序 10



急に現れた気配に驚いて貴舟が後ろを振り返ると、少し離れたところに男が立っていた。
めったにお目にかかれないような美青年だ。華やかだが精悍さも併せ持った端正な顔立ち。引き締まった長身に浅葱色の羽織をまとい、左腰には刀を差している。
さっきの男と同じ新選組の隊士。貴舟はとっさに警戒する。
貴舟と視線が合うと、男は翡翠色の目を猫のように細め笑みを深くした。

「僕が殺そうと思ってたのに」

先を越されちゃったか。と男は明るい口調で言う。まるで親しい友人にでも話しかけるような声だ。しかし、そこには隠し切れない殺気がにじんでいた。
腰に目をやれば、いつ抜刀してもいいように、男の手は刀の柄尻におかれている。

「それは悪かったな。あんたの仕事をとってしまって」

貴舟はうっすら笑みをうかべて言うが、内心では冷や汗をかいていた。
…まずいな。自己防衛とはいえ、隊士を斬ったところを見られてしまったのだ。この男がこのまま帰してくれるとは思えなかった。
いや、襲ってきたあの男を見てしまった時点で自分の運はもう尽きているのかもしれない。
あれは化け物だ。
おそらくこの隊士はあれが人の目にさらされる前に始末しにきたんだろうが、運悪くも私に目撃されてしまった。となると見てしまった自分は、最悪口封じとして殺される可能性があった。隊士が人を襲うなんて噂が立つのは、新選組にとってまずいことだろうからな。
良くても、身柄を拘束されるのはまず間違いないだろう。
逃げるか。
貴舟はさりげなく後ろへと下がる。
が、

「あ、逃げようとか思わないほうがいいよ」

もし逃げようとしたら……殺すよ?
笑顔の男にそう言って釘を刺された。口元は笑っているのに目が笑っていない。泰然自若としているようで、男に隙というものはまったくなく、本当に逃げようとしたら後ろからぶすりと刺される気配があった。
逃げることはできない。なら…

「じゃあ、前に進むしかないな!」

それを合図に、貴舟と男は一斉に走り出した。刀を携えて向かってくる貴舟に、男もまた刀を抜きながら向かってくる。
貴舟と男は互いの間合いを詰め終え、刀を振りかぶった。
男の斬撃が頭の上すれすれを通る。貴舟はその下をかいくぐり、低い姿勢から男の胴を切り裂こうとする。
男はぎりぎりを見極めてわずかに後ろに下がり、貴舟の切っ先をよけた。間髪いれずにさらに右前に踏み込みながら逆胴をくりだす。
しかし、それも空をきった。男の迅雷のような鋭い斬り下ろしが襲ってくる。貴舟は返す刀でそれを弾き、男の左肩へ切り込んだ。
甲高い金属音が鳴り、火花が散る。

「へぇ、君強いね」

ぎりぎりと噛み合う刃の上に男の笑みがうつる。
楽しくてしょうがないといった笑みだった。
思っている以上にやっかいなのに引っかかったかもしれない。

「それは、どうもっ!」

男の賞賛を貴舟は受け流し、鍔迫り合いをしている刀を一瞬前へ押し込み、後ろへ跳んで下がった。
力比べでは、どうしても女の自分のほうに分がある。できればそれはさけたいところだった。
退避する貴舟を男が追撃してきた。後退しながら剣閃をはなって男の追い討ちを弾く。
男の剣は速く、技巧に優れていた。ただの平隊士にしては腕が良すぎる。もしかしたらこの男は新選組の幹部なのかもしれない、という考えが頭をよぎり、貴舟は眉根をよせた。
ますます厄介だな。
そして何度目かの攻防で、貴舟は右足を軸に反転して男の背後に背中合わせになるように回りこみ、そのまま刀を男の脇腹に押し込んだ。

「っ!」

男の反射よりも、貴舟の速度のほうが上だった。
男の腹に切っ先があたる。
しかし、

「!!」

突然、横合いから鋭い突きが貴舟の左目を襲った。貴舟はとっさに横転し、突きをよける。
十分距離をとって身を起こすと、一人目の男のそばにもう一人男が立っていた。
女と見まがうほど美しい男だ。
中性的で繊細な面立ちに、雪のように白い肌。墨染めの着流しの上には、やはりというか浅葱色の羽織をはおっていた。
それを見て、貴舟はいまさらながら思い出す。
ああ、そういえば新選組って二人一組で行動するのが鉄則なんだったか。
もう少し反応が遅かったら左目を持っていかれているところだった。

「総司。先に行くな」
「あはは。ごめんごめん、一君」

一人目の男―――総司を不機嫌そうな声でたしなめながら、一と呼ばれた男は刀を下ろす。
刀は左手に握られていた。
右差しとは珍しい、と思いながら貴舟は刀を鞘に戻し、ゆっくりと立ち上がる。

「目撃者か?」

右差しの男が、貴舟を振り返って言った。刀を鞘に戻したとはいえ、警戒を緩めない。鋭い視線が貴舟に注がれていた。

「うん、そうなんだけどさ。ねぇ、もう終わりなの?」

まだまだ遊び足りないとでもいうように、肩に刀を担いで総司が言う。つまらなそうな口調は、まるで子供のようだ。
本当に幹部か、こいつ。
疑念が浮かぶ。
しかし重い斬撃を受けてしびれる腕が、男の実力を証明していた。
気配がまったくしなかったことから、二人目の男も相当な使い手のようだし、これ以上やりあっても仕方がない。
捕まったとしてもすぐには殺されないだろうし、ここで無闇に抵抗して斬られるのは無駄なことだ。子供たちは無事逃がしたから、足止め役という自分の役目は終わった。幸い子供たちの姿は見られていなかったようだし、まぁ何とかなるだろう。もし何とかならなくても、時機を見て自力で逃げ出せばいい。
――ここらへんが潮時だな。
貴舟はそう判断して心の中で頷くと、総司に言葉を返した。
「さすがに手練れ二人を同時に相手しようとは思わない」

あとは煮るなり焼くなり、好きにすればいい。
堂々とそう言って、腰から引き抜いた刀を、一に放って渡した。
貴舟の刀を受け取り、男たちは拍子抜けしたように一瞬ぽかんとした。
そして、


「ぷ」


総司がいきなり吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出した。

「あははははははははは!!!」
「な、何だよ!」

突然のことに、腹を立てるよりもうろたえてしまう。
一も不気味そうな顔で隣の総司を見ていた。眉間にかすかだがしわが刻まれている。
ひとしきり笑うと、総司は笑いすぎて涙の浮かぶ目じりをぬぐいながら言った。

「あは、君最高だよ。なかなか肝が据わってるよね」

殺すのがもったいないなあ。
そう言って、目を細めて貴舟に笑いかけた。
一応ほめられているのだろうが、ぜんぜん嬉しくない。貴舟は渋面を作る。

「総司」

一が呆れたように声をかけた。

「それは俺たちが決めることではない。まずはこいつを屯所に連れ帰って、副長の指示を仰ぐべきだ」

一の言葉に、総司がうなずく。

「まぁ、そうだね」

総司は刀を鞘に戻すと、貴舟のほうへ歩いてきて、右手を強い力でつかんだ。利き手を使えないようにするためだ。
手首の骨がきしみ、貴舟は痛みに眉を寄せた。

「おいで」

総司に手を引かれるままに、貴舟は歩き出す。
すると何か冷たいものが頬に触れた気がした。
空を仰ぎ見れば、雪が降っていた。

「雪…」

無数の白い欠片が夜闇にひらひらと舞う様は、まるで桜の花びらが散っているように見えた。
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