序 18



「俺は外に控えている。無いとは思うが、逃げようとは思わないことだ」

軽く刀に手を添えてご丁寧に脅かしてから、斎藤は部屋を出て行った。
移された部屋は、良玄と貴舟、あともう二人も入れば満杯になりそうなこぢんまりとした一室だった。隣室とは襖で隔てられている。前方にはさっき斎藤が出て行った障子戸があり、刀を肩にかけて座す斎藤の影が映っている。
この距離だと声をひそめても聞こえてしまいそうだな。貴舟が障子戸を見ながらそんなことを思っていると、目の端にちょいちょいと手招きする良玄が映った。
畳の上をにじって近寄っていくと手が伸びてきて、左頬を片手で包まれた。
そのまま顔をあっちに向けたりこっちに向けたりされて、じっと真正面から見られる。え、何これ。
少し緊張して身を固くしていると頬を親指の腹で擦られた。

「怪我は?」

擦られて落ちてきた小さな赤い欠片と簡潔な問いに、返り血を浴びていたことを思い出した。心配してくれたらしい。
どことなく気恥ずかしい気持ちになる。ともすれば緩みそうになる顔に力を入れた。

「…ない」
「そうか」

かすかに眉間に皺をよせながら一言伝えると、良玄はわずかにほっとしたような表情をのぞかせた。頬からするりと指がすべり落ちる。

「ならいい」

表情とは裏腹にそっけない口調で言って、今度は貴舟の手をつかむと手のひらを上にするようにひっくり返す。そこを良玄は指でなぞり始める。こちらは内緒で話したいことらしい。手のひらを指でなぞられるくすぐったさに耐えながら書かれる文字を読む。

『俺がしてやれるのはここまでだ。あとはあいつらの判断によるわけだが…すぐに解放っていうわけにはいかないだろうな。ただ、釘は刺しておいたからまず殺されることはないはずだ』

貴舟は頷き返すと逆に書き終えた良玄の手をとり、その上をなぞる。

『それは感謝してる。けど』

ぴたりと書く指を止めると、良玄は自分の手のひらに落としていた視線をこちらに合わせてくる。けど?問うような視線に貴舟は良玄にぐっと顔を寄せると、上目遣いにひそめた声で言う。

「煽りすぎだ。肝が冷えた」

思い返せば、今日の良玄はいつになく冷静さを欠いていたような気がする。挑発するのはいつものことだったが、いつもはもっと相手に付け入らせる隙など髪の一筋さえなく、自分の身を危険にさらすようなことはまったくしないはずだというのに。今日に限っては少し頭に血が上っていたように感じた。
半眼で言う貴舟に、良玄はふいと視線をそらす。自分でも多少は自覚があるらしい。横顔にはわずかに反省の気がにじんでいた。
伸ばした上半身を元の位置に戻し、貴舟は長く息を吐きだす。
でも、一番腹が立つのは。

「一人ならいざしらず、あんな手だれたちを相手取ってお前を守りきる自信なんて…正直ないんだ」

良玄の喉元には、赤い線が一線引かれたままになっている。白い肌と赤の対比が、ひどく痛々しい。浅く斬り付けられただけで今は血もとまっているようだが、それでも怪我をさせてしまったことに違いはない。
良玄の無茶な態度に肝を冷やされて腹が立ったのも確かだが、一番腹が立ったのは自分のふがいなさだ。肝心なときに役に立たない。主人を守るのが用心棒の務めであるのに、逆に守られ気遣われたことが悔しかった。
これまでなんとかやってきたつもりだったが。やっぱり自分はまだあの背中に追い付けていない。

「私は師匠(せんせい)ほど強くない」

うなだれていた貴舟は気がつかなかったが、ぽつりと呟かれた言葉に良玄は一瞬視線を落とした。
しばらく重い沈黙が部屋を満たし。

「いった!!!」

それは唐突に貴舟の頬を激痛が襲ったことによって破られた。思わず叫んで顔を上げると、真正面に真顔で自分の頬をひきちらんばかりの力でもってつまんでくる良玄がいた。
がっちりつかんでくる手を振り払い、痛む頬をかばう。

「いきなり何するんだよ!」
「つねった」
「分かるわ!」

って、いやボケと突っ込みをしている場合ではなくて。
声を荒げて良玄をにらみつけると、ずいっと良玄が顔を近づけてきた。端正な顔が急に迫ってきて、貴舟は思わずのけぞるようにして顔を引いた。
良玄は呆れたように息を吐き出す。

「たしかにあいつには及ばないところもあるな」

その言葉に貴舟はぐっと言葉に詰まる。
でも。と良玄はつづける。

「お前がいなければ、俺は今生きていなかったかもしれないのも事実だ」

はっとして顔を上げると、苦笑する良玄の顔にぶつかった。

「落ち込んでる暇があれば、腕を磨け。お前の弱音なんぞいちいち聞きたくない」

貴舟はそっぽを向いて首肯した。
本当にいつも守られっぱなしで、頭が上がらない。
だから「剣は色気も可愛げもないお前の唯一の取り柄だからな」という余計な付け足しは一応聞こえなかったことにする。
しばらくすると廊下の奥のほうから足音が近づいてくるのが聞こえてきた。話し合いが終わったらしい。

「そろそろだな」

あぐらを崩して立ち上がろうとする良玄の腕を、貴舟は慌ててつかんだ。
大事なことを聞くのを忘れていたのだ。
怪訝な顔をする良玄の手をとり、貴舟は手のひらをなぞる。

『そういえば、釘って"羅刹"ってやつのことだよな?』

目を伏せて肯定する良玄に、貴舟はさらにつづる。
ただ純粋に知りたかったのだ。

『鬼とか言ってたけど、あれは一体何なんだ?なりは確かに化け物じみてたけど…』

ほんの少しの逡巡の後、貴舟は書く。
人間、だよな。
書き終えた途端、強引に腕をとられた。そのまま強引につんのめるようにさせられて良玄の前に引き寄せられる。
目の前にいつになく険しい表情の良玄がいた。

「お前は知らなくていい」

咎めるような声。ひそめていても伝わってくる固い声音が、それが決して知ってはいけないことであることを物語っていた。
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