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 三日。肌身離さず携帯電話を持ち歩くようになって三日が経った。
 携帯のことが頭から離れているのはピアノを弾いている時と眠っている最中くらいだろうか。携帯というか、まあ、彼から来る連絡のことから。 ふう、と吐いた息が幽かに漂う灰白の埃を踊らせる。


 どこかのタイミングで連絡が来るであろうことは分かっていた。
 示し合わせたわけではないが、公私共にマメな人なのであの状況のまま放置することは、他ならぬ彼自身が許さないだろう。
 問題は、彼が連絡を取れるタイミングがいつになるかということだった。纏わりつくそれらを振り払うように素早く立ち上がると、頭頂部を撫ぜ払い、進めた足は迷わず灰白を置き去りにすることを選んだ。


 多忙な上に常に危険と隣り合わせの生活を送っている彼と連絡を取り合う際、こちらから電話を掛けることはタブーとなっていた。出来ることと言えば必要最低限の当たり障りのないメールくらいである。
 然りとて彼からという条件下ならばいつでも連絡が取れるかと言えばそうではなく、むしろこんな小娘のことに一々構っていられない程には忙殺される日々を送っているわけで。
 そうそう掛けてこれるわけでもないだろうに、それでも何かあった時には必ず時間を見つけてこちらに配慮してくれる彼からの貴重な電話を取り零さないよう、常は放置しがちな携帯の振動を慎重に確かめながらここ数日を過ごしていた。


 しかし、何というか、こういったものは油断している時にこそ訪れるものらしい。
 三日間、寝食お風呂外出、どんな時も共に過ごしていた四角の機械から少し目を離していた隙に、机の上で軽快なメロディーを刻んでいるそれに目を剥く。


「これを逃したら次がいつになるかわからないのにっ!」


家の中でやたらめったら走り回るものではないと、幼少より厳しく教えられてきた行儀作法をこの時ばかりは放り出し、慌てて液晶画面に指を滑らせると、三日前に会った時よりは少しだけ低い、それでいていつもの通りの、彼の声が応えた。


「こんばんは。今は大丈夫かな。
なんだかバタバタしていたみたいだけど」

「ええ、大丈夫です。こんばんは、零さん。
少し、あの、……書斎の掃除をしていたら、本が崩れてきちゃって」

「それは危ないな、くれぐれも気を付けて」

「ふふ、気を付けます。
それで、今日は何のご用件でしょう?」


 父の、という言葉を省いて笑ってみた所で、省いた理由すら察しているこの人には意味のないことだ。崩れた髪を撫で付けながら考える。コール音が長かった為に携帯を側に置いていなかったことも知れているのだろう。
 それでもこの人は詳しく聞かない。わたしがわざと遠ざけて置いた距離には、絶対に触れない。
 そしてそれは、わたしにも言えることだった。


「先日は驚かせてすまない。
びっくりしたよ、君があまりにも冷静に対応するものだから。
君に話していないことばかり見せてしまったから、俺が何者なのか、疑われてもおかしくないと思ったのに。
──安室透は実在していたのかと、錯覚しそうになった」


 心細い笑い方だと思った。この人の生き方は時に、あまりにも過酷なもののように感じてしまうことがあった。


「貴方以外の貴方なんて、知りませんよ。
わたしには、貴方が教えてくれた貴方しか知る術がないんです。
でも、今この電話の向こうにいるのは、零さんなんでしょう?」

「……そうだな、そうだった。
君はそういう子だったね」


 知らないことは聞かない。貴方が存在するというその事実だけあれば十分だった。わたしが知っている貴方が、そこにいてくれるのなら。
 その事を伝えると、とても柔らかな声で、
「君が知っている俺が俺の全てだよ、千歳」なんて、酷く優しい嘘を吐くのだ、貴方は。






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