#38



合わせるだけの唇が漸く離され、どちらともつかない吐息が漏れた。


外の風は止むこと無く相変わらず強い音を立てている。


表情が伺えない暗い中で頭が混乱して何も発せないでいると先に口を開いたのは尾形さんだった。


「っ…クソ、本当に柄じゃねぇ…」

『わっ…尾形さん?』


髪を撫でていた手を腰に回されそのままグッと引き寄せられる。尾形さんとの距離が無くなりすでに熱い顔がさらに熱くなるのを感じた。



「他人を想う日が来るとはな…しかもお前みたいな女」


『っ…尾形さんこそ…そう言いながら私のこと大好きじゃないですか』


耳のそばで囁かれてくすぐったさとそれ以上の恥ずかしさで体温が上昇する。


すると尾形さんは少し黙ってから「チッ」と舌打ちをした。



「好きだよ、悪いかよ」


『………』


「おい、なんとか言え」



私は抱き寄せられたまま両手で顔を覆った。


『…ムリ』

「あ゛?」

『私も好き』

「ははぁ、よく知っている」


尾形さんは得意げにそう言った。きっと今ドヤ顔なんだろうなぁと思うと急に愛おしさが込み上げてきた。


『キスなんて個性を使うためのもので誰としてもドキドキなんかしなかったのに、尾形さんとのキスはドキドキしかしないんです。好きな人とのキスがこんなにドキドキするものだなんて知りませんでした』

そう言うと少し間をおいて尾形さんは「はぁぁ」と盛大に溜息を吐いた。

『えっ、なんですか』

「お前…そういう所だぞ」

それから尾形さんは「そういえば」と言うと腰に回っていた手を再び後頭部に移動させた。

『お、尾形さん?』

「さっき白石に個性を使ったよな?」


たしかに低体温症で踊り狂う白石さんを少しでも温めようと個性を使った。


『はい、使いましたけど…』


『どうかしましたか?』と尋ねると「なまえ、よく覚えておけ」と言ってそのまま唇を重ねられた。


『っ…!ん…ちょ…』


先程の合わせるだけのキスとは違い、まるで唇を味わうようなキスに目をギュッと閉じた。


『んっ…ゃ』

「はぁ…ん」


薄く開いた唇の間から舌が入り込んできてお互いの舌が絡む度に吐息が漏れる。

尾形さんの色っぽい息遣いに腰の奥の方がゾクゾクとした。


『っ…はぁ』


唇が離れるとすぐに耳元にチュッと軽くキスをされ身を震わせた。


「俺は独占欲が強いんでね、よく覚えておけ」


そう耳元で囁かれ『はい…』と素直に頷くことしか出来なかった。

今日は寝れないかもしれない。













グラグラと体が揺れる気持ち悪さにハッと意識が覚醒した。


目を開けるとエゾシカの腹の隙間から外の光が見えた。尾形さんはすでに外にいるみたいだ。


『尾形さん、早いで…ヒッ』

「しっ…静かにしろ」


エゾシカから抜け出して見えた周りの状況に短い悲鳴が漏れ尾形さんの手によって口を押さえられた。

私たちが寝床にしていたエゾシカの周辺には数頭のヒグマが寄ってきていた。

「死骸の匂いに集まってきたんだ!」

すでに起きていたアシリパちゃんと杉元くんもそばで息を潜めている。

あれ?白石さんは?


すると一頭のヒグマがエゾシカの体を引き摺って行くのが見えた。そのお腹からは白石さんの顔が覗いていた。


『ちょっ…白石さん…?!』

「やばい!白石が連れて行かれる!」

大きな声も出せずにいると引き摺られた振動で白石さんがズルンとお腹の中から抜け落ちた。

「おぎゃあ!!」

『いや、何で?』

小さい声で突っ込むと何頭かのヒグマは白石さんの声に驚き走り去ってしまった。


『なんで?』

「何故か分からないが逃げるなら今だ!」

「えぇ!?なんでこんなにヒグマが!?」

目を覚ました白石さんが少し大きな声を上げてしまったけど、まだヒグマたちは死骸に夢中でこちらを気にすることはなかった。

「ゆっくりと遠ざかるぞ」というアシリパちゃんに全員頷いて静かにその場を立ち去った。





『こんな大雪山にもヒグマっているんだね、びっくりした』

「アイヌは大雪山をカムイミンタラと呼んでいるくらいだからな」

『それってどういう意味なの?』と尋ねるとアシリパちゃんは「ヒグマが沢山いるところという意味だ」と教えてくれた。

昨日は寒さと追ってから逃げることしか考えていなかったから、周りを見る余裕はなかったけど、ヒグマとも十分距離が取れ周りを見渡しながら歩いていると大自然に囲まれた素敵な所だった。

「朝になったらあのエゾシカを食糧にしようと思っていたけど、諦めよう」

『そうだね、何か探そうか』

アシリパちゃんが残念そうに項垂れるのがかわいくてよしよしとその頭を撫でた。

するとスススと杉元くんが側に寄ってきて「なまえさんなまえさん」とこっそり声をかけてきた。

『杉元くんどうしたの?』

「いや、昨日尾形と一緒だっただろ?大丈夫だったかなと思って…」

『昨日…』

ヒグマのことでスポンと頭から抜けていたけど、杉元くんの言葉で昨日の記憶が蘇った。

「えっ!?ちょっとなまえさん!?顔真っ赤だけど!?」

『ダダダダイジョウブ!!!ウン!!ナニモ、ナカッタヨ!!』

「嘘だね!?なまえさん分かりやすすぎるだろ!!」

私に釣られてか何故か杉元くんまで真っ赤になっている。

「何があったのさ!?」と杉元くんに肩を掴まれ揺さぶられるが私は両手で顔面を覆って『ムリ…』と繰り返すばかりだった。

そんな昨日の今日で話せるわけないじゃない!

尾形さんに好きって言われてあんなキs「随分楽しそうだなテメェら」

後ろから突然肩を掴まれ思わず『ヒェッ』と情けない声が漏れた。

ゆっくり振り替えるとそこには笑顔の尾形さんがいた。

杉元くんもその表情を見て「えぇ、怖ぁ…」と言っている。杉元くんのお墨付きだ。めちゃくちゃ怖い。

「完全に追っ手を撒けたとは限らん。気を抜くな一等卒」

「わ、わかってるよ!」

杉元くんは「クソ尾形!」と悪態をついてアシリパちゃんと白石さんの元に行ってしまった。

「なまえ、もちろんお前もだからな」

『えっ…ぁ、はい!』

尾形さんは私の肩から手を離すとその手をそのまま私の頭にポンと乗せた。

「いい返事だな」と目を細めて笑うと手を離して周りを警戒するために双眼鏡を片手に少し小高い場所へと行ってしまった。

私はもう一度両手で顔面を覆って『ムリ』と呟いた。

まさかそれを他の3人に見られていたとも知らずに。








「あれ、デキてるよね?」

「デキてるってなんだ?それにしても最近尾形とみょうじは仲が良いな!良い事だ!」

「アシリパさんに変な言葉教えんなシライシ。なまえさんもあんなヤツのどこが良いんだか…」



「尾形がいないときにまた聞いてみよう」

恋のお話に興味津々な杉元は心の中でそう思った。













その頃【小樽・第七師団兵舎】では……




「来ていたのか鯉登少尉」


第七師団兵舎内に「キェエエエエエ」と凄まじい猿叫が響いた。


和室で待機をしていた鯉登と月島。月島はソワソワし続ける鯉登を横目に見ながら自身の上官が部屋に来るのを待っていた。


そしていざ鶴見が和室に現れた瞬間にこの絶叫である。


月島は内心「面倒くさい」と思いながらも表情を変えなかった。


「ーーー!!!ーーーーーーー!!!!!!」

「落ち着け!早口言葉の薩摩弁は全く聞き取れんぞ。深呼吸しろ」


鶴見を前にすると緊張で早口の薩摩弁になる癖のある鯉登は言われた通り「ふーーーーーッ」と深呼吸をする。


「ーーー!!!!ーーーー!!!!!!!」


「分からんッ!!」


結局早口は治らず月島が通訳になるのがいつもの流れだった。


「白石となまえさんには逃げられはしましたが、入れ墨は写してあるそうです」


「白石という男、そして何よりなまえくんには利用価値がある。そう判断したから殺すなと命じたのだ。それを目前で逃すとは…失望したぞ鯉登少尉」


鯉登は鶴見の言葉にカクンと膝を付き項垂れるが、ハッと思い出し旭川で射殺した鈴川聖弘の刺青人皮を見せた。

鶴見はそれを見て作りが甘いとダメ出しをした後、鯉登に自分と共に囚人狩りに参加する様に命じたのだった。

ダメ出しに絶望する鯉登だったがその言葉に周囲に花を咲かせ月島に耳打ちをする。

「精進いたしますと言っています」

鯉登少尉の言葉を代弁した後、月島はもう一度思った。



ーー面倒くさいーーーー