序 42



目の覚めるような炸裂音が耳に響く。
踏み込みと、裂帛の気合。
風斬り音さえ聞こえてきそうなそれに、いつの間にか洗濯する手が止まっていたらしい。

「どうした?」

斎藤に声をかけられて初めて貴舟はそれに気がついた。

「……あ、いえ」

ぼんやりしていたことをこの生真面目そうな青年に咎められるかと思い、貴舟はなんでもないと言いかけたが、それよりも斎藤が原因に思い当たるほうが早かった。

「……道場か」

先ほどまで貴舟が向いていた方角へ顔を向け、ぽつりと漏らす。独白というよりも確認や合点がいったという響き。彼方からは、まだ板張りの床を踏む音や硬いものがぶつかり合う細かな音が聞こえてきていた。斎藤もまた凍てつくような風に横顔をさらしながら音に耳を傾け、貴舟と同じように道場内の情景を思い浮かべているようだった。
凪いだ湖面のように静かな瞳が一陣の風に吹かれたように揺らぎ、一瞬熱がこもったのが分かった。きっとさっきの自分もそんな感じだったのだろうなと貴舟は思う。
音を聞いて、思わず想像してしまったのだ。剣先を向かい合わせ相手と対峙したときの、あの張り詰めた空気と静かに高まっていくような気持ちを。斎藤もそんな感覚を想像しているのか、静謐だが張り詰めた雰囲気をたたずむ身に纏わせている。貴舟はこの取り付きにくい青年に初めて親近感を感じた気がした。
斎藤の首がめぐり、視線が戻ってくる。
双方の視線がじっと絡んだとき、

「なに二人で見つめ合ってるのさ」

思いもよらない声が割って入ってきた。
驚いて立ち上がって振り返ると、ちょうど建物の影から抜き身の刀を2本肩に担いだ稽古着姿の沖田が出てくるところだった。そこで初めてじゃりじゃりと砂利を踏みしめる足音を意識する。沖田は上背があるためその足音は重い。のに関わらず、まったく気配を感じ取ることが出来なかった。

「僕も混ぜてくれない?」

不意をつかれ呆気にとられて立ち尽くす貴舟たちに向かって歩み寄りながら、沖田は無邪気にも見える笑みを浮かべる。まるで遊びに混ぜてくれという童のような様子だが、手に持っているものが持っているものだ。笑顔との落差がより一層不穏感をかもし出している。よく見ると刃引きされた真剣であるようだが、先の件もあり物騒な想像をさせるには十分だった。
少し距離を空けて止まった沖田に対し、警戒するように斎藤が貴舟の前に出る。

「……総司、稽古はどうした」
「だって、つまらないんだもん」

斎藤の険しい声音に悪びれる様子もなく、平素の飄々とした様子で沖田は答える。

「それにさ、僕教えるの苦手だし。一君のほうがそういうの得意でしょ?だから僕が彼女の監視役代わってあげるから、一君が撃剣師範やってよ」
「総司」

突拍子もない沖田の発言に「何を馬鹿なことを」と斎藤がたしなめるように声を荒げるが、それさえもさえぎって「君もさ」と沖田は言う。

「ほとんど部屋に篭りっきりで、身体が鈍ってきてるんじゃない?」

斎藤の影になるように立つ貴舟の顔を、斎藤を回りこむようにして窺ってくる。髪の隙間から覗くのは、ネズミをいたぶる猫の目だ。穏やかとはいえない雰囲気に、自然と身体が硬くなった。

「……何が言いたいんですか」

沖田の腕が俊敏に動く。貴舟が問い終わるのと同時に返されたのは、刃のつぶされた切っ先だった。「っ総司!」と斎藤の焦った声が聞こえるが、切っ先が減速する様子はまったくない。貴舟は袈裟に斬りかかってこられるのをとっさに後ろに跳んで避け、剣の間合いから逃げる。そして距離を空けると同時に自分目がけて飛んできたものを掴んだ。
ずっしりと手に馴染む感触。眼前でにぶく銀光を返すのは、沖田が肩に担いでいた刃引きされた刀の一振りだ。

「まだあの時の決着、ついてないよね」

いびつな刃から視線を上げれば、催促するようにとんとんと刀の背で肩を叩く沖田がいる。交じり合った視線に、沖田の笑みが深まった。

「続き、しようよ」

貴舟は閉口した。
どうやら沖田は以前の決着の仕方に納得がいっていないようだった。それに良玄に自分の組を、ひいては大将を蔑ろにされたことに関しての怒りもあるのだろう。ほの暗く笑う沖田に貴舟はぐっと腹に力を込め、奥歯を噛み締めた。そうしなければ、凄まじい殺気に当てられそうだった。以前対峙したときの浮ついたような雰囲気は一切無い。一撃で仕留めるという気概さえ感じられ、沖田は本気で自分を"斬る"つもりだと分かった。刃を潰しているとはいえ、本気の一振りを受ければ骨の一本や二本は簡単に折れるだろう。打ち所が悪ければ、最悪死ぬこともある。
張り詰めた雰囲気に、何があってもいつでも動けるように重心を低くする。
じっと対峙していると、突然視界を背にさえぎられた。
斎藤だ。
斎藤はわずかに苛立った声音で沖田に再度噛んで言い含めるように警告する。

「総司、局内の私闘はご法度だ」

邪魔が入ったことに、沖田の眉が不快げに跳ね上げられる。しかし次の瞬間、一転して沖田の口元に笑みが浮かんだ。

「大げさだなぁ、軽い手合わせだよ」

一層穏やかな口調が、まるで嵐の前の静けさのように感じられる。そして貴舟のそんな感想はあながち間違いではなかったようだった。
「それに」水面の波紋が消えうせるように、静かに沖田の口元から笑みが消える。

「僕が聞いてるのは彼女だ。一君は口を出さないでくれるかな」

次に沖田が発した言葉には、有無を言わせぬ圧力があった。

「おおかた土方さんに僕が彼女に手を出さないように見張っとけって言われたんだろうけどさ、受けるか受けないかは彼女が決めることでしょ」

肩をすくめる沖田に対し、斎藤は重く黙り込む。どうやら斎藤は図星をつかれると黙り込む性質らしい。しかも正論を言われると、弱い。
押し黙った斎藤から視線をはずし、沖田は斎藤をよけ貴舟の眼前に立つ。

「で?」

沖田の問うような視線に、貴舟は刀を地面に突き刺すことで答えた。

「受ける理由がない」

以前の状況ならまだしも、今そんな死合を受ける道理は無かった。
それに沖田は選択権は自分にあると明言した。なら、わざわざ受ける理由はない。
貴舟は踵を返す。

「ふーん、逃げるの」

沖田の声が追いすがってくる。しかしこれ見よがしな挑発の言葉は、ある程度予想していたことだ。無視を決め込み洗い場へ戻ろうとする。じゃりじゃりと砂利を踏みしめる音が響く。

「椿屋の用心棒は腕利きだって聞いてたけど、たいしたことないんだね」

雑音に混じって、こつりと小石のような呟きが背中にあたる。何気ない一言。しかし小石が貴舟の心中に落とした波紋はことのほか大きかった。
音が、止まる。
つま先に落ちる自分の影を見つめながら、貴舟は無意識に拳を握りしめた。
きっと沖田は自分を指していったのだろうが、貴舟にとってそれは自分だけではなく彼をもけなす言葉に聞こえたのだ。だから理解したとたん燃えるような怒りで腹が煮えるのが分かった。暗く激しい感情が喉元までせりあがってくる。息が、苦しかった。頭の片隅では応じるべきではないと思っているのに、自然と身体が勝手に動いた。衝動に突き動かされるまま貴舟は身体を反転させ、地を這う。
疾駆する勢いで地面から刀を引き抜き、猛然と沖田に斬りかかった。
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