序 32



目を覚ますと、暗い部屋の天井が見えた。
頭が鉛でもつめられたかのように重い。
枕が変わったからか、部屋が変わったからか、それともその両方のせいか。新選組の屯所で寝起きするようになってからというもの、なんだか寝つきが浅くなったような気がする。
いつもなら夢なんて見ずに朝までしっかり眠っているというのに、最近頻繁に夢を見てしまうのはそのせいだろう。
さっきも夢を見ていたようだ。頭のあたりが妙に重い。
見た内容は頭に靄がかかっているようにはっきりと思い出せないが、気分がいまいちよくないことからしてあまりいい夢ではなかったようだ。
すっきりとしない気分を振り払うように、貴舟は布団のなかでもぞもぞと寝返りをうつ。ごろりと反転した視界に、廊下側の障子戸がうつる。
そこでふと廊下の奥のあたりから複数の声が聞こえてくることに気がついた。
そうっとあたたかい布団から抜け出して障子戸を少し開ける。
距離が開いていて話している内容までは分からないが、話し声はどうやら副長の部屋から漏れているようだった。
しばらく耳をすませていると穏やかだった声が怒鳴りつけるような声に変わった。
子細は分からないが、ずいぶん焦った声からして何かあったらしい。
じっと息をひそめて気配を探ってみると、通りのあたりからも慌しく人が動く気配がする。風にのって時折届いてくるささやき声と砂利を踏む足音と共に、穏やかとは程遠い雰囲気が伝わってくる。
ひそめてはいるが、ぴんと張り詰めた緊張のようなものがあった。
そう、例えば斬り合いの前のような。
…長州の人間が襲撃をかけてきたか?
まっさきにそれが頭に浮かんだが、貴舟はすぐにその考えを打ち消す。
いや、それならもっとたくさんの人間が動き回ってあたりが騒然となるはず。今動いている人間はせいぜい4、5人ぐらいだ。屯所内で何かあったという感じではない。
ということは外か。
外という言葉と共に、頭にひとつの情景が浮かんだ。
月に照らされた白い髪に、獰猛な赤い瞳。
人のような形をしているが、人ではないモノ。
新選組はあれが人の目に触れるのを恐れているようだった。
貴舟が遭遇したときに出張ってきたのが幹部だったことからして、同じ新選組内でも平隊士にはあれの存在は伏せられていることが窺える。
まわりの部屋の中に意識を集中して耳を澄ませてみるが、衣擦れの音一つしないことからして今出払っているのは幹部のみで間違いないだろう。
藤堂曰くふつう平隊士以下は大部屋で雑魚寝することになるそうだが、色々と特殊な事情がある貴舟は幹部達が寝起きしている一角の一間に押し込められた。そういうわけで隣の部屋は斎藤の部屋になっているのだが、今はもぬけの殻になっているようで気配がまったく感じられない。
平隊士には知らせずに幹部のみが動いているということは、あの化け物がらみで何か起こっているということだ。
風に梢がざわざわと不気味に揺れる音がする。
不穏な空気に胸騒ぎがした。
…人死にがでなければいいが。
ぼんやりとそう思ったとき、奥のほうから複数の足音が近づいてくることに気がついた。
やばい。こんな時に起きているところを見咎められたら面倒なことになるかもしれない。
貴舟はすばやい動きで布団にもぐりこんだ。
だんだん足音が大きくなってくる。貴舟は布団のすきまから様子を窺った。
やがて足音が部屋の前にきて、障子戸に二つの影が映る。
背の高い影と、それより少し低くがっしりとした体格の影。
部屋の真ん前に差し掛かったところで、ふいに背の高い影が立ち止まった。

「あれ?」

疑問を含んだ声が上がる。沖田だった。
げ、と口の端がゆがんで自然と眉間に皺がよる。嫌な奴がきた。

「どうかしたのか総司?」

もう一方の影は局長の近藤だったようだ。突然立ち止まった沖田に首を傾げて不思議そうにしている。
沖田は問いかけに答えず、じっと部屋の前で立ち止まっていた。どうやら部屋の中に顔を向けているらしい。頭に布団をかぶっていても視線のようなものを感じた。
起きていることに気づかれた?
貴舟はぐっと身を強張らせ、息をひそめる。
沖田は自分や良玄のことが心底気にくわないようだった。先日の詮議の場で沖田が自分達に激しい敵愾心を向けてみせたことはまだ記憶に新しい。見つかったら一体どんな嫌味を言われるか。いや、嫌味で済めばいいが。
良玄の首につけられた傷跡の赤い線が頭に浮かび、苦い気持ちが胸にこみ上げる。布団を掴む手に力が入った。
とにかく今沖田に起きているところを見咎められるのはまずい。
早く立ち去ってしまえー。
貴舟は内心はらはらしながら一向に動く気配のない影に念じる。
そんな思いが伝わったのかは分からないが、障子に浮かぶ影が揺らいだ。

「…いえ、気のせいみたいです」
「そうか」

沖田の言葉に先を歩いていた近藤が再び前に向き直り、その後ろを沖田が付いて歩き始める。
気づかれなかったみたいだ。
遠ざかる影に貴舟はほっと胸をなでおろす。
おさえていた吐息を吐き出した瞬間。
かたんと音がした。
音がしたほうをばっと顔を上げて見る。一見何も変わった様子のない部屋だったが、音が鳴った方の障子戸を見て貴舟は思い出した。
隙間…!!
布団にとっさにもぐりこんだとき、細く開けた障子戸を閉めるのを忘れていたのだ。しかし今見た障子戸はぴったりと閉じられている。
沖田が閉めたからだ。
閉じられた障子戸を見て、貴舟は苦虫を百匹ほど噛み潰したような気分になった。
沖田はこちらに気づいていた。でもあえて何も言わずにじっと見ていたのは、気づかれやしないかと息をひそめてはらはらしていた自分をなぶって楽しんでいたからではないだろうか。
もしそうだとしたらかなりの性悪だ。
障子戸を見ていると沖田のほくそ笑む顔が目に浮かんでくるようで、貴舟は頭から布団を被った。
不愉快だ。さっさと眠って忘れよう。
横になって目を閉じているとむかむかしていた気分もだんだん収まってきて、すぐに眠気がやってきた。
今度こそぐっすり眠りたい。
目を覚ましたら朝になっていることを祈って、貴舟は眠りのなかに落ちていった。
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