序 46


また、逆戻り。
暗い土蔵の中。貴舟は入り口の扉に背を付けて座り込み、光が差し込まなくなった明かり取り窓を見上げる。
もう日が暮れたらしい。それに伴ってか、下から這い上がってくる冷気も一層強くなってきていた。
差し入れられた毛布を身体に巻き付け、ごつりと後頭部を扉につける。
後悔の念が、頭を苛む。
終わったことを考えても仕方がないと分かっていても、もう取り返しのつかないことだということが余計に思い返させる。
きっと沖田を無視するのが、正解だったのだ。そうすれば自分はこんなところに戻ってくる必要もなかったし、不利な材料を増やすこともなかった。
でも沖田に言いたい放題に言われるのは、癪だった。
不利益だろうがなんだろうが、とにかくあのときは打ち負かしてやりたいという一心だったのだ。
しかし、終わってみればどうだろうか。
確かに勝ったのは自分なのに、釈然としない。まるで胸にぽっかりと穴があいているようだった。
うつろを風がひゅうひゅうと通っていくようで、ひどく虚しい。
掴み取ったものが砂になって崩れ去っていったような心許なさに、貴舟はため息を吐く。
と、

「僕に勝ったっていうのに、辛気臭いね」

聞こえるはずのない声が、背をもたれかけさせている扉から聞こえてきた。
人を小馬鹿にしたような口調は、昼間さんざん聞いたものだ。ひくりと眉間にしわが寄る。
確か部屋で謹慎処分になったと聞いたはずだが、だとしたらこれは幽霊か。いや、ちょうど考えていたことをぴたりと当ててきたあたり、妖怪のサトリか。
まぁ、なんにせよあの男のことだ。抜け出したに違いない。じっとしているようなしおらしい性格をしているなら、そもそも自分とあんなことをするはずがないのだから。
嫌な訪問客の登場に、背後を警戒しながら貴舟は吐き捨てるように口を開く。

「…帰れ」
「うわ、辛辣だなぁ。せっかく会いに来たのに」
「誰も頼んでない」

相変わらず飄々とした口調に不快感を隠そうともせずに返せば、「あっそ」という短い返事が返ってくる。お前の許可など誰も必要としていないというようなそっけない返事は、それはそれでまた腹立たしかった。なんか不服だ。
ますます渋面を深くしていると、「よいしょ」という声がして背後のすぐそばで衣擦れの音がする。内心入ってくるのかと思い、ぎょっとして身構えた貴舟だったが、沖田は単に扉の前に座り込んだだけのようだった。
重たいものが地面をこするような音がして、背中に濃い気配を感じる。ちょうど扉をはさんで背中合わせになっているようだ。
こちらに入ってくるわけではないようだが、居座られるのも不愉快だ。
口なんて利きたくもなかったが、追い払うには仕方がないと貴舟は再び口を開いた。

「…謹慎処分になったって聞いたけど」

言外に外をうろつくのはまずいのではと苛立った口調で問えば、少し意外そうな声音が飛んでくる。

「へぇ、僕のこと心配してくれるの?」

またひらりとかわされて、貴舟はさらに苛々とした。むっつりと黙り込むと、何拍か空けて「残念」という声が聞こえてくる。
誰がお前の心配なんてするものか。
何を言ってもかわされることが分かり、貴舟は絶対声を出すものかと半ば意地になって唇を引き結ぶ。
沈黙が落ちる。
そうしてどれくらい経った頃だろうか。
ぽつりと呟くような声がした。

「…ねぇ」

ささやかな声だったが、先程までの意地の悪い響きはない。
むしろ真剣な響きのあるそれに、何を聞いても絶対に無視をしようと思っていた貴舟は、拒絶するどころかいつの間にかその言葉をするりと耳に入れていた。

「なんで迷ったの?」

ふいの言葉だからこそ、胸をつくものというものがある。それが今一番聞かれたくないものだったら、なおさらだ。
ほとんど無防備だった貴舟の胸に、それは深く突き刺さった。一瞬息を呑む。
胸がじくじくと痛むようで、貴舟は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
だから嫌いなんだ。いつも飄々として掴みどころのない言葉ばかりを発している割に、時々核心を迷いもせずにこの男は突いてくる。
扉の向こう側で身じろぐ気配がする。視線がこちらを向いているような気がして、貴舟はますます縮こまった。

「最後の一刀、君、迷ったよね」

疑問ではなく、断定。
なにもかも見通されていることに、喉が塞がるようだった。
言いたくない。
かたくなな雰囲気を感じ取ったのか、しばらくして急にふっと沖田の気配が和らいだ。衣擦れの音がして、背後からごつりと音がする。どうやらこちらを振り向くようにして身体をむけていたのを元に戻し、頭を扉にくっつけたようだった。

「…ごめん」

意外な言葉が響く。
声こそ出さなかったが、驚きのあまり後ろを振り返ってしまったぐらいだ。
見通せない分厚い扉の向こう側に、どうしてだか真摯な表情をした沖田の顔が見えるような気がした。

「君のことを困らせたいわけじゃないんだ」

沖田のささやくような声が、なだめるように優しく貴舟の背を撫でる。

「ただ。あの時の君、すごく困ったような悲しそうな顔をしてたから気になってさ」

あの時の自分はそんな顔をしていたのか。
気遣うような沖田の声に、苛立っていた気持ちが水をかけられたかのように急激に冷めていく。
すると今度は、意固地になって答えようとしない自分がひどく惨めに思えてきた。

「…ねぇ、なんで?」

傷にそっと触れるような声。
払い除けるべき手だと思っているはずなのに、どうしてだか撥ね付ける気が起きなかった。
…心配するどころか、心配されるなんて、最悪だ。
本当は話したくなんてなかった。けどこれ以上意地をはって言わないのも、ひどく大人げない気がした。
答えを聞くまで意地でも動かないという沖田の雰囲気に、結局、先に根負けしたのは貴舟だった。貴舟は深々とため息を吐き、ついに重い口を開いた。

「刀を振るう理由が、分からなくなった」

ぽつりと、唇から言葉をこぼす。
返事はない。けれど沈黙が先を促しているような気がして、貴舟はぽつりぽつりと話し始めた。

「私に剣を教えてくれた人がいる。もともと椿屋の用心棒をしていたのは、その人だ。その人は女の私にも真剣に剣を教えてくれて、良玄はそれを使う場所を与えてくれた。――二人は私の恩人で、大切な人なんだ」


『弟子ちゃん』
『貴舟』


「二人を守るためなら命だって投げ出せるってずっと思ってきた」


『私は、良玄と師匠を守るために刀を振るうよ』


師匠がいて、良玄がいて、自分がいて。―――ただ、ずっと一緒にいられればと思っていた。
それが自分の守りたいものだと思っていた。そのためなら、なんだってできると思っていた。

「けど」

だけど今は。


『いってきます』
『お前は知らなくていい』


「―――今は二人のことが、分からない」

みんな、てんでばらばらで。
何を考えているのか分からなくて。


『お前は、何のために人を斬る?』


だから思い出した問いかけにとっさに答えられなくて。
本当にそれが自分の守るべきものなのか、信じられなくなってきている自分に気が付いて動揺したのだ。

「だから、迷った?」

沖田の問いかけに、貴舟は答えない。
しかし貴舟の沈黙を肯定ととったのか、「そっか」という沖田の声が聞こえてくる。
それっきり、どちらも黙り込んだ。いるのか、いないのか。どちらも分からなくなるほどの沈黙だった。ときどき明り取り窓から梢が風に揺れて囁きあう音が響いてくる以外は、何の音もしない。
静かな夜だった。
だから、不意に発せられた沖田のささやかな声を、貴舟は扉越しにも聞きとることができた。

「なら、確かめればいいじゃない」

あっけらかんと、沖田はそう言う。
何を迷うことがある、とその声は言っていた。

「もし僕が君みたいになったら、きっとそうするよ」

「まぁ、そもそも僕が近藤さんのことが分からなくなるなんて、ないけどね」と最後に皮肉をたっぷり込めてくるところは、沖田らしい。一瞬むっとするけれど、沖田の言うことが正しいことは貴舟も分かっていた。
ずっと行動を起こせずにいたこと。そうしなければいけないとは思いはじめていた。
ただ、先延ばしにしていたことが、ここまで自分の中に影響を及ぼしているとは思ってもみなかったのだ。

「…あんたに言われなくても、そうする」

何も知らないくせに。喉元までせり上がってきた言葉を引っ込め、なんとか代わりの言葉を押し出す。
自分の事情なんて、この男には関係ないし、配慮する義理もないのだ。言ったところで仕方ない。ただの八つ当たりにしかならない。
ただ、そのまま受け入れるのも癪で、虚勢を張った。勘がいいのですぐにバレるだろうが、この男にはあまり弱みを見せたくなかった。
けれど内心行動するか決めあぐねているのはしっかりバレているようだ。ふうんと、意味深な声が返ってくる。

「それならいいんだけどね。迷ってる状態の君に勝っても、意味ないし」

「だから早く理由を取り戻してよ」と沖田は言う。
邪魔が入って未だはっきりとは決着のついていない勝負。結局のところは、それが理由らしい。
心配?優しい?―――そんな訳はなかった。一瞬でもそう思ってしまった自分が恥ずかしい。やはり沖田は沖田だった。
迷いは払わなければならないと思う。しかし、面倒なこの男とは二度と相対したくはない。複雑な気持ちだ。「是」とも「否」とも言えず、黙り込んでいると、頭の上になにかが降ってきた。
ぼてっと頭に一度あたって膝下に転がり込んできたのは、笹の葉でくるんだなにかだ。
どうやら明り取り窓から投げ込まれたらしい。

「お腹空いてるでしょ。おすそ分け」

上を見上げていると、外から声がする。
結んでいる紐を解いて笹を広げてみると、中には握り飯が入っていた。頭に当たったので少し形がいびつになっている。食べ物を投げるとは、罰当たりな。とは思うものの、握り飯を見た瞬間、貴舟の腹は空腹を訴えた。
罰として土蔵に閉じ込められるだけではなく、夕飯も抜かれたのだ。おすそ分けという沖田の口ぶりからして、向こうも罰として夕飯を抜かれたらしい。となると、この握り飯は勝手に台所に忍び込んで作ったものだということになる。…大丈夫なのか。
見つかったら自分も責を問われるんじゃないかと思って食べるのを躊躇していると、「そういえば」と思い出したように沖田が言うのが聞こえてきた。
…まだ何かあるのか。
どうせろくなことじゃないに違いないと身構えていると、背をもたれかけさせている扉がぎしっと音を鳴らした。
なにかがもたれかかったような音。
次いで扉越しに投げかけられたのは、

「ごめん」

謝罪だった。
沖田に謝られるのは今日これで二度目だ。

「…あんた、変なもの拾い食いしたんじゃないだろうな」
「君、大概失礼だよ…?」

薄気味の悪さに生唾を飲み込んでおそるおそる聞いてみれば、憤慨した声が返ってきた。じとっとした視線がこちらを見ているような気がして、貴舟は思わず後ろを振り返っていた顔をもとに戻した。そんなこちらの気配を察したのだろうか。沖田はかすかに呆れたような溜息をつきながら、それでも気を取り直したように言葉を続けた。

「僕にだって、悪いと思ったことを謝るぐらいの分別はあるよ。…近藤さんのことを悪く言われたら、僕だってすごく腹が立つしね。だから知らなかったとはいえ、君の大切な師匠のことを悪く言ったことは謝るよ」

大の大人の男をこのような表現をするのはそぐわないと思うが、沖田の声音はまるで母親にこっぴどく叱られたときの子供のようだった。ひどく後悔しているのが伝わってくる。
ひねくれているのかと思えば、ひどく素直な面もある。よくわからない男だ。
貴舟は一瞬そう考えて、いやと自分の考えを否定する。分かることが、あるにはある。
この男にも、他の者を斬ってでも守りたいと思う人がいるのだ。そしてそれは確固たる芯となって、この男を支えている。
自分も少し前までそうだったから分かる。―――ただ、貴舟の場合、今はそれがぐらついているのだけれど。
そこまで考えてまた気落ちしていると、「でも」と呟く沖田の声が耳に届いた。

「…あの男を傷つけたことは、謝らないから」

急に温度をなくした声音には、不貞腐れたような響きがかすかに混じっている。沖田は誰とは明言しなかったが、口調からすぐに誰のことを言っているのかは分かった。

「良玄のことか」
「そう。でも、あの男のことが君は大切なんだよね?」

投げやりな声。返しても返さなくても別にいい。半ば自棄くそじみているのに、返してくるのを待っている気配がある。
やっぱりよくわからない男だと思いながら、貴舟は答えた。

「大切だよ」

迷いなく答えると、なぜだか怯んだような気配が伝わってきた。
少しして沖田の声が返ってくる。

「…そう」

それっきり、背後の気配もふつりとなくなってしまう。伝わって来るのは、うら寂しい空気だけだ。耳をそばだてれば、風が通る音だけが聞こえてくる。
急に冷たくなった気がする扉に片頬をつけ、聞くものがいなくなった空間に向かって貴舟はひとりごちた。

「多分、な」

自分でも把握しきれていない気持ちを乗せた言葉は、誰にも聞かれず葉擦れの音にかき消された。
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