陣を切って行った太一たちのことも気がかりではあるが、目の前にいる人は何の音沙汰もなしに倒れてしまった。特に荒い息を吐くこともなければ、何かを言う事もない。静かだからこそ、とても心配になった。


「きっと大丈夫よ」


 ミミはタケルの横に腰をおろして、同じように栞を見つめた。漆黒の闇を彷彿させる髪は、今は無残にも地面に散らばっていた。彼女の声が聞けないことが、こんなにも寂しく思うなんて、今まで想いもしなかった。体育座りの中に顔をうずめ、ミミは自分に言い聞かせるように、二回、大丈夫よと呟いた。


「ミミちゃんの言うとおりだ。…無事、目を覚ましてくれることを、…待つだけだ」


 何の役にも立てないのなら、せめて、傍にいたい。胸の奥でそっと芽生え始めた感情を隠すように、ヤマトはしっかりと目を瞑った。

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