序 27



最悪だ。最悪だ。最悪だ。今なら恥かしさで死んでしまえる気がする。
藤堂が立ち去った後、着替え終わった貴舟は部屋の隅に膝を抱えて座り込んでいた。
頭を膝頭にくっつけ、貴舟は長々と溜息を吐く。
脳裏に繰り返し浮かんでくるのは、さっきの光景。
開け放った戸の向こうに見えるのは、まんまるに目を見開いた藤堂の姿だ。ものすごく驚いた顔をしていた。何か言いかけていた言葉は昨日の謝罪をしているようにも聞こえたし、きっとわざとじゃないんだろう。
わざとじゃない。わざとじゃないって分かるんだけど…、でも、しっかりばっちり見られたことに変わりはない。
男に裸を見られたという衝撃で、今もまだ胸の鼓動が収まらなかった。
顔がものすごく熱いのが分かる。きっと伏せた顔は今ものすごく真っ赤になっているんだろう。林檎みたいに真っ赤になった自分の顔が容易に想像できる。色が白い分、赤くなるとすぐに分かるのだ。
とてもじゃないけれど、人に会えるような状態ではなかった。
しかし、こういうときに限って来て欲しくないものというものは来るもので。

「いるか?」

ふいに耳に届いた声に、貴舟はびくりと肩を揺らした。
驚いて顔を上げてみれば、障子戸に影が差している。
背の高い影。藤堂ではない。身体つきががっちりしているところを見ると永倉のようにも思えるが、声が違う。

「誰、ですか?」

すこし警戒しながら声をかけると、「ああ」と失念していたかのような声が返ってきた。

「悪い、そういや名乗ってなかったな。俺は原田左之助だ。メシ持ってきたんだが、両手が塞がっててな。開けてもらってもいいか?」

言われて空腹に気がついた。
さっきまでぐるぐると考えごとをしていたからか気がつかなかったらしい。自覚すると猛烈にお腹が減ってきた。

「…」

本当を言うと非常に出にくかったけれど、せっかく持ってきてくれたのにそのまま待たせておくわけにもいかず、しぶしぶ貴舟は立ち上がった。
障子戸に手をかけ、わずかな隙間から外に顔を出す。
見上げた先で、高い位置からこちらを見下ろす目とあった。ちょっと男の目が笑む。

「おはよう」
「…おはようございます」

敵意のまったくない雰囲気に、若干戸惑いながら貴舟は挨拶を返す。
貴舟が障子戸を開けて部屋に原田を通すと、原田は両手に持っていた膳を畳の上におろした。少し離れたところでうつむきがちにじっとその様子を見ていると顔を上げた原田とまた目が合って、今度は苦笑された。

「取って食いやしねえよ」

だからこっち来い。
そう言われてやっと膳の前に座ると、うかがうような声が頭上から降ってきた。

「…平助のこと、怒ってるのか?」

それがさっきのことを指していると分かり、貴舟はまた思い出してぼっと火が付いたように顔が赤くなるのが分かった。
というか、周りに話したのか!?
自分の醜態がまわりに広まっていることを知り、貴舟はますますいたたまれなくなる。あまりの羞恥と怒りからさらに熱くなる顔を、両手で覆い隠した。
「あー…」前かがみになって顔を隠そうとする貴舟の頭の上に、原田の困ったような声が降りかかってくる。

「悪気はねえんだ、あいつも」

なだめるような声に掌から顔を上げる。案じるような顔の原田が中腰でこちらを覗き込んでいた。下がった眉尻は、本気でこっちを気にかけているようだった。
「食べ終わったら声かけてくれ」と原田は踵を返そうとする。

「あの」

障子戸に手をかけたその背中に、声をかける。

「ん?」

原田が振り返る。
じかにその目を見て言うとまた顔が赤くなりそうで、貴舟はちょっとそっぽを向きながら言った。

「…分かってます」

悪気がないことは、分かっている。藤堂のあまり落ち着きのない気性からして、単純に声をかけることを忘れていただけだろう。
そそっかしい行動に対しての報復は十分に返した。
でも、ただ一つ気がかりあるとすれば。

「あいつ、怪我してませんでしたか?」

勢いで藤堂に枕を投げつけて障子戸を閉めてしまった後、外からものすごい音がした。多分藤堂が廊下から落ちたんだろう。したことに対しての後悔はないし、声をかけなかった藤堂の自業自得だとは思ったが、音が派手だっただけに怪我をしなかったか少し心配だった。
たしか藤堂はこの男と仲が良かったはず。だから話を聞いているのなら、あの後藤堂がどうなったのか知っているように思えたのだ。
一瞬原田の動きが止まる。逡巡するような気配に、貴舟はああと思った。
怪我、したのだ。
「たんこぶが一つ、な」
こめかみを指しながら原田が苦笑をもらす。
弧を描く指に、ぷっくりと膨れ上がったたんこぶが想像できる。痛そうである。
ちょっと痛い目にあえばいいとは思ったが、そんな怪我をさせるつもりはなかった。

「悪かった、と藤堂に伝えてください」

畳の上に視線を落としながら言う。
やった張本人がすまなそうな顔をするのもおかしいと思ったからだ。
ほんの少しの間があって、原田が動く気配がした。
畳の上を足がこちらへ滑ってきて、袴をさばく音がする。目の端に、片膝をつく足が見えた。
顔を上げようとすると、頭のてっぺんに何か暖かくて分厚いものが乗せられた感覚がした。

「そういうことは、自分で伝えな」

優しい声とともに、くしゃりと頭を撫でられる。
掌からじんわりと伝わってくる熱に、ほっとすると同時に重なるものがあった。
顔を上げて目をみはる貴舟だが、当然目の前に映る人物の色彩は自分が望んでいるものとは違う。
そんなわけないのに。
一瞬落胆しかける。
しかし自分に向けられた柔らかな眼差しや撫ぜる大きな手に、胸があたたかなもので満たされる感じがした。小さい子供と同じような扱いは恥かしかったが、貴舟は顔を赤くして眉間に皺を寄せながらもそれを甘受する。
貴舟の頭を数度上下に揺さぶった後、指先は離れていく。
離れていく手に名残惜しさを感じつつ撫ぜられた髪をそっと押さえ、貴舟は小さく返した。

「…はい」
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