序 09



薄暗い路地の中を三人で歩く。
子の刻を過ぎようとしている街の中は、ひっそりと静まり返っていた。
商店の戸という戸は貝の口のようにぴったりと閉ざされ、夕方の賑わいが嘘だったかのように人気はまったくない。がらんどうだ。何の音も聞こえず、何の気配もしない。

「なんか…やばい感じ?」

貴舟の陰に隠れるようにして後をついてくる喜助が言う。
確かに、今夜の街はいっそう不気味な感じだった。月がほとんど出ていないからかもしれない。足もとがやっと見えるか見えないかぐらいの明るさで、そこかしこに闇があった。
本当に鬼でも出てきそうな雰囲気だ。
そう思っていると、

「なぁ、あれ勘介やない?」

後ろの東次が通りの突き当りを指差した。
通りの奥には東次の言うとおり、勘介らしき小柄な姿が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。二人は仲間が見つかったことにほっと安心したように「よかったぁ」と言って胸をなでおろした。
しかし、勘介の様子が変だった。何かに怯えるようにじりじりと後ずさりしている。
それに貴舟が気づくよりも早く、喜助が勘介の名前を呼んだ。

「おーい、勘介ー!!」

それが合図だった。

「うわぁぁあああぁああぁああ!!!!」

弾かれたように勘介が全力疾走でこちらへ走ってくる。
それに釣られ、暗がりから"何か"も飛び出してきた。その瞬間、目が合った。
らんらんと光るザクロのように赤い瞳がにたりと笑う。飢えた獣が獲物を見つけ、喜悦に笑ったようだった。狂気的なそれに肌が一斉にあわ立つ。

「うわぁああっ!!何やアレ!」

その"何か"の姿を目の当たりにして、喜助がわめく。

「後ろ下がってろ!!」

走ってきた勘介を受け止めて後ろへかばうなり、貴舟は腰元の刀を抜刀した。
間髪いれずに闇から突き出した白刃が眼の前に迫る。受け止めた刀身が摩擦で火花を散らし、ぎちぎちと交わる刃の上に狂った瞳がうつった。

「ひ、ひひひひ」

なん、何だこいつは!
異常な膂力におされ気味になりながらも、貴舟は歯を食いしばって必死に耐える。脂汗がこめかみを伝って落ちた。

「貴舟さん!」
「いいから!お前ら早く逃げろ!!」

必死に競り合いながら後ろへ怒鳴る。
一瞬逡巡するような気配があったが、やがてばたばたとここから走り去っていく音が聞こえてきた。
それに少しほっとしながら、貴舟は目の前の敵を見据えた。
雲が途切れ、月がわずかに顔を出す。
月明かりに照らされた"それ"の髪は雪のように白かった。赤い瞳とあいまって、その姿は夜叉か鬼のようにも見える。
だが、何よりも貴舟の目をひきつけたのは、その異貌よりも男がまとう夜目にも鮮やかな浅葱色の羽織だった。
こんな特徴的な隊服を着た連中なんぞ、あそこぐらいだ。
貴舟はある組織のことを思い浮かべる。
曰く、京都守護職御預【新選組】。
京都見廻組と同じく、洛中の警護の一端を任されている警邏組織だが、京雀たちの口に上るその評判はすこぶる悪い。
怪しきは斬れ、怪しくなくても斬れ。人斬り狼の群れ、壬生狼よ、というのがもっぱらの評判だった。
しかし、人斬り狼が人喰い鬼を飼っているとは初耳だ。

「…血」

男は理性のかけらも見つけられない瞳で、ひびわれた声を出す。
純粋な欲望と狂気のこめられたその呟きに、貴舟は生理的嫌悪感を感じた。男は貴舟を餌としてしか認識していなかった。ご馳走を前にして舌なめずりするかのような顔に、ぞっとした。

「血をよこせぇぇえええええ!!!!」

もはや男は"ヒト"と呼べるような代物ではなかった。
躊躇していてはこちらが食われる。貴舟は男がより踏み込んできたところを狙い、防御から攻撃へと転じる。
剣をとっさに引いて、男の体勢を前へ崩す。身体を男の側面へとさばきながら貴舟は男の首筋へ刃をすべらした。
しかし、盛大に血しぶきを上げるにはいたらなかった。刀で斬り付けたそばから、傷がすっとふさがっていってしまったからだ。
異常な治癒速度に貴舟は目をみはり驚愕するが、うかうかはしていられなかった。男の水平斬りが首元を襲う。身をかがめて斬撃をよけ、すれ違いざまに斬撃を繰り出す。
抜き胴。鋭利な刃が肉を裂く生々しい音があたりに響いた。同時に肉を切り裂くいやな手ごたえが手に伝わり、生暖かい血飛沫が貴舟の顔にかかる。
内臓を抉るそれは致命傷となりうる一撃だったが、男にはたいして効いていないようだった。
男の脇を駆け抜けすぐに身を翻して振り返ると、男はうめき声を上げるどころか貴舟のほうを振り返り、にいっと狂った笑みを深くした。どぼどぼと鮮血を流していたはずの腹の傷が、みるみるうちにふさがっていく。

「ひゃはははははははははは!!」

刹那、男が勢いよく踏み込んできた。刺突が貴舟の胸元目がけて繰り出される。

「くっ」

どうやらこの化け物には、普通に斬り込むのでは駄目らしい。
最低限の足さばきで男の突きをかわし、男の左側面へと回り込む。正面から消えた貴舟の姿を追い、男の首がそちらを振り向こうとする。それと同時に貴舟は左足を踏み出し、水平に寝かせるように捻った刀身を、男の首の側面、頸骨と頸骨のつなぎ目へと叩き込んだ。

「がっ」

そして軸足を中心に体を回転させ、一気に刀を振り切った。男の首を真一文字に切断する。
男の首が鞠のように宙を舞い、地面に落ちてびしゃりと濡れた音を響かせる。続いて、首を失った胴体がゆっくりと後ろへ倒れた。
自分でやっておいてなんだが、気分の悪い光景だ。胸が悪くなるような濃い血臭に貴舟は眉をひそめる。
男の切断された首からは大量の血が吹き出し、地面に赤黒い水溜りをつくっていた。
さっきみたいに傷口がふさがる、なんていうことはもうないだろう。なんせぶった切ったのだから。
足元に転がる男の首に目をやる。いつの間にか白かった髪は黒へと変わっていて、どろりと濁った目が貴舟を見上げていた。
そこにさっきのまとわりつくような狂気はもうない。不思議とその亡骸はただの人のように見えた。

「一体なんだったんだ…」

まるで悪夢を見ているようだった。
血を欲し、傷が瞬時に治るバケモノ。
そんなものが堂々と京の町を歩いている。しかも新選組の羽織を着て。
これが一体なんなのかは分からない。ただ、新選組がらみであることは間違いなかった。そうなってくると間違いなく後ろには幕府が関わってきているはずだ。

「どうにもきな臭いな」

嫌な予感がひしひしとする。
顔をひそめ、貴舟は血ぶるいをして刀を納めようとする。
その背中に、

「あーあ、残念だな……」

場違いなほど明るい声が響いた。
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