◆◇ 四
赤ん坊の泣き喚く声が脳を強く揺さぶる。
したり、したりと規則的に落ちる粘着性の水滴が床に広がって──まるで小さな運河の様な。横たわる女性の頬を流れ落ちた雫のように透き通るモノであったならと、反芻する記憶の中で、幾度となく思う。
『結局見つからなかった、か。
まあ腹を割いて確かめたんだ、納得はしてくれるでしょう』
びしゃり、飛び散った液体が壁に付着するのを何の感慨も無い様子で見遣った人物は、まるで歌うように軽快な口調で言葉を紡いでいた。
頬を伝う飛沫を拭いもせずにいるその面構えが果たしてどんなものであったか、それだけがどうしても、分からずにいる。
分かることといえば女性の身体から流れ落ちる全てがどす黒い程に赤く、赤く染まっていたこと。小さな紅葉が温もりを求めて彷徨い、空を掴むこと。
『さて、何と言ったか……ああそう、』
『───でしたっけ?』
真っ赤に塗り潰された記憶の中で、お誂え向きだ、と嘲笑う声が酷く冷淡であったという、ただそれだけ。
「千歳お姉さん?」
紅葉とは言い難い、成人よりは幼い手の平がそっと自身の指を包み込んだのが視界に入る。自身を呼んだ幼い声に返答する為に顔を上げると、そこには小さな名探偵が、何処かこちらを気遣うようにベンチの横に並び座っていた。
側を通った母親らしき女性の腕に抱かれる赤ん坊の泣き声に、意識が引っ張られていたらしい。やはり簡単には終わってくれなかった。
酷く億劫な気持ちを奥へと押しやり、いつもの通り、微笑みかける。
「なあに? コナンくん」
「あ、ううん……何か、様子がおかしいような気がして。その、大丈夫?」
「あら、心配してくれたの?
でも大丈夫だよ。ありがとう」
「だったら、良いんだけど」
無意味な会話。大丈夫だと言っているのに、訝しげな表情を戻す気のない少年にはそれも意味がないようで、だけどもそんな些細なことに、確かに安堵した自分がいる。
疑っている癖に心からの心配も捨てきれはしない、器用で不器用な、憎めない少年。
こういう子がいるから無意味な会話も嫌いではないと、そう思える。さらり、黒い髪を梳くように撫でると、複雑そうな面持ちでじりじりと距離を取る様子が愛らしい。染まった頬を隠したくなる気持ちはよく分かる。
「ーっ千歳お姉さん!
ボク、お姉さんに聞きたいことがあるんだけど?」
「ん? 何かな?」
「お姉さんが係の人と歩美ちゃんのぬいぐるみを盗んだ犯人を見分けられた理由、まだ聞いてなかったよね?」
──残念でした、といった所だろうか。
すっかり追い詰めたつもりでいる少年には申し訳ないが、先程のタイミングから逃れた時点で彼の勝ち気な表情を崩せる算段は付いていた。
「簡単なことだよ、靴を見ればね。
ここの係の人は機能性やファンシーな制服との相性も兼ねてか、皆馴染みやすい暖色系の運動靴を履いているの。
園内の清掃も仕事の内だし、迷子の子供の世話やマスコットキャラクターの誘導なんかで、靴が汚れやすいものね。
だけどさっきの二人組の男性だけは、ファンシーな服に似合わない、ピカピカに磨かれた革靴だった」
ちょうどコナンくんが言っていたように、ね。微笑みを崩さずに言えば、少年の眉が寄せられたのが分かった。
流石にこれで追及が止むとは思っていないが、しかし此方としても、自身の抱く秘密(もの)を除いた全てを曝け出せるのは、唯一人だけと決めている。当然それは横に座っている少年ではない。譲る気などは更々無かった。
「お姉さんの様子だと、それだけじゃないように見えたんだけどなー?」
「そう? でも、コナンくんもただの七歳の男の子にしては、とっても良く気が付くように見えるものね?」
「そ、うかなあ? そんなこと、」
「ええ、それに沖矢さんも、とっっても武術を嗜んでいらっしゃるみたいよね?
一体何処で会得して何に活用するのかしらね、あの"護身術"!」
「ボ、ボク子供だから分かんないや〜!」
冷や汗を流す少年が都合の良い言い訳に逃げたのを尻目に、先程細目の不審な男から聞いた意味の分からない言い訳を脳内再生する。
『護身用にと截拳道(ジークンドー)を習っておりましてね。貴方のお役に立てたなら光栄ですよ』百歩譲って護身用なら過剰防衛まっしぐらだがその辺りはどう誤魔化すつもりなのだろうか。
というか護身用の武術を実弾入りの拳銃相手に何の抵抗も無く実践するの本当に止めて欲しい。いや、絶対護身用じゃないけれど。
「おや、何やら楽しそうな話ですね?
僕も混ぜて頂けますか」
「楽しいという感情は人それぞれですから否定はしませんが悪趣味な知人と知り合いたいとは思いませんのでそれ以上近付くのは止めて頂けますか」
「おっと、また一息で言われてしまいましたか。手厳しいレディだ」
ほんとういやこのひと。
唐突に現れては人の話をガン無視して近寄ってくる紳士が何処にいるというのか。
そも、レディを落とせる圏内まで近寄ってくるのをまず止めて頂きたい──この場合、物理的な意味合いで。
「どうやら本当に怖がらせてしまったようだ。
安心してください、幾ら何でも丸腰の何の罪もない女性にいきなり手を出すような真似はしませんよ」
「何に安心したら良いのかが分かりません」
「昴さん、流石にその言い方は誤解を生むと思うよ?」
居た堪れなくなった少年側からフォローが飛んで来て大変有難く思う。やはりというか首こてんを頂いてしまったけれど。この人、素で天然な所があるな……。
一般的な感覚で言わせて頂くとそんなことは至極当然なことであって、決して安心を引き出せるような言葉ではない。
つまりはまあ、
そういうことなのだろう。
溜息もそこそこにベンチから立ち上がって、踏み出そうとした足を伸びた腕に止められる。
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