序 39


障子戸が閉まる音。
遠ざかる足音を聞きながら、貴舟は息を吐き出した。
…果たしてこれでよかったんだろうか。
一つ決心がつき、憑き物が落ちたようにすっきりとした様子だった千鶴とは裏腹に、見送った貴舟の胸中は浮かない気持ちで満たされていた。
いなくなった途端、罪悪感や後悔といった感情が表情ににじむ。
結果引き止めた自分が今更何をとも思うが、あのときそのまま寝たふりをして行かせてやっていたほうがよかったのではないかと今になって貴舟は思い始めていた。
なにせあの時は思いもしなかったのだ。
まさか千鶴の探す親父さんが、新選組に協力していた蘭方医だったとは。
思索にふける貴舟の頭は、今までの記憶からどんどん情報を拾い上げ組み立てていく。いなくなった蘭方医とその娘、新選組、そして羅刹。
…嫌な符号だと感じるのは自分だけだろうか。しかも千鶴の親父さんが京に来た時期というのは、勘介たちが噂していた「壬生通りの鬼」の噂が出始めた頃とちょうど一致する。十中八九、千鶴の親父さんと羅刹とやらのことは何がしかの関係があるとみて間違いないだろう。蘭方医は人体に詳しい。あの化物の研究か何かに千鶴の親父さんは関わっていたのではないか、と貴舟は考えた。
だとすれば千鶴の身は思っていた以上に危険にさらされていることになる。羅刹は新選組、ひいては幕府にとって公に知られては非常にまずいことだとみた。そしてそれを深く知っている人間が今現在も行方不明。新選組としては早く身柄を押さえたいところだろう。そこにやってきたのが、千鶴だ。もし敵方に千鶴の父親がついたとき、新選組にとって千鶴はいなくなった蘭方医への人質としての価値がある。また、逆もしかりだ。それゆえの「新選組預かり」という処分だったのだろう。早い話が人質としての価値がある限り、新選組は千鶴を保護する。そういう方針だろう。
新選組は堅牢な檻であると共に、外敵から千鶴を守る防壁になるというわけだ。ある意味ではこれで良かったのかもしれない。
しかし、血に飢え人を容赦なく滅多刺しにする化物のことに自分の父親が関わっていたと千鶴が知ったときのことを想像すると、貴舟は複雑だった。
千鶴の言葉の端々からは、父親を敬愛する気持ちが強く伝わってきた。蘭方医として人の命を救う父親を、尊敬しているのだろう。だが、そんな父親が自発的にせよ無理やりにせよ、人の血を求め残忍に人の命を奪う化物の研究に関わっていたと知ったら、どうだろうか。後者でさえ衝撃的だというのに、もし前者だった場合の千鶴が受ける精神的衝撃は、計り知れない。
今はまだめまぐるしく変わっていく状況に頭がいっぱいでそこまで考えるに至っていない様子だが、落ち着いてきた千鶴がこのことに気がつくのは時間の問題だろう。そのとき千鶴は一体どうするのか、それは貴舟にも分からない。でも、きっと動揺し悲しむだろうことは想像がついた。また、余計なことを教えて新選組に目をつけられたくない、という打算もあった。だから遅かれ早かれ気づいてしまうことだと分かっていても、とっさに口を閉ざし、あたりさわりのない話にすりかえた。
回想と整理を終え、貴舟は深々と溜息をつき、ごろりと畳の上にあおむけになる。再びの自問。果たしてこれでよかったのか。
そうしていると遠くから冷たく突き放すような良玄の声が今にも聞こえてきそうだった。
偽善だ。自分自身のことで精一杯なくせに、他人の心配とはご大層なことだ。
事実だった。
千鶴の問題は千鶴自身の問題であり、その問題を貴舟が解決しようとするのは、貴舟が解決するべき問題と重なったときだけ。それ以上でも、それ以下であってはならない。あいつは知り合いだから、そいつが苦しんでいるからとか、そんな行動し出した結果にろくなことはない。実際、困っている様子だった勘介たちの手助けをしようと手を出した結果がこれだ。
お前の悪い癖だと、何度言われたか分からない良玄の言葉が頭の中で響く。ひどい耳鳴りを聞いたというように眉根を寄せてしまうのは、事実耳に痛いからだ。
自覚はしているつもりだった。首をつっこむべきことではないことも理解している。
しかし、それでもどうしようもなく千鶴のことが気にかかってしまうのは、たぶん自分に重なるところがあるからだ。

「江戸から京まで、はるばる父親探し、か」

昔自分が辿った同じ道のり。そして、現在の自分とかさなる状況。
ただ違うのは、同じ道程でもその動機がまったくの正反対であることと、現状として千鶴は探すという行動を起こし、貴舟は行動を起こしていないという点か。
横になったまま肺腑の空気を全て吐き出すようにふーっと息を吐き出す。そうしなければ腹のあたりにたまった暗く重いもやもやに押しつぶされそうな勢いだった。それはこれまで少しずつ折り重なって出来た澱が一気にあふれ出したかのような感覚で、実際そうだったのだろうなと思う。
うすうす感づいてはいた。そう難しいことではない。引き伸ばしに伸ばしてきた問題。それが今までしがみついていた場所から離れたことによって、否が応にでも再確認させられた。ただそれだけのことだ。
自分の目的は、決まっている。そのためにやらなければいけないことも…分かっている。しかし、それでも次善の策にぶらさがり、自分の本当の望みに嘘をつき続けている自分に、なんともいえない腹立つような気持ちをずっと引き摺っていたのだ。

『お前は知らなくていい』

「…結局、あいつに甘えてるんだよな」

守ると大口を叩いておきながらこのざまだ。自分の浅さに、自嘲の笑みを浮かべた。上半身を起こすと、障子越しの日差しが顔にかかる。
本当に、偽善だ。その真実が千鶴にとって知らなくていいことだと自分が判断するべきようなことではないというのに。貴舟はまぶしさにうつむき加減になって目を細めながら、でも、とふと思う。おかげで良玄の気持ちが少し分かったような気がした。重大な事実を本人に告げるというのは、すごく迷うし勇気がいる。傷つく姿が見たくなくて、ついつい口を閉ざしてしまう。さっきの貴舟のように。でもそれじゃ駄目なことを貴舟は知っている。隠されたほうは隠されたほうで、それはそれで辛いのだ。ざらりとした罪悪感が貴舟の胸を襲う。しかし、同時に分かったこともあった。その事実を告げずにずっと背負ったまま本人のそばにいるのは、…きっと何十倍も辛い。
貴舟は顔をまっすぐにあげる。
だからこそ。

「私はもっと知らなければいけないのかもしれない」

たとえ、その決断が今までの関係を崩すようなものであったとしても。
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