序 33



まるで悪い夢でも見ているような気分だった。

「た、助け――ぎゃああああああああああ!!」
「ひゃははははははははははは!!」

断末魔に甲高い哄笑が重なる。
それとともに断続的に聞こえてくるのは肉を切り刻む鈍い音だ。耳をつんざく絶叫が次第に弱々しく消えていくのを聞きながら、それでも千鶴はその光景から目を離すことができなかった。足に力が入らなくてその場にへたり込んでしまう。
浅葱色の羽織が翻るたびに振り上げられる刃が月明かりを反射して光る。
何度も何度も何度も何度も。人の形をした【何か】たちは先程まで自分を追っていた浪士に群がり、力に任せに滅多切りにする。その度に人形のように力の失せた身体ががくがくと地面の上で踊った。
千鶴は見開いた目を閉じることも出来ず、ただ目の前で起こる陰惨な光景を息を殺して見る。
今、私の目の前で、人が殺されたんだ。
ぴくりとも動かない浪士の指先に、千鶴は浪士が物言わぬものになってしまったことを悟った。死体の下の地面にじわりと赤い水溜りがにじみ出る。突きたてた刀を死体から引き抜くたびに、群がった男達の顔に血しぶきがとんだ。

「ひ、ひひひひひひひ」

赤い斑点に彩られた男達の目に理性のかけらは一切見られない。肉を切り、骨を断ち、血を流す。他者の命を暴力で犯したい、ただそれだけの狂気があった。
…こんなの、人間じゃない。
壊れてる。
喉が詰まるようで上手く息が出来ない。鼻先をかすめた濃い気配こそ、溢れかえる血の匂いなのだとようやく気づいた。
背筋を這う恐怖が、ゆっくりと体にしみこんでいく。それと同時に頭の芯が冴えてきて、薄い幕を透して見ていた感覚だった目の前の状況が現実味を帯びて一気に迫ってきた。
今は死体に夢中になっているからいいが、気づかれたら自分もおしまいだ。次にああなるのは自分かもしれないと思うと、急激に血が下がった。体中をさーっと下がって行く血の音が聞こえてきそうだ。
怖い。
どうしよう。
どうしよう。
考えようとすればするほど、思考が空回る。それでも何とか千鶴に浮かんだ考えは、とにかくここを離れなければということだった。

「…逃げなきゃ」

ふるえる唇は何とか息を吐き出した。でも。

「!!」

恐怖にしびれた身体は上手く動かなくて、千鶴は身を隠していた木の板を倒してしまった。
板の倒れる激しい音に、浅葱の羽織を赤黒く染めた彼らが振り返る。
新たな獲物を見つけた赤い瞳が、歓喜に打ち震えたかのように光った。男達の口元に、いびつな笑みが浮かぶ。

「―――っ!!」

男達と目が合った瞬間、千鶴は声にならない悲鳴を上げた。
逃げなくちゃ。怖い。私、まだ死にたくない。
なのに意に反して、足がもつれて立ち上がれない。膝が笑う。
そうこうしている間にも狂った殺意は千鶴目がけて嗤いながら駆けてくる。
…私、死んでしまうのかもしれない。
助けを求めるあてもなくて、悲鳴すら上げられないまま千鶴は身を強張らせる。
そのときだった。
一閃。
白光が目の前をよぎる。

「え…?」

もう少しで千鶴に触れるという距離で、男の身体が崩れ落ちた。
男の身体からびしゃり、と音を立てて地面に広がる鮮血。熱くて生臭くて、ぬるりとしたもの。
そのむせるような濃い匂いに、千鶴は一瞬口元を押さえ嫌悪感に耐える。しかしその直後、より強い衝撃によってその気持ち悪いという感覚は吹き飛ばされた。

「あーあ、残念だな…」

言葉の持つ意味とは裏腹に、おかしげに弾む声が耳朶を打つ。
千鶴が顔を上げると、目の前に人が立っていた。背の高い青年だ。浅葱の羽織を纏った肩に、抜き身の刀を担ぐようにして持っている。
刀身からは血が地面に向かってしたたっていた。

「僕ひとりで始末しちゃうつもりだったのに。斎藤君、こんなときに限って仕事が速いよね」

隣の黒衣の青年へ恨み言を告げながらも、楽しそうに微笑む。

「俺は務めを果たすべく動いたまでだ。…あんたと違って、俺に戦闘狂の気は無い」
「うわ、ひどい言い草だなあ」

まるで僕が戦闘狂みたいだ、と青年は笑う。

「…否定はしないのか」

斎藤と呼ばれた青年は呆れ混じりの溜息を吐き、そして、千鶴に視線を投げかけてきた。
射貫くような視線に、千鶴は身をすくめる。

「でもさ、あいつらがこの子を殺しちゃうまで黙って見てれば僕たちの手間も省けたのかな?」

目の前の青年が口の端を持ち上げて言う。妙に無邪気なその言葉で、千鶴は自分が追い込まれていることを改めて理解した。
視界の端には、青年達が斬っただろう男達の死体が見える。
異様な状況はまだ続いているのだ。
青年が視線と共に投げかけた言葉に、斎藤は目を伏せて答える。

「さあな。…少なくとも、その判断は俺達が下すべきものではない」
「え…?」

判断を下す人はまだ他に居る、ということ…?
彼らの言動に組織的な気配を感じると共に、千鶴は浅葱色の隊服を着込んだ集団の話を思い出す。

「まさか―」

名を口にしようと思ったそのとき、不意にふっと影が差した。

「あ……」

雪をはらんだ冷たい風になびく漆黒の髪に、振り返った千鶴は息を呑んだ。
降り注ぐ月の光に雪が照らされる。その輝きが千鶴には何故か、舞い散る花びらを思い起こさせた。
まるで狂い咲きの桜が散っているかのような光景のなか、美しい男がたたずんでいる。

「…運の無い奴だ」

氷の刃にも似た静かで冷たい声音。月明かりに照らし出された端正な顔。
眼前に突きつけられた、白銀にきらめく刀の切っ先。

「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」

じわりじわりと足元まで忍び寄ってきた血溜まりと刃に、千鶴は思う。
これは悪い夢だ、と。
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