序 21



コン、と硬い音が部屋に響く。
煙草盆の灰吹きのふちを叩いて灰を落とし、良玄はまた煙管をくわえた。
立ち上る紫煙が身を捩じらせるように空中でくゆり、天井のあたりで消えていく。その様がけぶる己の心中を表わしているようで、良玄は眉間に深い皺を寄せながら深々と溜息をついた。吐いた息で紫煙は千々に乱れる。だがふいにその流れを変え、一方に流れるようになった。
部屋に冷たい空気が流れ込み、座り込んでいた良玄の足元にまで忍んで来る。気がついた良玄が顔を上げると閉め切っていたはずの障子戸が開いており、そのそばに女が立っていた。部屋の四隅に置かれた灯りに、女の顔が白くぼんやりと浮かぶ。
豪奢な装束と重たげな簪に、紅の映える柔和だが色気のある顔立ち。
この見世一番の女、こったいの夕霧だった。
夕霧は良玄の視線を受け、艶然と笑んでみせる。

「ひどい顔やなぁ。せっかくの綺麗な顔が台無しやわ」
「こったい、なんの用だ」

煙草盆に煙管を置き、良玄は渋面を作りながら言う。その態度から嫌がられているのは明白だったが、夕霧はさして気にも留める様子もなく口元を袖で隠しながらふふと笑った。

「まぁ、怖いこと。…聞かんでも分かってはるでしょう?」

小首をかしげる夕霧。良玄は顔をさらにしかめた。
おっとりした口調と柔らかな顔立ちにたいていの男は騙されるのだが、夕霧がこう見えてなかなか強情な性格であることを良玄は知っていた。半月を描く目の奥は冷やりとしている。柔らかな物言いの奥に隠された本当の言葉は、おそらくこっちだ。説明しなければならないことを説明しないのはどういうことなのか?と。
夕霧のことだ。きっと自分が吐くまで粘るつもりなんだろう。
煙たがる自分の視線にもにこにこ笑って頑として動こうとしない夕霧に、良玄は早々に折れた。この女のことは昔から苦手だ。心の中でひっそりと溜息をつく。そして少し身体をずらし、自分の前に座るように示した。

「おおきに」

障子戸を閉め、しゃなりしゃなりと畳の上を進んできた夕霧は、上品な所作で良玄の前に座った。紅に彩られた唇が開く。

「うちが聞きたいこと、分かっとるやろ?」
「貴舟のことだろ」

ぶっきらぼうに返す良玄に夕霧は頷く。

「みんな帰ってこえへんって心配しとる。そやのに知ってそうなあんたがえらい怖い顔してるってんで、みんな聞かれへんのや。あんたもあんたで朝早く子供達が訪ねてきていきなり出て行ったかと思ったら傷こさえて帰ってくるし、…なにがあったん?」

夕霧の声には心配するような響きがある。
一番年かさであるということや面倒見のいい性格もあり、夕霧は見世の女達にとって姉のような存在となっている。貴舟もまたその例に漏れず、二人は仲のいい姉妹のようだった。
夕霧はそんな貴舟の身が心配で仕方ないのであろう。そしてそのことについて説明しようとしない自分のことを怒っている。
できればこいつだけには話したくなかったんだが、仕方ない。そらさず真っ直ぐに自分を見つめる目に怒気がにじんでいるのを認め、良玄は溜息をついて口を開く。

「貴舟が新選組に捕まった」
「新選組?なんでそんなまた」
「訳は詳しく話せない」

訝しげに眉をひそめる夕霧に、良玄はきっぱりと言い口を結ぶ。それ以上は話さないという意思表示だ。
夕霧は一瞬不服そうな表情をしたが、協力者として良玄の裏稼業を知っているのでそれ以上踏み込むと危険だということを察したのだろう。「そう」と言うにとどめて別の言葉に変えた。

「貴舟は大丈夫なん?」
「一時的に身柄を拘束されるだけだ。大事無い」

良玄の言葉に夕霧はほっと胸をなでおろして見せる。

「よかった。傷こさえて暗い顔であんたが帰ってくるから、ひょっとしてあの子の身になんかあったんかと思ったわ」
「待て。何で俺が暗い顔して帰ってきたら貴舟に何かあることになるんだ」

夕霧の言葉に良玄が片眉を上げて反応する。それに夕霧はさもおかしいといった様子で、口元を袖で押さえて笑んでみせた。

「あら。気ぃついてないん?」

人が口に出したくないことを聞いてくる。肯定しても否定してもからかわれるのが目に見えて良玄は顔をますますしかめる。その反応に夕霧はからからと笑った。

「まぁええわ。それより、これで何であんたがあんな顔で帰ってきたんか分かったわ。お気に入りをとられたもんで面白くないんやろ?」

問いかけに対しむっつりとして黙り込む良玄に、「素直やないこと」と夕霧はまた少し笑う。だが、夕霧はすぐに笑みをひっこめた。声がふっつりと途切れ、部屋にまた沈黙が落ちる。
お互い、次の言葉を繰り出しかねていた。
ここまでは挨拶代わりの軽口。夕霧にはまた別に聞きたいことがあるのだろう。そしてそれは自分が話したくない内容であることがうっすらと感じられて、良玄は口を開くことができなかった。
行灯の光が微風にそよがれて、壁にうつった影がゆらりと揺らぐ。ゆらゆらと揺らぐ影に目をやりながら夕霧が呟くようにぽつりと言う。

「…あんた、ほんまは怖いんとちゃう?」

たった一言。
だがそのたった一言に胸の柔らかな部分をえぐられた気がした。
…だからこの女は苦手だ。人の心にずかずかと土足で上がってくる。
良玄は剥がされそうになる平静を必死に取り繕った。それでも声音は自然と硬くなってしまうのは止められなかった。

「…何が」
「あの子があんたの元を離れていくことが」

今度ははっきりとした声だった。
それだけに強く刺さるものがあり、良玄は一瞬伏せていた視線を夕霧へと上げた。
強い瞳が見返してくる。

「鹿野屋のことかてそうや。あんた色んなとこにあの子のことしばらく預けて椿屋から遠ざけようとしてたやろ。それが狂って自分の目の届かないとこに行ってしまったから焦っとる」

そうやろ?
夕霧の言葉に、良玄は一言も返せなかった。全て本当のことだったからだ。声が喉に張り付きそうになるのをこらえ、かろうじて声を押し出す。

「何を知っている」

答えの代わりに夕霧はうつむき、深々と溜息をつく。

「…ええか?あんたはほんまのこと言うたらあの子が出て行くと思うてるんかも知れんけど、手元においておきたいって思ってるんやったら、正直に全部話すべきやわ。あんたは何もかも隠してあの子のことを守ってる気になってるつもりやろうけど、あんたの都合で隠されて、ほんまのこと知ったときに一番傷つくんはあの子や」

言葉を切り、顔を上げた夕霧の白い面には悲痛な色が浮んでいた。

「あの人、京に帰ってきてるんやろ」
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