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 恐らく呆然としてしまっていたように思う。
 それが不味いことであると気付いたのは、幼い少年の疑わしげな目と、
「このお姉さん、安室さんの知り合い?」という、明らかに彼に向けられている耳馴染みのない言葉を聞いた為だった。
 既に平素の顔に戻っている彼が「そうだね、」と少し言い淀んで見せたので、にこりと笑むと、さも当然という口振りで話し掛ける。


「お久し振りですね、"安室さん"」

「……ええ、そうですね」

「あれ? 覚えていらっしゃらないですか?
お会いしたのが随分前になるから仕方ないのかな、わたし、篠宮千歳といいます」


 顔にはあまり出していないが、内心で動揺しているであろう彼に、どうとでも誤魔化せるような言葉を続ける。このまま忘れたことにされたのであればそれはこの案件には首を突っ込むな、という意味になるだろうか。
 しかし、どうやら彼にその意図はないらしい。人好きのする笑みに親しみを込めたのを見るに、今側にいる人達は関わっても害はない人物であると判断しても良さそうだった。


「勿論覚えていますよ、千歳さん。
以前ストーカー被害のことでご依頼をいただきましたよね。
あれ以来何か変わったことはありませんでしたか?」

「ええ、特には。その節は大変お世話になりました。こんな所で会えるとは思っていなかったから、びっくりしちゃいました」


 スラスラと口を突いて出てくる言葉達は決して嘘ばかりを吐いているわけではない。ただ、事実を少しばかり伏せているだけだ。
 彼が安室という苗字でないことくらい百も承知だし、彼がわたしを忘れるということも、自惚れではなく到底有り得ないことであった。
 しかし、ストーカー被害に遭って助けてもらったことも過去にはあったし、こんな所で会うとは全く予期していなかったことも事実に違いない。
 何の目的があって偽名を名乗ってまで此処にいるのかは定かでないが、彼の邪魔をしてしまうのは本意ではないので、疑われない程度には些細な虚言を口にする必要があった。
 どうやらそれは成功したらしい。先程自身の師に怒りを滲ませていた人物は掌を返したように、ごほん、と一つ咳払いをすると何故か渋めに決めた声で、金ぴかの名刺を差し出してきた。


「いやあ、安室くんにこんな美しい女性の知り合いがいたとは。
ご挨拶が遅れました、わたくし名探偵の毛利小五郎と申します。横にいるのは娘の蘭です。
安室くんはわたしの助手を務めてくれていましてな! だっはっは!」

「そ、うですか。ご丁寧にありがとうございます。わたしは篠宮千歳と申します。
今日はわたしが師事しているピアノの先生、内田充(うちだみつる)先生にレッスンを付けていただく為に此方に伺ったのですが、あの、今はどういった状況なのでしょうか?」


 名刺を受け取った手をそのままぎゅっと握り込まれて少し戸惑いはしたものの、悪い人ではなさそうだった。少々愉快な人物ではあるようだが。
 兎にも角にも早くこの場を何とかしなくては時間を無駄にしてしまう為、先程からつまらなさそうにそっぽを向いて突っ立っている先生に焦点を戻すと、やっと自分の番が来たとばかりにいかにも嘆かわしいといった様子で額に手をやり、やけに仰々しい口調で話始めた。
 わたしが聞いたのは毛利探偵なのだけれど。


「ああ、そうさ、君のピアノに耳を傾けられる時間を心待ちにしていたのに、何やらわたしが私室として使っている部屋で人が死んでいたらしくてね。
唯でさえ丁寧に繕われた美しい絨毯に血痕がこびりついてしまって嘆かわしいことこの上ないのに、あまつさえ突然現れた名探偵を名乗るこの男が、あまりにも杜撰な推理でわたしを犯人に仕立て上げてきたんだよ。
わたしには、そんな無駄なことに費やす時間など無いというのに」

「あら先生、それはさすがに不謹慎ですよ。
でも確かに、何だか大変なことに巻き込まれているみたいですね」

「全くだよ。この上事件解決が延びて君との予定が潰されるようなことがあれば悔やんでも悔やみきれない。
そういうわけだから、君が以前依頼をしたという、そこの若い探偵の彼に是非力を貸していただきたいものだね」


 さすがと言うべきか、日本のクラシックピアノの巨匠とも謳われている先生は、やはり人を見極める目も抜きん出ていると感じさせられることが間々あった。今がその時であるべきだとは決して思わないが。


「先生、でもそれは、わたしが決めることでは……」


 彼の邪魔をしたくはないという気持ちは変わらない。変わらないが、しかしこの先生が一度言い出したことは絶対に曲げない性格であるということも、長く下に付いている上で良く良く理解していることではあった。


「君も、次のコンクールに合わせる為に今日のレッスンは特別力を入れて行うつもりでいたんだろう? 勿論わたしもそのつもりでいたよ」

「はあ、それはまあ、そうですけれど」


 と、いうよりも、気分が優れない日はピアノを奏でることで心の平穏を保つのが一種の癖のようなもので、今日は挨拶もそこそこにすぐにでも鍵盤に向かうつもりでいたのだ。
 いつもより数十倍は気合いの入っている状態の今、肩透かしを食らわされたというような気持ちは確かに残っていた。


「わたしは君の奏でる音色に全幅の信頼を寄せてはいるが、君もわたしもどうしてなかなか忙しい身だ。
今日のレッスンが丸ごと潰れるようなことがあれば、さすがの君でも少しばかり痛手を負うんじゃないかな?」


 ぐうの音も出ない程に正論であった。
この機会を逃したら暫く時間を擦り合わせるのは難しくなる。コンクールが近い今、刻一刻と削られている時間をかき集めたい程には、この現状が続いてしまうことが惜しかった。
 何よりこの状況で先生が"ちょっと署までご同行"願われるなど、想像するのも恐ろしい事態になりかねない。先生の音楽への情熱は脱獄も斯くやという程見境がないのだから。
  ちらりと彼を窺うと、どうやら既に色々と察してくれていたらしい。いつものように自信に満ちた顔で、きっぱりと宣言してくれた。


「本来は毛利先生だけでも十分なのですが、毛利先生直々に助手の僕を紹介してくださったとあっては、先生の顔を潰すようなことは出来ませんね。
ここは、お手を煩わせないよう、及ばずながらも僕が先生の武功を証明してみせます!」

「そ、そうか?
じゃあ、よろしく頼むぞ、安室くん!」

「はい、毛利先生!」


 にこやかな笑みで応えた彼のその様子に、安堵と共にこの事件が解決するのも秒読みかなあ、なんて思ってしまったのは、さすがに贔屓目が過ぎるだろうか。





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