序 41



和紙の白地に黒々した墨痕がつく。
かじかみ始めた指先に、握り締めている温石がぬるくなってきていることにようやく気がついた。
良玄は筆をすずりに置き、くるんだ布から中の石を取り出して火箸で火鉢の灰の中に沈める。ついでに炭を足しひとつ息を吐き出した。吐き出した息は端から白く凍り、また端から透明になって消えていく。迫る年の瀬に、寒さもますます増してきているようだった。日暮れともなればしびれるような寒さが暗さとともにやってきた。それと同時に一気にずっしりとした疲労が両肩にかかってくるようだった。
―少し根を詰めすぎたかもしれない。
良玄は書き物のことは一旦頭の隅に置いておいて、火箸でざくざくと灰になりかけた炭を崩しながら、そぞろな気分のままとりとめもないことを考え始めた。例えばそろそろ舞妓たちの年始の挨拶回りの準備をし始めなければいけないなだとか、喉が渇いたな、とか。

「おい」

ぼんやりした気分のまま声をかけ、振り返った先が妙にわびしいと感じた。そこで初めて気がついた。
そういえば、いないのだった。
ぽっかりと空いた部屋の隅を呆けたように見つめる自分に気がついた瞬間、羞恥にも似たばつの悪さがこみ上げてくる。舌打ちをして顔をしかめていると、

「良玄さん」

入口の障子戸に人影が映った。遣手婆の久松の声だ。急な来客か今さっき考えていた年始の件か。

「何だ」
「ご来客どす」

前者であるようだ。この忙しいときに。内心再び舌打ちをする。
しかし、断るにしてもまず来訪者の名前と用件を聞かなければ。話はそれからだ。片膝を立てて良玄がとりあえずその場から立ち上がろうとするのと、久松が告げるのとは同時だった。

「伊勢谷様がお見えにならはったんですが、いかがいたしましょうか?」

良玄はぴたりと動きを止めた。
―嫌なときに限って面倒な客が来る。

「通せ」









「いやぁ、たまらん寒さですなぁ」

久松の出した茶をすすり、伊勢谷はそう言ってほわりと白い息を吐く。
外はよほど寒かったらしい。その鼻頭は赤く染まり、温かいお茶で一息ついた伊勢谷は、まるで風呂にでも入っているような心地であるかのようだった。

「それで、今日はどのようなご用件で?」

人心地ついた様子の伊勢谷を見て、良玄はよそ行きの笑顔を顔に貼り付けながらさっそく切り出す。正直なところ、茶を飲み終わったらさっさと帰って欲しかった。

「まぁまぁ。そんなつんけんしませんと」

伊勢谷は良玄の慇懃無礼な態度をさらりとかわし、人の好い笑みを浮かべる。人好きのする恵比須顔にたいていの人間はほだされてしまうだろうが、見てくれどおりの男ではないことを良玄は知っていた。
伊勢谷重親。
今夏の七卿落ちのきっかけを作った中川宮朝彦親王の家臣の一人であり、朝廷と幕府が良玄につけた橋渡し役兼お目付け役だ。様々な情報を知っているということで今のところまだ重用されているが、その一方で勤王派とも繋がりがある良玄は幕府からすれば目の上のたんこぶにも等しい。両方に通じている良玄を監視・牽制するにあたって送られてきた人物であるからして、一筋縄でいくような人間であるはずがないのだ。
幕府側の情報を明かさずに少しでも有利なように情報を引き出したい伊勢谷と、より幕府の情報も引き出した上で情報を高く売りつけたい自分とで、お互いに腹を探り合うこともしばしばだった。そうやってぎりぎりの均衡の中でしのぎを削りあってきた経験があるからはっきりと言える。
伊勢谷は相当な狸親父である、と。

「ところで今日はご自慢の懐刀の姿が無いようですけど?」

だからこちらに弱みがあると見ればすぐにでも食らいついてくる。
しれっとした顔で聞いてきた伊勢谷に、良玄は心中でクソ狸め、とののしった。
おそらく調べた上できているのだろう。どこから漏れたのか、どの程度まで知っているのかは分からないが、少なくとも伊勢谷は貴舟がしばらくの間見世に戻ってきていないことを知っている。直裁にこそ言わないが、そういう口ぶりだった。明らかに貴舟の留守を狙っての訪問だった。その証拠に、部屋へ伊勢谷を引き入れる際に見えた玄関口には、めったに見ない伊勢谷の部下の姿があった。腰には剣を佩いていて、目が合うと鯉口を親指で少し押し上げて見せた。
分かりやすい牽制だ。良玄はうっすらと冷たい笑みを唇にのせる。

「俺の首を持ってこいとでも言われましたか?」
「まさか!」

はははと明るく笑って伊勢谷は顔の前で手を振る。

「今井さんとは今後ともよろしくやっていきたいと思うてますよって。そんな怖い顔せんといてくださいな」

「今日はたまたま近くに寄ったんで、せっかくやし世間話でもと思たんですわ」と伊勢谷は言って茶を口に含む。果てしなく胡散臭い笑顔だった。
いけしゃあしゃあとよく言う。たまたまなわけがないだろうに。余裕の面持ちは崩さずに良玄は内心毒づいた。この男にかぎってただ茶を飲みに来ただけとはありえない。何か別の目的があるはずだ。とはいえ、その目的がまったく読めなかった。
一体何を言われるのか。身構える良玄の一方で、伊勢谷はくつろいだ様子でうまそうに茶を飲み、

「…そういえば、嬢ちゃんがここへ来たのもこれぐらいの時期でしたなぁ」

ぽつりと一言。湯飲みから立ち上る湯気を見つめる瞳には、回顧するような色があった。良玄はいささか拍子抜けしてそれを見つめると同時に、自分の記憶を振り返った。
伊勢谷との付き合いはそれなりに長い。それが始まったのは貴舟がここへ来る少し前にさかのぼる。したがって伊勢谷は椿屋に来たばかりの貴舟のこともよく知っていた。伊勢谷は子供好きらしく、見世に足を運んだときは決まって貴舟のことを構っていた。実子がいないという話だから、余計に可愛かったのだろう。伊勢谷のしみじみとした口調には、娘の成長を喜ぶと同時に寂しく感じている親にも似た感慨がこめられているように感じた。これには良玄も毒気を抜かれ、「ええ」と相槌をうった。

「あれからもう6年かぁ。嬢ちゃん、いくつにならはったんで?」
「来年で20になります」
「ああ、ええ年頃ですな。すっかり別嬪になったし、剣客としての腕もええ。ほんま、うちに譲って欲しいくらいですわ」
「やりませんよ」

笑みを深くしてぴしゃりと伊勢谷の言葉尻を切る。
嫌がる様子の良玄に、伊勢谷は目を細めてうっすらと笑ったようだった。満足そうな顔がさらに苛立ちを掻きたてる。クソじじいめ。
良玄もただの嫌がらせだと分かったが、それでもさらりと流すことができず、まんまと伊勢谷の思惑にはまったことが悔しくて仕方が無かった。密かにほぞを噛んだ良玄に対し、ははと伊勢谷は笑って見せて「そら残念」と言う。

「わりと本気でしたんやけどなぁ」

なお悪い。
内心苦りきった顔をする良玄から視線をそらし、伊勢谷はついと障子戸のほうを見やった。良玄もその視線をたどる。

「最近は何かと物騒ですから」

独白するように伊勢谷が呟く。
正確には障子戸のさらに向こう、門口のほうを見ているのだろう。門口には伊勢谷が待たせた部下がいる。おそらくは、護衛の。
「今井さんは聞かはりましたか?」いつの間にか視線を戻した伊勢谷が聞いてくる。良玄はその顔を目の端で一瞥する。伊勢谷の顔からは、先ほどの浮ついた感じが抜け落ちていた。

「会津の要人が殺されたて」

政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮したが、完全になくなったわけではない。表立った動きが見えなくなっただけで、今もなお尊皇攘夷派の反対派に対する暗殺行為は密かに続いていた。

「まったく、生きにくい世の中ですわ」

中川宮朝彦親王の家臣であるこの男の名も、おそらく勤王派の天誅名簿の中に綴られているのだろう。

「ご愁傷様です」
「ふん、心にもないことを」

このときばかりは伊勢谷も本音が漏れたようだった。

「誰かさんのおかげで一遍尊皇攘夷派に囲まれるてゆう、ひどい目にあいましたわ」
「それはひどいですね。私も一度浪人に囲まれて一斉に斬りかかられるということがありましたので、心中お察しします」

後で浪人どもに吐かせたことだが、裏で伊勢谷が手ぐすね引いていた。押し借りや不逞行為を行う、食い詰めた浪人どもの一掃を兼ねた意趣返しだったらしい。まったく油断も隙も無いじじいである。
額に浮き出しそうになる青筋をおさえようと白々しいほどの笑みを振りまくと、再び恵比須顔を貼り付けた伊勢谷が言う。

「ほんでも、そちらには腕の立つ用心棒がおりますから、心強いことでしょう。教えたもんの腕も、相当のもんでしたからなぁ」

ちらりと含みのある視線が自分に投げかけられる。一瞬、胃の辺りがひやりとした。

「出て行ったきりやけど、今頃どないしてんのでっしゃろなぁ」

口調は世間話をする調子だが、伊勢谷の目はトカゲのように目ざとく自分の反応を見ている。
探る視線に、やっと伊勢谷の目的が分かった気がした。良玄は詰めた息を吐き出し、言う。

「…さぁ」

検討がつかないとも興味がないともどちらにも取れるような、そんな口ぶり。嘘は言っていなかった。
伊勢谷は一瞬片眉を上げたが、それ以上は追及してこなかった。
ただ帰り際にこちらを振り返って、

「冷たいもんどすな」

一言そう言って帰っていった。











見世の外へ出ると追いすがるように部下が後をついてくる。

「…伊勢谷さん、ええんですか?」
「ええ。業腹やけど、あれはあれで使える男やからな」

いかにも不満そうな顔の部下を伊勢谷はなだめる。若くてそれなりにいい腕をしているが、やや潔癖なところがこの若者の難点だった。しばらくまだ納得のいかない顔をしていたが、伊勢谷がそれ以上何も言わないのを見ると黙って横に付き従った。
じゃりじゃりと二人分の砂利を踏みしめる音が暗闇に響く。
寒さのせいかそれとも陰気くさい暗さのせいか、通りを行く人の数はまばらだった。そもそも辻斬りの辻斬りやら過激派やらが闊歩しているような時世であるからして、一人では容易に夜に出歩くなんてことができないのだろう。昔は夜鳴きそばなぞ食べに同僚とよく出かけたものだが、京もめっきり変わってしまった。
己が持つ提灯の灯りが地面に投げかけるぼうやりとした光を眺めながら、伊勢谷は心中ひとりごちた。
通りにはびこる先の見えない暗闇が己の行く先を示唆しているようで、どうにも辛気臭い気持ちになってしまう。暗さを取り払うためになにか話でもするかと思い立ち、部下に声をかけようとして、

「おい」

振り返って初めてその姿がないことに気がついた。そういえば、途中から足音がなかった。考えにふけるあまり、気がつかなかったらしい。
弾かれたように通りの生垣に背をつけ、伊勢谷はほぞを噛んだ。
灯りをかざしてみるが、まわりに人気は全く無い。ひたひたと恐怖が背筋を這い上がってくるようだった。
どこだ。どこにいる。
自分の浅い息だけが静寂に響く。
―と、

「いやぁ、まいったよなぁ」

左方向、自分が来た方の奥からそんなからりとした声が響いてきた。伊勢谷は驚いて灯りをかざす。提灯のぼうやりとした灯りの中に、闇の中からにじみ出るようにして男が進み出てきた。がっしりとした体格の長身の男だ。黒足袋の足が覗き、ついでこれまた地味な色の着物をまとった胴が現れる。最後に現れた男の顔を見て、伊勢谷は自嘲ともとれる苦い笑みを浮かべた。
しくじった。

「千種さん」

見知った顔は、昔と変わらぬ笑顔を浮かべる。ただ人懐っこい笑顔は、この場にはひどく場違いに感じられた。蓬頭を掻きながら、男は困ったように眉尻を下げる。

「伊勢谷の旦那ぁ、ひどいぜ。俺もう大変だったんだからよ。野郎ばっかにモテモテでさ、片付けるのに苦労したぜ」

「お色気くのいちとか、そういうのなら大歓迎だったんだけどな」男はにししと笑う。どうやら女好きも変わっていないようだ。

「ほんなら別嬪さんつけたるさかい、閨で腹上死なんていうのはどうや?」
「なかなか魅力的なお誘いではあるな」

伊勢谷の言葉にやにさがりながら「けど」と男は続ける。

「俺、まだ死ねないんだわ」

やらねぇといけないことがあるからな。すっと火が消えるように男の目から温度が失せ、足が半歩伊勢谷のほうに詰められる。伊勢谷は脂汗がにじむ手を身体の影に隠れた刀へ伸ばした。

「だからさ」

死んでくれや。
男が言い終わるのと伊勢谷が動くのと、どちらが早かっただろう。否、判断をつける間もなかった。
耳元で風斬り音を聞いたのを最後に、伊勢谷の意識は途切れた。
ALICE+