序 28


その日はこれといった騒ぎもなく、無事巡察を終えた藤堂と永倉は屯所の門をくぐった。
じきに冬至だからか日の入りはますます早くなり、あたりは既に真っ暗だ。墨を流し込んだような空には冴え冴えとした月が浮かんでいる。
身を刺すような寒さを差し引けば、いい月夜だった。
きっと月見日和だと思っていたのだろう。
隊服から着替え、報告を終えた藤堂と永倉が貴舟の部屋に向かうと、部屋の前には廊下から月を見上げる原田がいた。
ぺたぺたと冷たい廊下を歩く足音に気がついたのか、その場に座った原田の視線がこちらを向く。

「左之、交代だ」
「ああ。平助、新八、ご苦労さん」

永倉が声をかけると、原田はその場から腰をあげた。

「で、その手に持ってるもんは何だ?」

にやっと口の端を持ち上げる原田に、藤堂と永倉は互いにイタズラを仕掛ける悪餓鬼のように笑ってみせる。

「へへっ、たまにはいいだろ?」

「今日は一段と冷えるからな。身体を温めて寝たほうがいいだろ」そう言って永倉が掲げて見せたのは、酒瓶だ。それもいつもより少々値の張るやつ。

「ありがてえ。じっとしてるとどうにも身体も冷えるし肩もこるしよ」

藤堂や永倉と同じく、呑むのが好きな原田は素直に喜んだ。満面の笑みを浮かべて、腕をまわす。
確かに疲労がたまっているらしく、凝り固まった身体からは小枝を何本も折るような音がした。
そのたくましい肩に永倉の腕がかかる。

「じゃ、これから平助君は大事なお話があるみたいだから、俺達二人で呑みますか」

原田の肩に腕を回しさっさと自室にいこうとする永倉に、藤堂はうろたえた。
だってさ。

「ちょ、ちょっと待てよ新八っつぁん!!新八っつぁんが交代でこれから見張りやるんだろ!?新八っつぁんが呑んでどうするんだよ!?」

酔っ払ってまともに見張りがつとまるか?いや、つとまるわけがない。それも新八っつぁんだ。

「ちょっとぐらいなら大丈夫だって!お前の話が終わる頃には戻ってくるしよ!」

ちょっとですむ筈がない。

「いや、でもさ!」
「なあに、お前がしっかり見張っとけば大丈夫だ平助!」

酔いつぶれる姿が目に見えて必死に止めるが、もはや酒一直線の永倉に藤堂の声は届いていないようだった。
「悪いな、平助」そう言って新八っつぁんと一緒に行ってしまう左之さんも左之さんだ。
絶対差し入れるって話出たあたりから、俺に話のついでに見張りの役も押し付けること考えてたな新八っつぁん。
角に消える二人の姿をむくれながら見送り、今度永倉にこの埋め合わせを絶対させようと決心した藤堂だった。
その背中に。

「おい」

不機嫌ともなんともとれるような声がぶつけられた。藤堂はしなる鞭を打ちつけられたかのようにびくりと肩を揺らす。
聞きなれない声だったが、振り返らずとも誰のものであるかはすぐに分かった。
気まずい。ものすごく気まずい。
しかし、振り返らなければ先には進めない。
ぎこちない動きで振り返った藤堂の目に映ったのは、案の定というべきか不機嫌そうな顔をした貴舟の姿だった。障子戸の隙間から顔だけをのぞかせている。眉根を寄せてこちらをじっと凝視する様子は、まるで人なれしていない野良猫のようだ。
思いっきり警戒されている。
あんなことがあった後で無理もないとは思うが、それでも多少落ち込む。藤堂は内心がっくりきた。せっかく仲良くなれそうだったのにな。
「よ、よぉ」とりなすようにへらりと笑う藤堂に、貴舟はますます眉間の皺を深める。思っているよりも溝は深いらしい。
それでもなんとか仲直りをしたいと思う藤堂は、めげずに言葉を続けた。

「お、起きてたんだな」
「部屋の前であれだけ騒がれれば普通目が覚める。そもそもまだ寝付くには早い時刻だ」

そりゃそうだ。
至極まっとうな返事を返されて、さらに言葉に窮する羽目になった。
気まずい沈黙が落ちる。
どどどどうしよう!!途切れた会話に焦って言葉を探す。しかしなかなか思いつかず半ば藤堂が勢いで口を開きかけると。

「あのさ」

藤堂をさえぎり、先に沈黙を破ったのは貴舟だった。

「ごめん」

ぽつりと呟くように言われた言葉に、藤堂は目を見張った。

「へ?」

思わぬ言葉をかけられ驚いて貴舟の顔を凝視すれば、どことなくバツの悪そうな顔をしている。
合わせられた目からそろりと視線をはずし、貴舟は言う。

「ちょっと私もやりすぎだった」

「額、まだ腫れてるよな」貴舟の気遣うような声に、藤堂ははっとして額を手で隠した。
確かにぷっくりとした感触がかすかにまだ残っている。
怪我したところを貴舟は見ていないから、誰かが話したのか。情けないからあまりばらして欲しくなかったんだけどな。

「あー…、うん」
「ごめん」
「い、いいって!俺も…いきなり開けたのが悪かったしよ!」

肯定したところ明らかに気落ちした様子で言う貴舟に、藤堂は慌てて言い募る。
すると今度は一転、貴舟は顔を上げてはっきりと言い放った。

「うん。それについては私も許すつもりはない」
「"うん"って…んなはっきり…」

許すつもりは毛頭ないと力強く目までが訴えている。いっそすがすがしささえ感じられる貴舟の表情に、藤堂はやっぱり怒ってんじゃんとがっくりと肩を落とした。
うなだれた藤堂の頭の上に、ふふっと笑い声が降ってくる。
驚いて顔を上げると、こらえきれないというように口に手を当てて笑う貴舟の姿があった。
初めて見た、笑顔。
今までのどこか強張ったような表情ではなく、ごく自然で柔らかい表情に藤堂は一瞬目を奪われた。

「嘘だ。許す」

「だから私のことも許して欲しい」その貴舟の言葉に、藤堂もそこでやっと自分がからかわれたことに気がついた。
「お前っ!?」と喉元まででかかった声をなんとか飲み込み、藤堂はおさまりが悪い口をもにょもにょさせる。ここで自分が声を荒げては元の木阿弥になると思ったからだ。別に喧嘩をするためにここへ来たわけではないのだ。
それに相手にここまで言われて許さないのは、大人気ない気がした。

「…いい、けど」

それでも少し素直になれなくて、言う唇がちょっととがってしまったのは秘密だ。

「俺も、ごめん」

けど、本当は貴舟と少し仲良くなれたようで、嬉しかった。
へへっと照れたように笑う藤堂に、貴舟もまた笑った。
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