序 22



灯りが灯った赤提灯が連なる通りを、人混みを避けながら足早にいく青年がいた。
浅黒い肌に吊りあがった目をしており、いらいらしているのかその強面が輪をかけて怖くなっている。眉間に皺を深々と刻んだその表情は今にも人を殺しそうなもので、道行く人々はこわごわと青年の様子を横目に伺っていた。
一方当の本人は視線など気にならないとでもいうように、人でも探しているのかその視線をしきりに周囲にやっていたが、

「くーっ、うめぇえ!!やっぱ酒は伏見のに限るなぁ!」
「おっ、分かっとるねぇ旦那」

通りに面していた店から漏れ聞こえてきた声を耳にするなり、ものすごい勢いでその店に飛び込むようにして入っていった。
青年はのれんを跳ね上げ、出入り口に仁王立ちになる。

「千種ぁ!!」
「うん?」

青年の鋭い視線と声に、席に座って店主と話していた男がお猪口片手に間の抜けた声を出しながら振り返る。
大柄で一見すると熊のような男だった。ほうぼうに跳ね上がったぼさぼさの髪を後ろで一つにまとめ、日に浅くやけた顔が青年を見る。見るなり千種と呼ばれた男は、相好を崩した。

「おう、匡!どうしたんだ?」

笑った途端どんぐりのように大きな目の横に笑み皺ができ、一気に人懐っこい印象になる。まぶしいものでも見るように目を細めて笑うその様は、どちらかといえば日向でまどろむ猫に似ていた。その頬は酒のためかほわりと赤く上気している。
千種とは対照的に、青年―匡は寒い外を歩いていたからか極端な怒りからか、青白くなった頬をひくりとひきつらせた。ゆがんだ笑みと目が怖い。
「おめぇなぁ…」匡が息を吸い込む。

「いきなりふらっといなくなったと思ったら、なに一人酒なんか飲んでんだよ!?」
「え、飲みたくなったから」

なんか悪いのか?とでもいうように首を傾げる千種に匡はずるりと脱力しそうになった。ほとほと集団行動というものを解さない男である。
こういう性格の男だと理解していたはずだが、京に入ってからというもの、この男には振り回されっぱなしな気がする。匡は痛む眉間を指で揉み解しながら溜息を吐いた。

「…だからって一声かけていくとかあんだろうがよ。なんどもなんども見失って探すはめになるこっちの身にもなれ」
「…ああ!そういやお前土地勘ないんだもんな」

「悪い悪い」と千種は後ろ頭を掻きながら笑う。
からからと豪快な笑い声を聞きながら匡はまた溜息をついた。怒鳴りつけてやりたいことはまだまだたくさんあったが、人懐っこい笑みを見ていると今まで抱いていた怒りがすっと消えていってしまうから不思議だ。
どうにも憎めない。
苦い顔で匡が眉間から指を離すのと、それまでそばで見ていた店主が声をかけてくるのは同時だった。

「ご同郷で?」
「ああ。俺はこっちに住んでたことあんだけど、こいつ江戸から出てきたばっかりでな。おっちゃん、こいつにも何か頼むわ」

千種の威勢のいい声と例の笑みに「あい」と店主は愛想のいい笑みをおいて奥に引っ込んでいく。その背中を見送り、匡は千種の向かいに座った。腹は特にすいていなかったが、千種の言葉の手前仕方なかった。
腰を落ち着けるなり、匡は顔を上げ複雑そうな目で千種を見た。

「江戸…な」
「そうしとけ。祇園の人間はわりとこっちに友好的だが、向こうの人間がいないとも限らない」

匡のひそめた声に、お猪口に口をつけながら千種が返す。

「夏の件のこともあるし、聞いたところによると兵をあげるって話もあったらしい。ま、それはつぶれたみたいだが…」

ぶつかるのは時間の問題だろうな。
千種は手の中のお猪口を覗き込んだ。水面に映った目は、さきほどの明るさをひそめ物憂げに揺れる。
楽観的に振舞っているが、この男はこの男で色々と考えることがあるんだろう。
しばらく静かに杯を干していた千種だが、ふいに顔を上げた。

「それはそうと、兼重の奴ら何やってるんだ?連日部屋にこもってなんか話し合ってたみてぇだが…」

「ああ」眉をひそめる千種に、匡はどうでもよさそうに頬杖をつく。
正直心底興味がなかった。しかし、聞かれたので一応答える態をとる。

「目星がついたんだと」
「あいつらに目星つけるために必要な情報収集力とか伝手とかないはずだろ?」
「だから人に金子を払って聞いたらしい」

匡の一言に、千種の目が嫌なことを聞いたとでもいうように細まった。
口の端をひくつかせながら言う。

「…そいつの名前って分かるか?」
「あん?…たしか、橘って名乗ってたそうだが、そいつがどうかしたのか?」

訝しげな顔をする匡に千種は天井を仰ぎ目を手で覆った。大変な失敗を見つけたとでもいうような、大仰な嘆き方だった。

「あー…、そいつは半分正解で半分間違いだな」
「知り合いか?」

「まぁな」千種は顔をもとの位置に戻す。普通知り合いの話が出れば嬉しがるはずのようなものだが、千種の顔は嬉しがるよりも苦みばしったものだった。
どうもやっかいな知り合いらしい。千種は眉間に皺を寄せる。

「橘って名前は厳密に言えば知らねぇ。俺が知ってるのは、その偽名を使って情報を切り売りしてる良玄って男だ」

そう言われて、匡はぴんときたようだった。

「ああ、お前が京にいたときに世話になってたって男か?」
「そうだ」
「で、そいつの何が半分問題なんだ?」

要領を得ないという顔をする匡に、千種は説明する。

「確かにあいつがつかんでくる情報ってのは正確だし、金子の分の働きはきっちりしてくれる。そういう意味ではすごく公平だ」

「けどな、そこが落とし穴なんだよ」千種の口元がひきつった。

「?公平だったらいいじゃねぇか」
「いや、偏らないってのが逆にまずいんだよ。どっちにもつかないってことは、裏を返せばどっちにもつくってことだ」

…俺の言いたいことわかるよな?目顔で訴える千種に、ようやく理解した匡は頷いた。

「反対勢力に逆に自分達の情報を売られる可能性があるってんだろ?」

本当だとしたらやられた方はたまったものではないだろう。
話の合間に追加されたお新香をつまみながら千種は言う。

「追加で口止め料の金子も積めば大丈夫だけどな。でも金子の手持ちが少ない兼重達は絶対ケチろうとしたはずだから、割に合わないってんであいつの不評を買った可能性が高い」

「そうなると…」千種は溜息混じりに吐き出す。

「確実に何かしら報復されるだろうな」
「っつったって、そうお前が悩むことじゃねぇんじゃねぇか?お前は再三止めたんだろ」
「まぁな。夏の件のほとぼりもまだ冷めてねぇし、兼重達にはやめとけとは言ったんだが、…とはいえこうなったら仕方ねぇな」

口にお新香を放り込み噛み砕く千種。
匡は眉をひそめる。

「爺どもに言われたのは様子見だけだろ」
「ままま、そう言うなよ。寝床貸してもらってる同郷のやつらがむざむざはめられるのを見てるのもなんだしよ」

ついでだついで。
と言う顔はそういうわりにはすごく楽しそうだ。お前もどうだと言い出しかねない様子に、匡は先手を打つことにした。

「…先に言っとくが、俺は手伝わねぇからな」

「分かってるって」酒がだいぶまわっているのか、それともこれからのどんちゃん騒ぎに期待を膨らませているのか、ジト目で釘を刺す匡にもかまわず千種は上機嫌な様子で言う。

「ちょうど体が鈍ってたとこだし、せっかくの祭りだ」

俺も参加させてもらうことにするか。
千種の声に被さるように、窓の外からぱさりと何かが落ちる音がした。
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