序 37



「失礼ですがあなたの荷物を検めさせていただきました」

広間へ連れて来られた千鶴の前にそう言って差し出されたのは、一通の文だった。

「それは…」

文は千鶴の父から送られてきたもので、江戸から京に来る際に荷物と一緒にまとめたものだった。
京に仕事に出た父とはずっと文のやりとりをしていたのだが、その一通をさかいに父とは一切連絡が取れなくなってしまっていた。
いくら経っても返ってこない文に父の身に何かあったのではないかと考えはじめ、いてもたってもいられなくなった千鶴は何かの手がかりになるのではないかと思い、文を荷物と一緒にまとめ江戸から京を目指したのだ。
文面には父の近況と江戸で一人暮らす自分の身を案じる内容が書かれており、その結びには父の署名がある。

「雪村綱道氏とは、どのようなご関係で?」

千鶴は一瞬息を呑んだ。
この人たちは知っているのだ、父のことを。
手がかりを得た喜びに気持ちが明るくなりかける。でも、千鶴はすぐに山南と名乗った男の柔らかいが探るような問いかけに、強張ったような響きがあることを敏感に感じ取った。急に不安な気持ちが押し寄せてくる。
そもそもなぜ新選組が父のことを知っているのだろうか。新選組は京で不逞浪士を取り締まっている集団だと聞く。時には抵抗してきた浪士を斬ることもあると。そんな人斬り集団と呼ばれる新選組と人を救うのが生業の蘭方医の父が、千鶴の中ではすんなりと結びつかなかった。
四方からじっと凝視してくる視線に千鶴は緊張しながら答える。

「雪村綱道は私の父です」

広間にささやかなどよめきが広まった。
しかし文の文面から予想していたんだろう。それもすぐに収まった。
代わりに、場になんともいえない空気が漂う。

「やはり綱道氏の…」

山南の言葉も幹部達の表情もどこか複雑そうな雰囲気があった。
言葉を選んでいるような沈黙にいよいよ悪い予感が強まってきて、千鶴はいてもたってもいられず声をかける。

「あの、父とは…?」

逆に質問を返した千鶴に答えたのは、山南とは別の男だった。

「綱道さんには俺達のことを手伝ってもらっていた」

眉間に深々と皺を刻みながら男は言う。
男は昨夜千鶴に刀の切っ先を突きつけた男だった。確か、男の名前は確か土方歳三といったはずだ。新選組副長で新選組で2番目にえらい人。
つまりは千鶴の処遇を決める決定権を2番目に持っている人物ということだ。
その事実と昨夜の出来事も相まって、千鶴は身を縮みこませるように首をすくめる。最初はきれいな人だと思ったけど、今は正直ただひたすらに怖い。

「同じ幕府側の協力者なんだけど…実は彼、ちょっと前から行方知れずでさ」

あいまいな土方の返しに横から言葉が付け足される。
末尾の言葉に千鶴が弾かれたように振り返ると、肩をすくめる青年の姿があった。昨晩自分をここまで連れてきた一人で、沖田と名乗った男だった。
それよりも、父が行方知れずとはどういうことだろうか。
嫌な予感が現実のものとなった。動揺する千鶴に、また言葉が飛んでくる。

「綱道氏の行方は現在新選組で調査している。―幕府をよく思わない者たちが、綱道氏に目をつけた可能性が高い」

落ち着いた声音で淡々と語られた、しかし恐ろしい可能性に千鶴は目を見開いて固まった。
そんな…。
冷やりとしたものが背筋を這い、手足から一気に血の気が失せていく。
おそらく青い顔をしているだろう自分の顔を見て、沖田の隣に座っていた墨衣の青年―斎藤は言葉を重ねる。

「…生きている公算も高い。蘭方医は、利用価値がある存在だ」

希望がないこともない。
斎藤の言葉に、千鶴は詰めていた息を吐き出すようにほっと胸をなでおろす。でも完全に安心することはできなかった。
行方が分からないのはある程度覚悟していたが、まさかそれほど悪い状況だったとは思わなかったのだ。以前として父の消息が分からないどころか生死さえ危ういと告げられた千鶴は、祈るような気持ちだった。
そうしなければ今にも不安に押しつぶされそうだった。
父様…。
だから、そっちに気をとられていた千鶴は重大なことをすっかり失念していた。

「それでつまり、お前さんは親父さんを探して京まで来たってことだよな?」
「…はい」

体格の良い男の問いに千鶴は半ばうなだれるように頷く。
広間までの廊下で井上が教えてくれた通りなら、確か男は永倉という名前だったと思う。

「で、不逞浪士から逃げていたお前は隊士どもに助けられたってことか」
「はい」

続けられた言葉に千鶴はそのまま頷き、…はっと顔を上げた。

「じゃ、隊士どもが浪士を斬り殺してる場面はしっかり見ちまったってわけだな?」

時すでに遅し。四方から射貫くような視線を向けられ、とっさに否定の言葉が出てこなかった。
ここで沈黙するなんて肯定しているようなものなのに。

「つまり最初から最後まで、一部始終を見てたってことか…」

念を押すような別の男の言葉に、千鶴は自分の失言を悟って硬直する。
窮地はまだ続いていたのだ。
広間へ連れて来る際、井上は言っていたはずだ。
「あんたが何を見たのか、確かめておきたいってことになってね」と。
昨晩千鶴が見たあれは、明らかに新選組にとって不利益になりうるものだ。新選組の隊士は血に狂ってるなんて噂が立てば、彼らが京で活動していくことは難しくなる。そうなれば京の治安を守る者がいなくなり、京の治安が荒れる。それを避けるためには、彼らは千鶴の口を封じることになんのためらいも感じないだろう。事実、彼らの言葉の端々からは、千鶴のことを厄介だと感じていることがありありと感じられた。
だというのに、自分は致命的な発言をしてしまった。
どうしよう…!?

「わ、私……私、誰にも言いませんから!」

慌ててそう言い募る千鶴に、山南は溜息を漏らす。

「偶然、浪士に絡まれていたと言う君が敵側の人間だとまでは言いませんが…、君に言うつもりが無くとも相手の誘導尋問に乗せられる可能性はある」
「う…」

山南は優しい声音のまま千鶴にとって厳しい現実を静かに語った。
実際、目の前でうかうかと肯定してしまったので千鶴は山南の言葉に反論できない。
言葉に詰まる千鶴に、さらに追い討ちがかかる。

「約束を破らない保障なんて無いですし、やっぱり解放するのは難しいですよねぇ」

少し間延びした沖田の声音は面白そうに弾んでいるのに、どこかそらおそろしい響きを含んでいた。

「ほら、殺しちゃいましょうよ。口封じするなら、それが一番じゃないですか」

まるで今日の献立は味噌汁にしましょうとでもいう風に気軽に告げられた言葉に、千鶴はぞっとした。

「そんな…!」

悲鳴じみた声を上げると、上座の中央の男がたしなめるように沖田を見た。
新選組局長の近藤だ。

「…総司、物騒なことを言うな。お上の民を無闇に殺して何とする」

その言葉を聞いた沖田は、笑みを消すと困ったように目を伏せてみる。
しおらしいその表情は、まるで親に叱られた子供のようだ。

「そんな顔をしないでくださいよ。今のはただの冗談ですから」
「…冗談に聞こえる冗談を言え」

斎藤の呆れたような言葉に、沖田は照れたような笑みを浮かべた。

「しかし、何とかならんのかね。…まだこんな子供だろう?」
「私も何とかしてあげたいとは思いますが、うっかり洩らされでもしたら一大事でしょう?」

井上の同情的な言葉に山南は困ったように眉を寄せると、さて、と言葉を区切ってから土方を見る。

「私は副長のご意見をうかがいたいのですが」

山南に役職名でうながされて、土方は小さく息を吐き出した。

「俺たちは昨晩、士道に背い隊士を粛清した。…こいつは、その現場に居合わせた」

ただそれだけだ。溜息と共に吐き出すようにして言った土方の意見に、永倉は難色を見せる。

「けどよ、こればっかりは大義のためにも内密にしなきゃなんねぇことなんだろ?新選組は隊士は血に狂ってるなんてうわさが立っちゃあ、俺らの隊務にだって支障が出るぜ」

筋の通った永倉の指摘は、もっともだった。土方の表情が渋くなる。
場を取り巻く雰囲気がまた処分に傾きかけているのを感じ、千鶴も顔を曇らせる。
そこへ声が割って入った。

「でもさ、こいつは別にあいつらが血に狂った理由を知っちまったわけでもないんだろ?」

発言したのは、永倉の隣に座る小柄な青年だった。井上が教えてくれた幹部の特徴からすると、最年少幹部の一人の藤堂だろう。
藤堂の言葉に、千鶴は首をかしげる。
…理由?
何か、特別な理由があるの…?
目を瞬いた千鶴を見て、土方はいまいまいしそうに舌打ちをした。

「平助。…余計な情報をくれてやるな」

失言に気づいた藤堂は、慌てたように両手で口を塞ぐ。
目を細めてその様子を眺めていた沖田は、茶化すように言う。

「あーあ、これでますます、君の無罪放免が難しくなっちゃったね」

沖田の鋭い視線に千鶴はますます首をすくませた。膝の上で握った手が、白い。

「土方さん。…結論も出ないし、一旦、こいつを部屋に戻してもかまいませんか?」

斎藤の申し出に畳の上に視線を落としていた千鶴は顔を上げる。
針のむしろのようなこの雰囲気に絶えられないと思っていた矢先に、斎藤のこの申し出は千鶴にとってまさに渡りに船だった。
だが。

「同席させた状態で誰かが機密を漏らせば、…処分も何も、殺す他なくなる」

内心千鶴がほっとして息を吐き出した中、斎藤がさらに続けた言葉は千鶴をまた奈落に落とすのに十分な威力を持っていた。
凍りつく千鶴をよそに、話は進む。

「そうだな、頼めるか」

頷いた土方によって、千鶴はまた斎藤と共に部屋に戻ることになった。
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