序 20



手桶の中に張られた湯に手ぬぐいを沈ませる。
水面が波打ち、かすかに水音がたつ。音に反応してか、閉め切った障子戸にさす黒い影がわずかに揺らいだ気がした。
少し気になって貴舟が手ぬぐいを絞りながら顔を上げると、障子戸にうっすらと映った人影の顔の部分がこちらを向こうとしているところだった。

「なぁ、」
「こっち向いたら手桶を投げつけるって言った」

かけられた声をにべにもなく貴舟がぶった切ると、人影は慌てたようにこちらを向こうとしていた顔を元の位置に戻した。障子には後ろ姿らしき影だけが映っている。
貴舟はそれを確認するとほっとして、もろ肌を脱いだ身体を手ぬぐいでまたぬぐい始めた。
詮議がお開きになった後、貴舟はまたあの狭い部屋に監視つきで移され、湯の入った手桶と手ぬぐい、そして代えの着物を渡された。
人質として身柄を預かることに決まった以上、さすがに返り血を浴びたあのままの姿で屯所内に置くのはまずいと思ったのだろう。
貴舟もいい加減乾いてべったりと張り付いた血や汗が気持ち悪くて仕方なかったところだったので、素直にそれに従うことにした。
ただ一点不満があるとすれば。
近い。
監視役との距離が近いことだろうか。
人質という立場上、監視をつけられることもそれが仕方ないということも理解しているが、いくら男っぽいといっても貴舟も普通の娘ぐらいの恥じらいは持っている。障子戸という隔たりがあるとはいえ、やはり心もとなかった。
考えてもみて欲しい。障子紙一つを越えたすぐ傍には年若い男が控えているのだ。そんな状態で裸になるというのは抵抗があった。
だから部屋に入る前にあらかじめ絶対にこちらを振り向かないよう約束したはずなのだが…。
使い終わった手ぬぐいをまた湯に浸しながら、貴舟は溜息をついた。息が水面を揺らす。
ちらりと視線をやった先には、所在なさげにそわそわとしている影がある。きっとやましい気持ちはないのだろうが、妙に意識されているのが伝わってきて貴舟は気恥ずかしくなった。見られていないとは分かっているが、障子戸に背を向け恥かしさからつい着物を着る手を早めてしまう。
向こうも向こうでこちらのことが気になって仕方がないようだった。
確か名前は藤堂平助と言っていたと思う。自分と変わらないぐらいの歳に見えた。
高く結い上げた長い髪に人懐っこい笑顔が印象的な青年で、部屋に移動してくる際の廊下でも歳や仕事について何をしているのかなど色々と尋ねられた。好奇心旺盛で落ち着きがなく、印象そのままの人懐っこい性格なのだろう。
今まで貴舟の回りにはいなかったような人物だ。
貴舟のまわりにいた男といえばみんなたいてい自分より歳が上で、職業柄ということもあるのだろうが、良玄といい師匠といい見世の男衆といい、みんな女性への接し方に長けていた。…いや、良玄は自分のみ別かもしれないが。
以前ちょっとした拍子に良玄に裸を見られてしまったことがあったのだが、あの男は眉一つ動かすことはなかった。それどころか人の胸を見て「…可もなく不可もなくってとこだな」と平然とのたまったのだ。…あの屈辱は決して忘れないだろう。
そんな扱いをされてきたものだから、貴舟にとって藤堂の初々しい反応は新鮮に感じられて、逆にどうすればいいか戸惑ってしまった。
急に女扱いされても、妙に気恥ずかしくてたまらないものなんだな。
貴舟は帯を締める手を休めることなくそんなことを考えて眉間に皺をよせる。
と。

「…着替え終わったか?」

戸外から遠慮がちに声がかけられた。
衣擦れの音が少なくなり、仕度が終わりかけていることに気がついたんだろう。最後に帯のあまりを巻き付けた部分に押し込みながら貴舟は障子戸を振り返る。約束を守り、藤堂はこちらに背を向けたままだった。
まぁ、あれやこれやと考えていても仕方ない。今までずっと女所帯で暮らしていたが、これからしばらくはこの男所帯で生活しなければいけないのだ。いちいち気にしていてはきっときりがないだろう。
よし、と貴舟は腹をくくる。
貴舟はその背の影に向かって歩いていき、障子戸を勢いよく開け放った。

「終わったぞ」
「うわぁっ!」

急に出てくるとは思わなかったんだろう。振り返ると目と鼻の先ぐらいの距離に現れた貴舟に、藤堂は大仰に驚いて尻餅をついてみせた。

「いいいいきなり出てくるなよ!」
「出入り口はここしかないんだからいきなりも何もないだろ。それより、いつまで尻餅ついてるつもりなんだ?」
「お、おう」

貴舟が手を差し出すと、藤堂は素直にその手をとり立ち上がる。格好悪い姿を見られたからだろうか、藤堂は多少ばつが悪そうな顔をしている。しかし立ち上がって貴舟の姿をしっかり見て目を見張ったかと思うと、今度は不服そうな表情になった。ころころとよく表情が変わるものだ。

「俺の着物…ぴったりじゃんか」

唇をとがらせながら藤堂がぼそりと言う。
貴舟は思わず自分が着ている紺地の着物を見下ろした。どうやらこの着物の持ち主は藤堂だったようだ。おそらく背格好が一番近いということで藤堂から貸し出されることになったのだろう。
肩の辺りは男女の体格の差で少しだぶついていたが、裾の長さはちょうどいい長さだった。
身長でいえば藤堂に比べ自分のほうがやや高いぐらいなのだ。藤堂の目線も高さに合わせ自然と少し上目遣いになっている。男として女である自分に少しだとはいえ見下ろされているのが、藤堂にとってはあまり面白くないんだろう。
藤堂は貴舟の足の先から頭のてっぺんまでを見上げ、そして最後にまた視線を中央に戻して言う。

「…お前、やっぱ男なんじゃねぇか?」

は?
顎に手を添えた藤堂が凝視している視線の先をたどる。視線の先をたどって見下ろした先にあるのは、自分の胸だ。
つまり。
藤堂の言いたいことを理解するや否や、貴舟は藤堂を縁側から庭に勢いよく蹴り落とした。
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