序 31


「濡れるぞ」

声と共に頭上にふっと影がさす。
気がついて後ろを振り返ると良玄がそばに立っていた。雪を背景に黒い羽織姿が浮かび上がる。手には朱傘をもっていて、それを貴舟の上にかざしていた。
薄明かりに照らされた綿雪と傘の朱が、男の白い面によく映えている。
視線を傘から少し下げれば、こちらを見下ろす双眸とぶつかった。平時であれば冷たさをたたえている瞳に浮かぶのは、不安と心配の色だ。
めったにあわられないその色に貴舟は驚くと共に、やけつくような憤りを感じた。
視線を振り払い、前を向く。
しんしんと雪の降り続く通りは人気が無く、閑寂としている。
今夜は特に冷え込みがひどい。吹きすさぶ風は冷たく、あっという間に手足が凍えてかじかんだ。指の先は赤い色がにじみ、もう手のひらを開いているのか握っているのかさえよく分からない。
それでもずっと貴舟は通りにひとり立っていた。
そうしてずっと待っていた。

「貴舟」

焦れたように良玄が名前を呼ぶ。
しかし貴舟は聞こえないふりをする。
良玄は見かねて見世に戻るように言いに来たのだろうが、戻るつもりはなかった。
それが伝わったんだろう。背後で気配が動く。今度は指がくいこむほどの力で強引に肩をつかまれ後ろを向かされた。

「中に入れ」

命じる言葉とは裏腹に、良玄は苦しそうな、懇願するかのような表情を浮かべていた。
それがひどく気に入らなかった。
顔をゆがめ、肩をつかむ良玄の手を勢いよくはらい落とす。
目を見開く良玄に向かって、貴舟は初めて口を開いた。

「じゃあ教えてくれよ!」

湧き上がる感情のままに言葉を叩きつける。

「なんで師匠は出て行ったんだ!?」

顔を上げてじっとにらみつける。
良玄は一瞬息をつめて、視線を下に落とした。
引き結ばれた唇が意味するところは、"言えない"だ。
何度このやり取りをしただろうか。どこへ行ったという問いかけに対しては首を振ってみせるのに、なぜ、という問いかけになると途端に押し黙る。
知らないとも知っているとも言わずにただ沈黙するのは、心当たりがある証拠ではないのか。
確証はないまでにしても決して教えてくれようとしない良玄に、貴舟は苛立ちを感じていた。不安でひき潰されそうになっている自分を案じるような姿を見せるくせに、それでも決して答えをくれようとしない良玄が腹立たしくて仕方が無かった。
半ば引きちぎるようにして良玄の胸倉をつかむ。高ぶる感情に鼻の奥がつんとして、目の端に涙が浮かんだ。

「なんで教えてくれないんだよ!!」

叩きつけられる声に、良玄はぴくりともしない。

「なあ!」

ただ口をつぐみ、悲痛にゆがめた目で見てくるだけだ。
沈黙が痛い。わななく唇をかみ締めたら、しょっぱい味がした。
いつの間にか決壊してぼろぼろと頬を流れる涙を、良玄の指先にぬぐわれる。そのまま後頭部に手をまわされ、良玄の胸に顔を押し付けられた。
あたたかな布地に、自分の涙がじんわりとしみるのを感じる。
冷え切った自分の体とは対照的に良玄の身体はあたたかった。それが憎らしいと感じるのにどうしても拒めなかったのは、本当は無理を言っているという自覚があったからだ。
分かっていてもままならない気持ちに、堰を切ったように涙が溢れ出す。

「すまない」

落とされた言葉に、なだめるように髪を梳く指に、貴舟は嗚咽をあげて泣いた。
ALICE+