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 パトカーのサイレンの音は遠ざかり、随分前に聞こえなくなっていた。あれに自分が乗ることはなくなったのだという事実に安堵する。
 つい先程まで名推理を披露していたカチューシャの彼女はどうやら自身の高校の後輩であるらしく、しかしさっきまでの慧眼光る様子は何処に行ったのかと不思議に思う位にはすっかりおちゃらけきっている。
 話を聞いてみると、今回の花展に足を運んだのも最近何かと名が売れて校内でもそれなりに言い寄られることが増えてきた自分に興味を示したから、ということらしい。何というか、推理の時とイメージが違い過ぎないだろうか。
 イメージと言えば、連れ立っていたもう一人の髪の長い彼女はなんとあの何かと話題に事欠かない我が校が誇る空手部の主将であるらしく。
 聞かされた時に思わず頬が引き攣ってしまったのは言うまでもない。

 事件解決後、里穂は連行されて行き、依世は所在なげに視線をさ迷わせた後、たった一言、謝罪の言葉を述べて去っていった。
 だからどうというわけではない。
 犯人が捕まったというだけで、現状は何も変化していないのだから。
 ただ、その後に現れた実の父親でもある家元に告げられた言葉だけは、少し気持ちを晴れやかにしてくれた。


『次期家元はお前だ。夭の生前もそのつもりだった。あの子も知っていたしな。
夭の分もしっかり励め──蒼鷹』


 千歳さんと話をした。
 自分を庇ってくれたお礼も含めてだ。その事に関しては一切の感謝を受け取ってはくれなかったけれど、それは一先ず置いておく。
 話をして分かったことは、どうやら随分と、婚約者との仲は良好であるらしいということだった。それを残念に思いながらも、未だに変わらぬ想いを抱いている位には、自分だって軟派な気持ちで彼女を想っているわけではなかった。


「先に知っていたのは俺の方なんだけどな」


 千歳ちゃん。小さな小さな声で、去っていく彼女の後ろ姿に囁く。彼女に慰められていた頃の自分は、彼女のことをそう呼んでいた。
 月日の経過と共に、自分なりに彼女に釣り合う男となれるよう努力してきたつもりだ。だから昔の自分を忘れられているのは、むしろ好都合だと思っていたのに。
 彼女が自分を覚えていないことが今はこんなにも惜しいと思っている。呼び名を変えても、情けない所はそうそう変わるものではないらしい。


「次に会った時には、磐手の名に恥じないように」


 そっと立てた誓いは、幼い頃、自分に誰よりも期待を掛けてくれていた前の家元・磐手へのものでもあったし、自分にとって唯一の磐手を喪った時に声を掛けてくれた、彼女へのものでもあった。


『ないてるの?』

『ないてないよ。ないてない』

『でも、かなしそうよ』


 黒いワンピースに身を包んだ、当時の自分よりも幾らか背丈が大きく見えた少女は、そう言うなり俺の両手を包み込んで小さな指で宥めるように撫でてくれた。
 何で分かったんだろう。今でも不思議に思う。
 お前は悲しみが人には伝わりにくい子だと、見慣れぬ遺影の中で微笑むだけの人となった祖父は、良く口にしていた。
 祖父だけはいつも分かってくれていたのだ、自分ですら気付かない悲しみを。
 当時を思い返しても可愛いげのない子供であったと思う。だからこそあまり周囲には好かれなかった。祖父は優しい人であった。花にも人にも惜しみなく愛を振り撒く人であった。
 里穂がいつまでも喪に服すように暗い色の着物ばかり身に付けるのも、自身を恨むのも、当時の彼女の悲しみようを思えば決して理解のできないことではなかった。
 その執着は理解できずとも。

 理解できなかったからこそ、唯一の人を亡くしてすぐ、形見は彼からしか向けられなかった期待のみで、どうすれば良いのか分からず立ち尽くしていた時に目の前に突然現れた唯一が、美しい黒髪をふわりと靡かせ葡萄のように真ん丸な瞳を瞬かせた、可憐な少女であったなら。
 恋に落ちてしまったのは必然だったように思う。

 そんな言い訳を一人ごちた時、思い出の中よりずっと美しく、しかし幾らか小さくなった想い人が振り返った。
 黒曜石の瞳がきらり、太陽に透けて翠(みどり)掛かって見えた。





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