序 17



「まず、あんたの名前を伺っても?」

場がひとまず落ち着いた後、最初にそう切り出したのは土方だった。土方の言葉に良玄は頷く。

「俺は今井良玄。島原で【椿屋】という置屋を営んでいる」

良玄の言葉に、部屋の隅から「ああ、あそこの」とか「そういやあそこの芸妓を呼んだこともあったっけな」とか言う声がひそひそと交わされた。
屯所が近いということもあって新選組は島原によく遊びに来る。見世の姐さんも何度か新選組の宴席に出たという話をしていたし、そういう話が上がっても不思議ではないだろう。
ささやかなざわめきが上がる中、神経質そうな咳払いが一つ鳴り、また場がしんと静まった。
先程よりいささか眉をつり上げた土方が続けて問う。

「"うちのモノを返してもらおうか"とあんたは言ってたが、あんたとそいつの関係は?」

貴舟は良玄と顔を見合わせる。関係ってそりゃ…

「うちの用心棒だ」
「こいつの用心棒」

異口同音。お互いに指をさし合ってそう言った瞬間だった。

「あああぁぁあぁーーーっ!!!!」

ものすごい声が広間中に響き渡ったのは。
鼓膜が破れそうな勢いのそれに、貴舟は顔をしかめた。見れば広間の何人かも顔をしかめ、耳を押さえている。離れていてこれなのだから、元凶の傍に座っていた人間なぞ、もうたまらなかっただろう。

「ってぇ、平助!!いきなり大声出すんじゃねえ!鼓膜が破れるかと思ったじゃねえか!」
「っわりぃ!新八っつあん!」

耳の痛みからか思わず立ち上がって藤堂を叱りつける永倉に、藤堂は平謝りしながら興奮気味に「でもさ」と言う。

「思い出したんだよ!」

主語のないそれに永倉は「はぁ?」という顔をする。
うん、主語がないと何を思い出したのか分からないよな。

「一体何を思い出したというのだ、平助」

すぐさま斎藤から至極全うな疑問の声が飛んでくる。それに対し藤堂は「だーかーらー」と頬を膨らませて言う。

「昨日俺が話してた島原の用心棒!」

その言葉を聞いた瞬間、「ああ!」と良玄と貴舟以外のほとんど全員が得心がいったような声を漏らした。

「あの時の!」
「って、ちょっと待て!それじゃあ…」

次いで何故か視線がこちらに集中した。視線がぐさぐさと刺さるようで、貴舟は居心地が悪くて身じろいだ。
話についていけず困惑する貴舟に、身を乗り出した藤堂が目を輝かせて聞いてくる。

「お前【椿屋】の用心棒なんだよな!」
「…そうだけど」

その勢いに若干押されながら貴舟が頷くと、藤堂は「こいつだよ、こいつ!」とはしゃいだように言った。

「見世の名前聞いてやっと思い出したよ!あー、すっきりした!」
「なんだ平助。あれからずっと考えてたのか?」
「なかなか思い出せなくてさ。すげぇもやもやしてたんだよな!」

いまいち話が飲み込めない貴舟が首をかしげながら話をよく聞いてみると、どうやら先日の浪人とのことが新選組の耳にも入っていたらしい。
ちょっとした騒ぎになっていたし、確かに彼らの耳に入っていてもおかしくないだろう。納得がいったところでふと顔を上げてみると沖田と目が合った。口元は笑っているのに、相変わらず目は冷え冷えとしている。視線に混じるのは、好奇心と敵愾心だ。

「へぇ、じゃあ君がそうなんだ?」
「だったら?」

先程のこともあって、思わず声がとがる。
どうにもこの男は好きになれそうにない。じっと睨みつけていると横合いから出てきた手に視界をさえぎられた。

「そろそろ本題に戻しても?」

良玄だ。
正面を見据えていた目が、一瞬こちらを一瞥する。
まともに取り合うなってことか。素直に視線を落とすと手が目の前からどいた。暗かった視界が明るくなる。
正面を見ると土方が良玄の言葉に頷き返しているところだった。

「ああ、そうだな」
「では、今度はこちらから」

ざわついた空気が静まったのを機に、良玄はそう切り出した。そしておもむろに手を差し入れた懐から文を取り出す。半紙を折りたたんだだけの何の変哲も無い紙片。だが、貴舟は時としてそれがとんでもない威力を持っていることを知っている。

「俺の要求は一つ。最初に言ったとおりこいつの身柄を無事返してもらうことだ。だが、あんたたちはそう簡単に返すつもりはないだろうと思ってな。それなりの準備をしてきた」
「…取引、ということですか」
「そうだ」

やはり参謀という役職にいるだけあって頭がきれるようだ。いわんとしようとしたことを素早く察した山南に良玄は肯定の言葉を返しながら、文を新選組の目の前、広間の中央に滑らせた。

「島原って場所柄、俺のとこには色んな情報が入ってきてな。そこにはある過激攘夷派の集団の情報を書き付けてある。数、名前、容姿、そして奴らが襲撃しようと画策している幕府の要人の宴が開かれる日時と場所だ」

良玄はそう言ってあごで文を指す。広間の全員の視線が、その一片の紙に集中した。

「それと交換に…ってことか」

新選組一同が息を飲む。もしこれが本当なら、喉から手が出るほど欲しいものには違いない。相手から思ったとおりの反応を引き出せた良玄は、口元にうっすらと満足げな笑みを浮かべた。

「新選組は最近あまり手柄という手柄も挙げることができていないと聞く。この情報を使って手柄を挙げられれば…あんたたちにとっても悪い話じゃないはずだ」
「ですが、あなたが嘘を書いているという可能性もないわけではないでしょう?」

山南が胡乱げな顔つきになる。これまた鋭いつっこみが飛んできた。今それを立証できるものは何も無い。しかし良玄は相変わらず涼しい顔を崩さない。

「確かに。信じる信じないはあんたたち次第だな」

その瞬間、そばで見上げていた貴舟は良玄が口の端をかすかだが上げたのを見て取った。何か良からぬことを考えているときに出る癖だ。ここまで不利な状況で余裕な態度を崩さないあたり、どうやら良玄にはまだ何か出していない手札があるらしい。かなり嫌な予感。
相手方もうすうす何かあると感づいているようだ。慎重な様子で土方が伺う。

「もし俺達が断ると言ったら?」

一瞬の間隙。射貫くような瞳と冷えた瞳。土方と良玄の視線がかち合う。やがて真意を探ろうとする土方の目に対し、良玄は唐突に目元を和らげた。一見優しげに細めた目には、ぞっと底冷えするような光が宿る。その目はさっきまでの嘲るような目とは違い、ネズミをいたぶる猫の目に似て残酷だ。土方が怪訝そうに片眉を上げるが、もう遅い。

「"羅刹"―と言ったか」

落ち着いた声音。だが、波紋を落とすにはそれで十分だった。
その瞬間広間の全員が刀に手をかけ、一斉に腰を浮かせた。先程とは比べようにならない殺気に肌が裂けそうだ。緊迫した雰囲気に貴舟は生唾を飲む。

「…てめぇ、どこまで知ってやがる」

地を這うような低い声で土方が良玄に問う。
激しい怒気に当てられながらも良玄は薄い笑みを崩さずに言う。

「全部だ。まぁ、にわかには信じがたい話で俺も半信半疑だったが…その様子を見る限り本当のことらしいな」

新選組が"鬼"を作っているってのは。
良玄の言葉に、頭の中にあの隊士の姿が浮かんだ。
真っ白に染まった髪。
らんらんと光る獣じみた赤い瞳。
およそ人とは思えないその姿は、たしかに鬼のようだった。

「聞いた話じゃその鬼、人の血を求めて人を襲うそうじゃないか?大方逃げ出したそいつにこいつが出くわしてしまって、口封じのために捕縛したってところか」
「ご推察の通り。…ですが、これであなたもただで帰すわけにはまいらなくなったわけです」

山南の言葉に周りを取り囲む隊士の刀の柄を握る手に力がこもる。しかし、良玄は相変わらず歯牙にもかけない様子だ。それどころかくつろいだ様子で殺気立つ周りを見回し、口の端を引き上げた。

「いいのか?うちの見世の者には、俺の帰りが遅くなったら持たせた文を方々に届けるように言いつけてある。文の内容は…分かるよな?そうなればあんたたちは京にいられなくなるわけだが、それでもいいならやってみるといい」

沖田に薄く斬り付けられた首筋をさらして挑発する良玄に、しかし手出しのできない土方は悔しそうに舌打ちをした。

「…下がれ」
「でも土方さん!」
「下がれって言ってんだ!!」

他の幹部が指示通り刀から手を離して腰を落ち着けるなか、なかなか下がろうとしない沖田に土方は一喝する。しばらく逡巡するような様子を見せたが、近藤に「総司」とたしなめられ沖田は渋々刀から手を離した。
沖田が完全に腰を落ち着けたのを見て、良玄は口を開く。

「で、どうする?承諾してくれるなら俺はその件についても黙っているつもりだが」

決断を迫られ、実質最終的な判断を下す局長である近藤に広間中の視線が集まった。近藤は難しそうに眉間に皺を寄せると、やがて唸るようにして言葉をつむいだ。

「…少し考えさせてくれ」

幹部たちだけで一度話し合いたいという近藤の希望を良玄が承諾したことにより、貴舟たちは監視付きで一旦別の部屋に移されることになった。監視役を買って出た斎藤がこっちへ来いと言ったので、立ち上がって促されるままに廊下に出る。
背後にうっすらとした殺気を感じたが、斎藤のものではない。閉められる間際の戸の隙間を垣間見ると、沖田がこっちを見ていた。不服そうな目。嫌な感じだ。それから目をそらし、貴舟は斎藤と良玄の後に続いた。
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