序 40
「だから襟巻きをしていけといっただろうが」
しんしんと寒い日である。
外気の冷たさにも負けない視線が貴舟の頭の上に降り注がれた。
鼻水をすすりあげながら、貴舟は唇をとがらせる。外から帰るなり青白い顔をしているのを良玄に見咎められてしまったのが不運だった。玄関先で捕まえるなり、良玄はさっそくお小言を浴びせかけてきた。あきれ果てたものの言い方には、明らかに自分のことを馬鹿にするような響きがあり、思わず反発していた。
「…だって平気だと思ったんだ」
ぼそりと呟いたつもりだった声は地獄耳の男にはしっかりと届いてしまっていたらしい。片方の柳眉が吊り上がる。
こちらに踵を返しかけていた身体が反転し、問答無用に首根っこを掴まれた。そして身体をかがめたことにより、自分の眼前まで降りてきた口がぴしゃりと言い放つ。
「言い訳をするな」
元が美しいだけに怒ったときの顔はなまじ迫力があって恐ろしい。とがらせていた唇も気がつけばひっこんでいた。
「いいか。ここは置屋だ。たくさんの妓女や舞妓が暮らしている。そこにお前が風邪を持ち込んであっという間に広まってみろ。俺の商売はあがったりになる上に、太夫達にも迷惑をかけることになるんだ」
「ここで暮らしていく以上は、そこのところを今後よく肝に銘じておけ。守れなければここからたたき出す」念押しの言葉とともに襟首をつかんでいた手が離れ、貴舟は解放された。
唇を真一文字に引き結ぶ貴舟を一瞥し、良玄はさっさと見世の奥へ引っ込む。一筋の乱れもない背中を見送りながら、貴舟は着物の裾をぎゅっと握り締めた。
理屈は分かる。でも、つっけんどんな良玄の言葉を素直に受け入れることができなかった。
…そんなに怒らなくてもいいじゃないか。
まるで飲み込めない大きな塊が喉元にひっかかったようだった。ひどく息苦しく、腹の中が砂袋でも詰められたかのように重たく感じられる。
たしかに良玄からすれば自分は居候の身で、お荷物以外の何者でもないだろう。でも、だからってあの言い方はあんまりじゃないだろうか。
解放されたものの、貴舟は釈然としない想いからそこから身動きできずにいた。
ここにも自分の居場所はないのか。
ぽつりと立ちすくむ背中。そこへ。
「おーおー。怖ぇなぁ。まるで母ちゃんみたいだ」
自分の重く暗い気持ちとは裏腹な、からりと明るい声がぶつかった。
貴舟が声に反応して振り返ろうとするのと、大きな手が貴舟の頭に乗っかるのとはほぼ同時だった。ぶあつくかさついた手にぐっと重みが加わり、特徴的などんぐり目が横から貴舟の顔をのぞきこんだ。
「師匠…」
きっと暗い顔をしていたんだろう。師匠は自分を元気付けるように、さっきの言葉以上におどけた笑顔を浮かべてみせた。なだめるように大きな手がぽんぽんと跳ねるような調子で頭をなでてくる。
「気にするな。あいつも本気で言っちゃいねぇよ」
どうだろうか。反発心がまたむくりと首をもたげる。
少なくともあの怒り様は本気だった。しかもあの男はやると言ったらやる男だ。
もの言いたげな自分の視線に気がついたのか師匠は困ったようにちょっと苦笑して、
「ま、でも心配してたのは本当だ」
と耳打ちしてきた。予想だにしなかった言葉を聞き、貴舟は一瞬言葉を失った。
良玄が、心配?
しかし、さっきの態度からはおよそ信じられない話だ。貴舟は反論しようと口を開きかけ、
「誰が母ちゃんみたいだ」
奥のほうから飛んできた鋭い声と足音に言葉をさえぎられた。
弾かれたように正面を向くと、奥に引っ込んだはずの良玄がまたこちらへ戻ってくるところだった。さっきの師匠の声は良玄にもしっかり聞こえていたようだ。不愉快そうな表情で、足音が荒い。
つかつかと貴舟たちに近寄ってくるなり、良玄は師匠をじろりと睨め上げた。しかし当の本人は暖簾に腕押しといった感じで笑みを崩さない。むしろにやにや笑いが深まっているように感じるのは自分の気のせいだろうか。
「貴舟」
なんてのん気に傍観していたものだから、ふいに良玄の視線が自分に向けられていることに気がついたときには、先ほどのこともあって思いきり身構えてしまった。
びくりと身をすくませる貴舟を尻目に、良玄はおもむろに袂から何かを取り出す。そして、それを貴舟の手に握らせた。硬くてあたたかい。温石だ。布にくるまれた小さな塊は冷え切った貴舟の掌にほわりとあたたかい熱を伝えてくる。
「今度からはちゃんと暖かくして出かけるようにしろ」
見上げて見た良玄の顔は相変わらず不機嫌そうなものだったが、不思議と先程より恐いと感じることはなかった。
「早く上がれ」
奥に上がるように言って、良玄は貴舟たちに踵を返す。
貴舟は狐につままれたような心持ちでしばらくその背中をぼんやりと見送っていたが、はっとして温石に目を落とし、次いで師匠に視線をやった。
「ほら、やっぱり母ちゃんじゃねぇか」
見上げた師匠は、可笑しくてたまらないといった様子でニタニタと笑っていた。例えるならそれは、口では好きではないと言いながらもしっかりとその目は恋しい人を追う悪友の様を、なまぬるい笑顔で見守るこれまた悪友の表情といった感じだ。
「素直じゃねぇ上に分かりにくいやつ」
師匠はくっくっくと喉を鳴らして笑い「じゃ、母ちゃんにまた怒られる前に俺らも上がるか」とおどけるように言って、貴舟に手を伸ばした。差し出された手に貴舟は手を重ね、ふと思いついて口を開いた。
「良玄が"お母さん"なら、師匠が"お父さん"?」
ちょっとした思い付きだった。
だが、その言葉は師匠にとっては衝撃的なものだったようだ。貴舟の言葉を聞いた途端、師匠の顔は苦虫を百匹以上一気に噛み潰したような渋いものになった。
「よしてくれ。あんなおっかないのがカミさんだとか」
「美人でもお断りだ」にがりきった顔でそう言って師匠が手をふるのと、奥の部屋の襖が勢いよく開くのはほぼ同時だった。柱に襖の端が当たり、破裂音に近い音が廊下に響く。弾かれたように顔を上げた貴舟たちが見やった先には、襖を両側に押し開いた状態で師匠を鬼の形相で睨みつける良玄の姿があった。戦慄が二人の背筋を駆け上る。
「てめぇ、また勝手に見世の金を無心したな!!」
「げ、やば」
良玄が片手に持った算盤(そろばん)の角がひらめくのを見るや否や、師匠は貴舟の手を放し玄関へ向かって一目散に逃げ出した。上がり框(かまち)をすっ飛ばして三和土(たたき)に飛び降りる。しかしそう簡単に逃がしてくれるほど良玄は甘くない。
「この駄目用心棒が!!!」
廊下を走りながら算盤を師匠目がけて投げ飛ばす。算盤は吸い込まれるように師匠の頭へ飛んでいき、見事命中した。しかも角から。
「あだっっ!!!???」
がつりと音が鳴ったことからしてかなり痛かったのだろう。頭を抱えて師匠はその場にうずくまった。その広い背中にゆらりと影が落ちる。
ぎぎぎと油を差し忘れたカラクリみたいに振りかえる師匠の目に映ったのは、果たしてどんな凄まじい形相だったのか。
幸いというべきか、良玄に背を向けられた貴舟にはうかがい知ることはできなかったが、凍りついた師匠の表情からして相当のものなことは想像できた。音と声を聞きつけた家人などが数人階段や部屋から顔を覗かせたが、その光景を目にするや否や「ああ、いつものことか」とめいめい引き上げていく。
「覚悟はいいな」
「ひぇえええー!!!助けてくれ、弟子ちゃん!!!」
良玄に後ろの襟首を掴まれて外へ引きずられながら師匠が情けない声を出す。どうやら仕置きは外の蔵で行われるようだ。恐い。かなり恐い。触らぬ神に祟りなしである。
「師匠、自業自得なので往生してください」
「え」
「貴舟ー。生菓子分けてもろたからあんたもおあがりー」
化粧を落とした姐さん方が数人、階段の上から手招きする。
「今行きますー」
「裏切り者おぉ!!!!」
惨状に貴舟が踵を返すのと玄関扉が閉まるのは同時だった。
すみません、師匠。時には心を鬼にして斬り捨てることも必要だと思うのです。外で何か凄まじい音がしたような気もするけれど、気のせい気のせい。
しんと静かになった中、自分の階段を上がる音だけが響く。賑やかさが消え、また寂しい冷たさが戻ってきたが、貴舟は先ほどよりは冷たいと感じなかった。
貴舟は掌にあるあたたかさを、胸の中央でむずかゆい喜びとともに握り締める。
―ずっとこんな関係が続けばいいのに。
そのときは、そう思っていた。
序 40
「だから襟巻きをしていけといっただろうが」
しんしんと寒い日である。
外気の冷たさにも負けない視線が貴舟の頭の上に降り注がれた。
鼻水をすすりあげながら、貴舟は唇をとがらせる。外から帰るなり青白い顔をしているのを良玄に見咎められてしまったのが不運だった。玄関先で捕まえるなり、良玄はさっそくお小言を浴びせかけてきた。あきれ果てたものの言い方には、明らかに自分のことを馬鹿にするような響きがあり、思わず反発していた。
「…だって平気だと思ったんだ」
ぼそりと呟いたつもりだった声は地獄耳の男にはしっかりと届いてしまっていたらしい。片方の柳眉が吊り上がる。
こちらに踵を返しかけていた身体が反転し、問答無用に首根っこを掴まれた。そして身体をかがめたことにより、自分の眼前まで降りてきた口がぴしゃりと言い放つ。
「言い訳をするな」
元が美しいだけに怒ったときの顔はなまじ迫力があって恐ろしい。とがらせていた唇も気がつけばひっこんでいた。
「いいか。ここは置屋だ。たくさんの妓女や舞妓が暮らしている。そこにお前が風邪を持ち込んであっという間に広まってみろ。俺の商売はあがったりになる上に、太夫達にも迷惑をかけることになるんだ」
「ここで暮らしていく以上は、そこのところを今後よく肝に銘じておけ。守れなければここからたたき出す」念押しの言葉とともに襟首をつかんでいた手が離れ、貴舟は解放された。
唇を真一文字に引き結ぶ貴舟を一瞥し、良玄はさっさと見世の奥へ引っ込む。一筋の乱れもない背中を見送りながら、貴舟は着物の裾をぎゅっと握り締めた。
理屈は分かる。でも、つっけんどんな良玄の言葉を素直に受け入れることができなかった。
…そんなに怒らなくてもいいじゃないか。
まるで飲み込めない大きな塊が喉元にひっかかったようだった。ひどく息苦しく、腹の中が砂袋でも詰められたかのように重たく感じられる。
たしかに良玄からすれば自分は居候の身で、お荷物以外の何者でもないだろう。でも、だからってあの言い方はあんまりじゃないだろうか。
解放されたものの、貴舟は釈然としない想いからそこから身動きできずにいた。
ここにも自分の居場所はないのか。
ぽつりと立ちすくむ背中。そこへ。
「おーおー。怖ぇなぁ。まるで母ちゃんみたいだ」
自分の重く暗い気持ちとは裏腹な、からりと明るい声がぶつかった。
貴舟が声に反応して振り返ろうとするのと、大きな手が貴舟の頭に乗っかるのとはほぼ同時だった。ぶあつくかさついた手にぐっと重みが加わり、特徴的などんぐり目が横から貴舟の顔をのぞきこんだ。
「師匠…」
きっと暗い顔をしていたんだろう。師匠は自分を元気付けるように、さっきの言葉以上におどけた笑顔を浮かべてみせた。なだめるように大きな手がぽんぽんと跳ねるような調子で頭をなでてくる。
「気にするな。あいつも本気で言っちゃいねぇよ」
どうだろうか。反発心がまたむくりと首をもたげる。
少なくともあの怒り様は本気だった。しかもあの男はやると言ったらやる男だ。
もの言いたげな自分の視線に気がついたのか師匠は困ったようにちょっと苦笑して、
「ま、でも心配してたのは本当だ」
と耳打ちしてきた。予想だにしなかった言葉を聞き、貴舟は一瞬言葉を失った。
良玄が、心配?
しかし、さっきの態度からはおよそ信じられない話だ。貴舟は反論しようと口を開きかけ、
「誰が母ちゃんみたいだ」
奥のほうから飛んできた鋭い声と足音に言葉をさえぎられた。
弾かれたように正面を向くと、奥に引っ込んだはずの良玄がまたこちらへ戻ってくるところだった。さっきの師匠の声は良玄にもしっかり聞こえていたようだ。不愉快そうな表情で、足音が荒い。
つかつかと貴舟たちに近寄ってくるなり、良玄は師匠をじろりと睨め上げた。しかし当の本人は暖簾に腕押しといった感じで笑みを崩さない。むしろにやにや笑いが深まっているように感じるのは自分の気のせいだろうか。
「貴舟」
なんてのん気に傍観していたものだから、ふいに良玄の視線が自分に向けられていることに気がついたときには、先ほどのこともあって思いきり身構えてしまった。
びくりと身をすくませる貴舟を尻目に、良玄はおもむろに袂から何かを取り出す。そして、それを貴舟の手に握らせた。硬くてあたたかい。温石だ。布にくるまれた小さな塊は冷え切った貴舟の掌にほわりとあたたかい熱を伝えてくる。
「今度からはちゃんと暖かくして出かけるようにしろ」
見上げて見た良玄の顔は相変わらず不機嫌そうなものだったが、不思議と先程より恐いと感じることはなかった。
「早く上がれ」
奥に上がるように言って、良玄は貴舟たちに踵を返す。
貴舟は狐につままれたような心持ちでしばらくその背中をぼんやりと見送っていたが、はっとして温石に目を落とし、次いで師匠に視線をやった。
「ほら、やっぱり母ちゃんじゃねぇか」
見上げた師匠は、可笑しくてたまらないといった様子でニタニタと笑っていた。例えるならそれは、口では好きではないと言いながらもしっかりとその目は恋しい人を追う悪友の様を、なまぬるい笑顔で見守るこれまた悪友の表情といった感じだ。
「素直じゃねぇ上に分かりにくいやつ」
師匠はくっくっくと喉を鳴らして笑い「じゃ、母ちゃんにまた怒られる前に俺らも上がるか」とおどけるように言って、貴舟に手を伸ばした。差し出された手に貴舟は手を重ね、ふと思いついて口を開いた。
「良玄が"お母さん"なら、師匠が"お父さん"?」
ちょっとした思い付きだった。
だが、その言葉は師匠にとっては衝撃的なものだったようだ。貴舟の言葉を聞いた途端、師匠の顔は苦虫を百匹以上一気に噛み潰したような渋いものになった。
「よしてくれ。あんなおっかないのがカミさんだとか」
「美人でもお断りだ」にがりきった顔でそう言って師匠が手をふるのと、奥の部屋の襖が勢いよく開くのはほぼ同時だった。柱に襖の端が当たり、破裂音に近い音が廊下に響く。弾かれたように顔を上げた貴舟たちが見やった先には、襖を両側に押し開いた状態で師匠を鬼の形相で睨みつける良玄の姿があった。戦慄が二人の背筋を駆け上る。
「てめぇ、また勝手に見世の金を無心したな!!」
「げ、やば」
良玄が片手に持った算盤(そろばん)の角がひらめくのを見るや否や、師匠は貴舟の手を放し玄関へ向かって一目散に逃げ出した。上がり框(かまち)をすっ飛ばして三和土(たたき)に飛び降りる。しかしそう簡単に逃がしてくれるほど良玄は甘くない。
「この駄目用心棒が!!!」
廊下を走りながら算盤を師匠目がけて投げ飛ばす。算盤は吸い込まれるように師匠の頭へ飛んでいき、見事命中した。しかも角から。
「あだっっ!!!???」
がつりと音が鳴ったことからしてかなり痛かったのだろう。頭を抱えて師匠はその場にうずくまった。その広い背中にゆらりと影が落ちる。
ぎぎぎと油を差し忘れたカラクリみたいに振りかえる師匠の目に映ったのは、果たしてどんな凄まじい形相だったのか。
幸いというべきか、良玄に背を向けられた貴舟にはうかがい知ることはできなかったが、凍りついた師匠の表情からして相当のものなことは想像できた。音と声を聞きつけた家人などが数人階段や部屋から顔を覗かせたが、その光景を目にするや否や「ああ、いつものことか」とめいめい引き上げていく。
「覚悟はいいな」
「ひぇえええー!!!助けてくれ、弟子ちゃん!!!」
良玄に後ろの襟首を掴まれて外へ引きずられながら師匠が情けない声を出す。どうやら仕置きは外の蔵で行われるようだ。恐い。かなり恐い。触らぬ神に祟りなしである。
「師匠、自業自得なので往生してください」
「え」
「貴舟ー。生菓子分けてもろたからあんたもおあがりー」
化粧を落とした姐さん方が数人、階段の上から手招きする。
「今行きますー」
「裏切り者おぉ!!!!」
惨状に貴舟が踵を返すのと玄関扉が閉まるのは同時だった。
すみません、師匠。時には心を鬼にして斬り捨てることも必要だと思うのです。外で何か凄まじい音がしたような気もするけれど、気のせい気のせい。
しんと静かになった中、自分の階段を上がる音だけが響く。賑やかさが消え、また寂しい冷たさが戻ってきたが、貴舟は先ほどよりは冷たいと感じなかった。
貴舟は掌にあるあたたかさを、胸の中央でむずかゆい喜びとともに握り締める。
―ずっとこんな関係が続けばいいのに。
そのときは、そう思っていた。