#43
3日目を迎えた朝。
物音を立てないように慎重に見張りの男がぐっすりと眠っているのを確認しに行き、プにいる尾形さんに見えるように大きく両手で丸を作った。
尾形さんは頷きいつも身に付けているトレードマークのような外套をプの中にあった荷物にバサリと被せた。
最後に長い木の棒に布を巻きつけてその荷物に立てかければあら不思議、それは丸ですっぽりと外套を被った尾形さんのようだった。
『これでいくらか時間を稼げそうですね』
「だが村の連中がいつ起きてくるかわからん、いくぞ」
檻から抜け出した谷垣くんも合流して私たちは急いで村を後にした。
しばらく森を走り、抜けると目の前に広大な釧路湿原が広がった。
その地面は普通の地面に比べ走り辛く、軍人の尾形さんや谷垣くんも流石に息を荒げている。そう言う私はもう死にそうだ。
『ハァッ…ハァッ!』
「なまえさん大丈夫か?少し緩めようか?」
少し走る速度を落として私に合わせる谷垣くんが心配そうに声をかけてくれた。やさしい…
『ハァッ大丈夫!それに村を出てから結構走ったし、もう気付かれてるかもしれないし』
「ハァ…ッ、なまえの言う通りだ、時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」
暑いのか珍しく軍服の上着の前を開けて走る尾形さんは額に浮かんだ汗を袖で拭った。
「ただ逃げれば罪を認めたようなもんだ、杉元たちを信じて待ってもよかったのに」
『もちろん杉元くんとアシリパちゃんのことは信じてる。でもじっとしてられなくて』
「俺は俺がやりたいようにしただけだ、それにべつにお前の鼻は俺が削ぎ落としても良かったんだぜ」
何それ怖ッと顔にもろに出ていたようで、第七師団にいた頃に鶴見中尉は裏切り者の鼻を削ぎ落とすという噂があったようで谷垣くんが教えてくれた。ただの噂だがなという谷垣くんに尾形さんはどうだろうな、と意味ありげに笑みを浮かべた。
少しずつ走りを緩めて早歩きくらいの速度になった時、突然タァーーーン!と銃声が湿原に響いた。
『!今のって…』
「銃声だ、いくぞ」
尾形さんも谷垣くんもすぐに方向を定め銃声の元へ走り出した。
また走るの?!と思いながらも2人の足を引っ張らないように走る。すると背後から「いたぞ!!」と声が聞こえた。
『あっ』
「逃げた3人だ!!捕まえろ!!」
そこには私たちを追ってきた村人たちがいた。
「見つかった、行くぞ!」
『わっ…!』
尾形さんは私の手を取るとそのまま走り出した。
「おいなまえ!転んだら殺すからな!」
『ヒェっ…ッ、その前に…死ぬッ…』
肺と足が爆発しそうになるのを耐えて転ばないように走った。
すると突然「ウコチャヌプコロ!!!!」という絶叫にも近い声が響き私たちも追っ手の村人たちも足を止めた。
『ハァッ…こ、この声…って…ッハァ』
アシリパちゃんの声?ウコチャ…なんて言ったかわからなかったけど、そちらに顔を向ける。
『っ…え?』
そこにはとんでもない光景が広がっていた。
グォオオオッ!と声をあげるヒグマ。ヒグマの存在にもびっくりしたけど、そのヒグマのお尻に下半身裸のおじさんがくっついている。
ん?裸?
『?!きゃぁあ!』
思わず手で視界を覆い悲鳴をあげる。私の横では尾形さんが「なんてこった…」と珍しく声を震わせていた。
何!?どう言う状況??!
村人たちも私たちを捕まえる所では無くなったようで「信じられん…みんな見てるか?」と仲間同士声を震わせていた。
「やりやがった!!マジかよあの野郎!!!やりやがった!!!」
『えっ杉元くん!?』
声の方に目を向けると湿原の地面から胸から上を出してダン!ダン!と握り拳で地面を叩いている杉元くん。よく見るとそこは小さな池のようになっていた。声をかけたけどとてつもなく何かに興奮している彼はこっちには気付かない。
「スゲェぜ!!姉畑支遁!!!」
『えっあれが姉畑支遁?!』
もう一度姉畑支遁の方を見るといまだにヒグマと繋がったままでいる。あれってそう言うことだよね…?にしてもヒグマ相手にいつまでもそうしているのは危険すぎる。
すると興奮する杉元くんとは反対に「やめろぉぉ!!!!」と声を荒げるのはアシリパちゃん。興奮していた杉元くんも相棒の叫びに池(ヤチマナコというらしい)から飛びだし姉畑支遁とヒグマに向かって走った。
『えっ!杉元くん銃は?!丸腰?!』
武器を持たずその身のままで走り寄った杉元くんは「姉畑先生!もう充分だろ!危ねぇからヒグマから離れろ!!」と叫ぶが、姉畑支遁からの返事はない。
というかむしろ動かない。
『まさか…腹上死…!?』
その時杉元くんが言った「勃ったまま死んでる」という言葉は聞きたくなかった。
「安らかな顔だな」
あの後姉畑支遁から解放されたヒグマが暴れ出し、杉元くんとの交戦ののちアシリパちゃんの毒矢を使って勝負はついた。
湿原に寝かされた姉畑支遁は本当に安らかというか何か達成したかのような満足感というかそういうものも感じられた。
「ウコチャヌプコロして死ぬなんて、鮭みたいなやつだったな」
『鮭?そのウコチャヌプコロって何のことなの?』
「みょうじウコチャヌプコロはウコチャヌプコロだ。お前は経験がないのか?」
『え?』
アシリパちゃんの言葉に首を傾げていると「性行為だ」と彼女はキリッとした表情で言った。
「姉畑先生は自然と動物を愛していた。それが間違った方向に行っちまったんだろうな、決死の想いも恋は成熟せず、か…」
姉畑支遁は動物を愛していた、そういう杉元くんにアシリパちゃんは納得がいかないらしくキッと睨みつけた。
「杉元、コイツを哀れむのはやめろ!本当に動物を愛しているのならなぜ最後に殺すんだ?!姉畑先生もどこかで動物とウコチャヌプコロしてはいけないとわかっていたんだ!」
あのヒグマは人を食べたわけではないからウェンカムイにはならなかった。ただこれまでの間に姉畑支遁が穢した動物たちの死体を森の中で何体も見つけたアシリパちゃんはそれがゆるせなかった。
「後からになって存在ごとなかったことにするなんて自分勝手だ…どうしてウコチャヌプコロする前によく考えなかったのか…そうすれば殺さずに済んだのに…」
「そう思わないか?みょうじ、杉元!」と突然話を振られた杉元くんは下唇を噛んで言葉を飲み込んでいるし、私も経験はないけど一応保健室の先生な訳でそういう話はわかる。たまには指導もしていたし。
しかしそれをまだ幼いアシリパちゃんに言ってもいいのか、杉元くんの真似をして下唇を噛んだ。
すると急に肩を抱かれ驚き顔を上げるとそこにはずっと黙っていた尾形さん。
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
『?!』
前髪を掻き上げて格好つけているつもりかもしれないけど言っていることは最低だ。
すかさず杉元くんに「やめろ!!」と止められていたが尾形さんはいつもの調子で受け流していた。
今日は濃いすぎる1日だったな。
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