序 38



『…処分も何も、殺す他なくなる』

部屋に戻された後も、千鶴の頭の中にはその言葉が張り付いたかのようにずっと巡っていた。
私…殺されるのかな。
浮かんできた考えに、胃の辺りに冷やりとしたものを感じる。
こわい。
一寸先も見えない暗闇の中に放り込まれたような心地だった。
こうして待っている間にも、自分の処遇についての詮議が行われており、結果によっては殺されるかもしれないのだ。それをただじっとして待っているというのは、生きた心地がしなかった。
隙をみて逃げ出そうかとも考えたけれど、部屋の外には見張りが立てられていてそもそも隙というものが存在しない。
刻一刻と無情に過ぎていく時間に、千鶴の精神は磨り減りそれに比例して焦りが増していくようだった。
闇雲に焦っても仕方がないと頭ではわかっていても、心臓が早鐘を打つのと冷や汗が吹き出てくるのを止められない。
…どちらにせよ悪い結果になるのなら、イチかバチかで逃げ出してみようか。
そう千鶴が考えはじめ畳から膝を浮かせかけた瞬間。
背後でがばっという音がした。
びくりと肩を揺らして千鶴が振り返ると、そこには、

「……今、何時?」

布団の上で上半身だけを起こし、寝ぼけ眼でこちらを見つめる青年―もとい少女の姿があった。確か、貴舟と名乗っていた。
自分が布団をとってしまっていたため一晩夜明かしをして疲れきっていたのか、千鶴が戻ってきたときにはすでに貴舟は布団に倒れこむようにして寝ていたのだ。寝入っている貴舟を起こさぬようにと音を立てないようにそっと障子を閉めたことまでは覚えている。しかし、死んだように静かに眠る貴舟に千鶴は今になるまでその存在をすっかり忘れていた。

「も、もうすぐ昼時です」
「…結構寝てたな」

千鶴の返事に貴舟は部屋の明るさにまぶしそうに瞬きし、寝癖のついた髪を手櫛でとく。
しばらくぐっすりと眠っていたおかげか、その顔色は朝に比べてずっと優れて見えた。朝は青白かった頬が、ほんのりと色味を取り戻している。
隅に畳んで置いていた着物を引き寄せ、もぞもぞと着替え始める貴舟を見ながら千鶴は思う。
そういえば、この人は何者なんだろう。
朝に千鶴に見せた同情的な態度を見る限り新選組の隊士というわけではなさそうだし、捕まっているけど捕縛された不逞浪士といったわけでもなさそうだ。悪さをして捕まったのであれば、普通こんな状況では平静でいられなさそうなものだけど、貴舟の態度にうろたえや焦りはない。
むしろ平時と変わらない様子で身支度を整える貴舟の姿に、逆に焦っていた自分がみっともなく感じられ、一瞬呆けてしまったぐらいだ。すっかり気の抜けた様子でちょこんと座る千鶴を尻目に、着替え終わった貴舟はせかせかと布団を畳んで隅に積む。
そして、おもむろにまた千鶴の目の前に座った。
きっちりと背筋を伸ばして正座した貴舟の顔に先ほどの寝ぼけた様子は微塵もない。たわんでいた雰囲気が締まるのを感じて、千鶴もはっとした顔つきになって背筋を伸ばす。
そんな様子の千鶴に貴舟は少し笑ってみせて、すぐに笑みを消した。
代わりに浮かぶのは、気遣うような表情だ。

「その様子じゃ、あんまりいい結果じゃなかったみたいだな」

「聞いても?」たずねる貴舟に千鶴は頷く。ぐるぐるとまとまりなく頭の中を巡るこの思考をまとめるのに、誰かに話してみるというのもいいかもしれないと思った。それに、警戒する気持ちもなくはなかったが、今この状況で頼れる人物は貴舟だけだと感じる自分もいた。
千鶴はとつとつと話し始める。新選組に捕まった経緯。今に至るまでに詮議の場で起こったこと。そして自分の父のこと。
しばらく相槌を打ちながら辛抱強く黙って聞いていた貴舟だったが、話が終わると少し難しそうな顔をした後、

「…今は待つしかない、と思う」

と言った。

「結論が出てない以上、無闇に動いて状況を悪くするのはおすすめしない」

焦る気持ちは分かるけどな。貴舟の口元に苦笑が浮かぶ。
貴舟の言葉と表情に、千鶴は恥かしげにうつむくしかなかった。
すっかり寝入っているものだとばかり思っていたが、自分の行動は貴舟にしっかりと気取られていたようだ。
それにもし…、

「あの…貴舟さん、は…」

ためらいがちに口を開いた千鶴に、貴舟は察したように「ああ」と返事する。

「私もおおむねの事情は千鶴と同じだ」

貴舟の口元に自嘲が浮かぶ。

「まぁ、私の場合色々あって処分は当分"保留"だけど」

苦々しく話す貴舟に、千鶴はいよいよ自分が随分うかつな行動をとろうとしていたことを悟った。
そしてなぜ二人が一緒の部屋にいれられたのかを正しく理解した。
二人はどちらも捕まった身であり、同時に互いの監視者なのだ。一方が逃げ出せば一方に見逃した責がゆく。また二人が結託して逃げ出した場合も、新選組としては両方を処分する良い言い訳ができるわけだ。
もしさっき自分が本当に逃げ出していたらどうなっていただろうか?
…あまり考えたくない。
自分の身を守るためでもあっただろうけど、引き止めてくれた貴舟に千鶴は感謝した。それと同時に、自分の考えのなさを自覚して恥かしさからさらに縮こまる。
ますます小さくなる千鶴に貴舟は困ったように眉を下げ、

「あー…、まぁ。そんなに気を落とすなって」

「とりあえず、顔上げて」言われるままに千鶴がそうっと顔を上げると、貴舟はちょっと笑んでみせる。控えめだけど、あたたかさがこもった笑み。最初にこの場所で目が合ったときは貴舟の纏う隙のない雰囲気に尻込みしていたが、実際接してみた貴舟は想像していたより優しい。千鶴はいつの間にか、貴舟に対して安心感を抱くようになっていた。
貴舟も千鶴の強張りがとけてきたのを見計らって、気を紛らわせるためか色々な話をしてくれた。
貴舟が普段は島原の置屋の用心棒をしていること。島原の太夫たちの身に纏う着物の見事な色柄や髪飾りについて。あるいは宴の席で起こったおもしろおかしな出来事や事件のことについて。
千鶴があまり口を開かない人なのかなと想像していたのに反し、貴舟の口からは様々な話が尽きることなくすらすらと出てきては、千鶴を楽しませた。お互い年頃も近いという理由もあったのだろう。話はすぐに盛り上がった。
そして、話が京と江戸の慣習の違いにさしかかったところで、ふいに廊下の奥から足音が近づいてきた。
盛り上がって勢いをましていた貴舟の口がじょじょにその勢いをなくし、完全に閉ざしたところで障子戸が開かれる。緊張から生唾を飲み込む千鶴が見上げた先にあったのは、障子戸の前に立ちふさがるようにして立った土方の姿だった。後ろには、見張り役の斎藤の姿も見える。
副長じきじきに足を向けたということは、処遇が決まったということだろう。
唇を引き結び、ぎゅっと目をつぶってうつむく千鶴に最初に注いだのは、重々しい溜息だった。
次いでぶっきらぼうな声音で、

「雪村千鶴、お前の身柄は新選組預かりとする」

土方の言葉の余韻をしっかりと噛み締めた後、千鶴はがばりと顔を上げた。
新選組預かり…ってことは、じゃあ…。
見るからに明るくなっただろう自分の顔を見て、土方はますます渋面になりながら続けた。

「ってことで、今後に関してまた話し合う必要がある。…お前も広間に来い」

踵を返す土方の姿をまだ飲み込めなくて呆然と見送る千鶴の背中を、誰かが押した。
振り返った先にいたのは、貴舟だ。
まだ「良かった」とも言える状況ではないからだろう。貴舟は特に何も言わなかったが、背中に添えられた手は千鶴を勇気づけた。
…そうだ。まだ私は死ねない。
生きてきっと父様を見つけ出すんだ。
ぐっと顔を上げ、千鶴は立ち上がった。
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