◆◇




 そっとヴァイオリニスト特有の、何度も練習を重ねているが故に少し硬くなっている指先を両手で包み込む。


「あなたの演奏を一度だけ耳にしたことがあります。ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番、ト長調『雨の歌』」

「それは……」

「あんまり美しくて、一体誰のことをどんな風に思ったらこんな素敵な音が出せるのかなって、そう思っていました」


 伏せていた目線を上げると驚きで見開かれた瞳と目が合う。諦念の思いすら汲み上げるその一途な音色は、彼女の心そのものだった。
 こんな風に思ってもらえる人は幸せだろうなと思っていた。何も知らずに。
  ふー、と細く息を吐き出して一つ腹に据えると、真っ直ぐ彼女を見つめる。
 上手く、伝えられるだろうか。


「わたしね、待っている人がいるんです」


 何の話をされるか分かってしまったのだろう、大きく揺れた瞳を宥めるようにゆるりと指の腹で彼女の指先を撫ぜる。


「もしかしたら二度と戻ってこないかもしれなくて、でも、待ってるんです」


 それが正解かも分からずに。


「ありがとう、嬉しかったです。本当に」

「ええ、……ええ」


 わたしも、貴方のこと、好きになれて嬉しかったの。ぽろり、一滴落ちた涙と共に、彼女は思い出したようにそう言った。
 顔を覆い膝から崩れ落ちた彼女が消え入りそうな声で呟いた「否定しないでくれて、」に続く言葉をしかと耳にしながら、いつものように、ぼんやりと正解を探していた。




 警察が来たのはそれからすぐのことだった。
 大方動かずに配置に着くよう指示されていたのだろう。駆け付けたというにはあまりに短い待ち時間で、一度たりとも目は合わせずに、婚約者とは別で事情聴取を受けた。
 そのまま授業を受ける気には到底なれず、警察の方もそれを汲んで送ってくれるという話になっていた……筈なのだが、目の前に立っているのは白い車に背を預けて此方を待っているらしい婚約者の姿だ。
 此方に気付いた彼が助手席のドアをガチャリと開けた。…………乗れということだろうか。


「警察の方に貴方のストーカー被害のことで依頼を受けていた探偵だと説明したら、パトカーよりも気安いだろうからと」


 にっこり笑顔で言われてしまえば取り付く島などある筈もなかった。外堀は既に埋め尽くされた後である。
 一応、最後の抵抗として、
「コナンくんは?」と聞いてはみたものの、間を置かずに返ってきた、
「蘭さんに迎えに来てもらうよう連絡しておきました」との回答には思わず舌を巻いた。用意周到とはこの事か。
 自然な流れでエスコートされ乗せられた彼の愛車で渋々とシートベルトを締める。正直彼の車に乗った回数は片手で足りる程なので、何処ぞの警察官の気遣いも無に返る程に気安さはなかった。どころか、今から受けるであろうお叱りを思うと少し緊張すらしていた。
 ちらり、前を向いてハンドルを握る彼の目をそうっと覗き見ると、冷えた瞳と目があった。
 ──滅茶苦茶に怒っている。
 心なしか車内の温度が下がったような気さえしてきて、動揺の余り、
「の、ど渇きません? 何か買ってき、」などと声を掛けると言い切る前に無言で缶のココアを手渡された。ホットだった。気遣いがこわい。
 車内に続く無言に耐えきれず、然りとて簡単に謝るのもそれはそれで納得は出来ない為、掌に缶を転がしたまま窓の外をひたすらに眺めていると、隣からそれはそれは大きな溜め息が落とされた。


「俺が何で怒っているか分かってる?」


 子供を諭すような口調だ。それに反射的に反発するような感情が出てしまう。ぐっと喉の奥に押しやって平然な声を心掛けて出す。


「やたらと場を荒らしてしまってすみません。
犯人に不用意に近付くのも犯人の手を握るのも、場合によっては貴方の手を煩わせるような結果に至る所でしたよね。反省しています」

「そうじゃないだろう、」

「じゃあ何でしょう。頭を下げて相手に首を差し出したこと?
さっさと逃げずにあの場に現れたことですか」

「千歳」


 分かっている。心配を掛けさせてしまった。もしもを想定させてしまった。
 彼は常に大きな動きを見せることは出来ない。だからこそ何かが起きずに済むように、大人しくしていてほしいというのが彼の本意なのだ。子供に掛けるような言葉を頂いたからといって「心配掛けてごめんなさい」も言えないでいるわたしが子供扱いに不満を溢すのはお門違いだ。


「警察官は守秘義務が原則。
危ないことには首を突っ込ませないし突っ込んではいけない。
常に安全が確保された場所で帰りを待つ。
もう、耳タコですよ……」


 悲しい。悲しい程に笑みは溢れる。
 悲しみは隠すものだ。心配は抑え込むものだ。手が届かないことに、嘆いてはいけない。
 わたしは公安警察官の、妻になるのだから。




 赤信号の瞬間に腕の中に閉じ込められながら、静かに繰り返される謝罪の声をただ大人しく聞いていた。掌の缶は酷くぬるい。
 必ず帰ると断言出来ない。子供扱いは止まない。本当のことは、話せない。
 一つ一つに意味があって、一つ一つに思いが込められている。だから何に対する謝罪かなんて分からないし、聞きはしない。


 でも、囲いの中で待つ人が、帰ってこなくなったらその時は、どうすればよいのだろう。


 しとどに濡れたスーツであの日再びわたしの前に姿を現した貴方が、何故突然婚約を受け入れてしまったのか、未だにわたしは理解出来ずにいる。





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