序 29


月見のために開けた窓から冷やりとした風が流れ込む。
そこにのって運ばれてくるのは、ひそやかな話し声だ。
しばらく口を閉じて耳をすませていた新八は上機嫌になって猪口を傾けた。

「うまくいったみたいだな」
「ああ」

空になった猪口に酒をついでやりながら原田は相槌をうつ。

「貴舟も気にかけてたみたいだからな。わざわざ俺達が平助に助言してやる必要は、もともとなかったってことだ」
「あいつが平助のことを気にかけてたって?」

猪口に口をつけながら新八は瞠目する。
思いもよらなかったという顔だ。たしかに、昨日の貴舟の様子からは想像できないだろう。
しかし直接話してみた今は分かる。

「確かに少し素直じゃないところもあるが、基本的には優しい娘だよ。あいつは」

そこには思うことがあったんだろう。新八も頷いてみせた。

「そういや、今日はお前が見張りだったんだよな」

「何か話したのか?」たずねる永倉に原田は猪口に手を伸ばしながら苦笑をもらした。

「いや、平助のこと以外は特に何も話してねえな」

正確には、聞けなかった。
必要以上のことは言わないし、聞かせない。微妙な立場であるということを自覚しての上のことでもあろう。
原田は人慣れしていない猫のように一定距離を保ちながらこちらをじっと見ていた貴舟の姿を思い浮かべた。

「たずねればある程度は答えてくれるが、間合いにはおいそれと入れてくれねえよ」

心理的距離も物理的距離も。
貴舟は剣の届く間合いにこちらを寄せ付けようとしなかった。

「…まあ、こんな状況じゃ仕方ねえよな」

後ろめたさからだろうか。新八は後頭部をぼりぼりと掻く。
本当は貴舟が悪いわけではないということを分かっているのだ。
ただ、運が悪かっただけだ。
だからこそ、平助も気にかかってしょうがないのだろう。貴舟の身柄をどうするか決める審議の場で、処罰する方向に話が傾いたとき真っ先に異を唱えたのもあいつだった。
自分も口封じのためだけに殺すのは、反対だ。
しかし、かといってはいそうですかと解放できるほど、事は単純ではない。
貴舟が目撃してしまったモノ。そして何より貴舟の雇い主だと名乗る男の登場。
貴舟が用心棒をしているというのは、平助と総司の話からして本当のことなんだろう。普段は笑えない冗談を飛ばしている総司だが、剣と近藤さんについては嘘をつかない。馬鹿が付くほどの正直者である平助にしても同じだ。よって貴舟については嘘はないんだろうと現時点では思っている。
だが、貴舟の雇い主だと言うあの良玄という男はどうだろうか。
ただの置屋の主人だと言うが、それにしたって知りすぎている。
あの話を知っている時点で、怪しいことこの上なかった。
男の冷えた眼差しを思い出し、原田は思わず眉間に皺を寄せた。
…何より心底気に食わない。
腹の底に溜まる暗い気持ちを押し流すように、一息にぐっと猪口の酒をあおる。

「おっ、いい飲みっぷりだねえ!」

男ってもんは女を守るもんだろうが。
男が平然と貴舟のことを自分の用心棒だとのたまったとき、原田は眉をひそめずにはいられなかった。
何のてらいもない声は、女に守られることに一切の疑問も抱いていないようだったからだ。
それが原田には許せなかった。
たしかに貴舟は腕は立つかもしれない。だが、貴舟が用心棒以前に女であることは、自分達に貴舟の性別を明かした男が一番良く理解しているはずだ。それなのに平然と女の背に守られる男が、信じられなかった。
今日間近に貴舟を見て実感した。
見ようによっては確かに男にも見えるが、薄い着物では柔らかな身体の線は隠し切れない。
華奢な背中を思い出し、原田は歯噛みする。
いつか絶対あの男とは話合わねば。

「っもう一杯!」

ふつふつと煮える憤りを冷やすため、新八が注いだ酒をまた喉に流し込んだ。
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