序 47


「多分、って。思い切り間違えてるじゃないですか、千種さん」

廉蔵はぼりぼりと頭を掻きむしりながらぼやいた。
書いてもらった地図が間違っていたのだ。おかげで随分遠回りをしてしまった。

「どうしてあの人はこういう時に限って適当というかちゃらんぽらんというか…」

ぶつぶつと不満を漏らしながら歩く。
最近知り合った人物であるのだが、その人はとにかく大雑把であった。
整理整頓という言葉を知らないのか部屋はぐちゃぐちゃだし、身なりはいつもぼさぼさの髪をしているし、言うことも時々ひどく適当だし。
相部屋になった廉蔵はとにかくこの隣人に振り回されてばかりだった。
今もそう。
書簡を届けるよう頼まれて、場所が分からないから地図を書いてくれと頼んだら、「ここだ、多分」とか曖昧な返事で渡された地図は完全に間違っていた。
しかも着いた先は揚屋。どうしたらそうなる。結局その辺の店の店主に道を尋ねて、無事にたどり着いたが。

「まず、信じた俺が馬鹿だった」

がらがらと荷車を引く音に紛れて、ため息をつく。
と、

「何が馬鹿だって?」

のんきな声とともにどさりと太い腕が首にまきついた。
驚いて振り返ってみれば、人懐っこいどんぐり眼がある。にやりと、口元が笑った。

「千種さ…」

遠回りをすることになった張本人の登場に、廉蔵は思わず声を上げそうになる。しかし分厚い手のひらで口を覆われ、それはくぐもった音にしかならなかった。

「走るぞ」
「んむ?!」

ぼそりと耳元で囁かれたのをきっかけに、廉蔵は暗い路地にものすごい勢いで引き込まれた。なかば引きずられるような形で、路地の中をひた走る。景色があっという間に背後に消えていく。
やがてどれくらい経った頃だろうか。

「ここまでくりゃ大丈夫かな」

猫の子でも放るように、掴まれていた襟首をぽいっと離された。
完全に息の上がっていた廉蔵はそのまま地面に倒れこみ、ぜーぜーと荒い息をつく。そんな様子を上から見ていた男は、やれやれといったように頭を掻いた。こちらは余裕の面持ちで、息一つ乱していない。どんな体力しているんだこの人は。

「おいおい、細っこいとは思っていたが本当に体力ねぇんだな」
「あ、あなたとっ…い、一緒に、しないでっくださいっ…」

ぜ、ぜっと息をする間に廉蔵は切れ切れに言う。

「大体っ、なんでいきなり走り出すんですか!!」

腰に差していた刀を杖がわりにして、立ち上がる。大声が近所迷惑だとかいうのはこの際無視だ。
廉蔵が声を張り上げると、千種はちょっと眉を上げてみせて、なぜだか苦笑した。苦笑されるようなことをした覚えのない廉蔵としては、なぜそんな顔をされるのか意味がわからなかった。
むっとして「なんですか」と聞こうと口を開こうとすると、太い指でもってぶにっと頬をつままれる。

「なっにゃにすんですか!!」

わたわたと手足をバタつかせて抵抗すると、やっと解放してもらえた。頬がじんじんする。どれだけ力を込めて引っ張ったんだ。
涙目でぎっと睨みつけると、やっとまともに相手してくれる気になったのか、千種が口を開いた。

「廉蔵よぉ。お前さん、あと尾けられてたぞ」
「なっ」

「もうちっと気をつけないとなぁ」ぽりぽりと頬を掻きながら、千種は言う。

「え!?そんな、いつ?」

尾けられていたとは毛ほども思っていなかった廉蔵は、うろたえて千種に聞く。

「古傘買いの行商人。じっと後ろつけられてたの気づいてなかったんだな。まぁ、あちらさんも手馴れてる様子だったし、無理もないか」

千種は廉蔵に踵を返して、懐手に歩き出す。廉蔵はその後を慌てて追った。

「ち、千種さん」
「うん?」
「あの…すみませんでした」

頭を下げると、なぜかぐわしっと荒い仕草で頭を掴まれた。そのままぐちゃぐちゃに髪を掻き回される。

「ぶっ!ち、千種さん!!」
「そういう時は謝るんじゃなくて、ありがとうございますだろ。それに俺もここ最近お前が尾けられてるって知って、わざと遠回りするようにさせたしな」

「おあいこだ」混ぜ返されて乱れた髪の隙間から見えた顔は、悪戯に成功した悪餓鬼のような表情をしていた。
その表情を見て、廉蔵は急に腹立たしさがしぼんでいくのを感じた。むしろ、さっきまで怒っていた自分が、どうしようもなく愚かにさえ思えてくる。
尾けられたのは自分の不始末なのに、こうやって助けてくれたばかりか、自分が落ち込まないように気遣ってくれているのだ。

「…ありがとうございます」
「うむ」

素直に告げた謝意に、千種は仰々しく頷いて歯をむき出しにして笑ってみせる。豪快で人懐っこい笑顔。
廉蔵は仲間内で話されていた噂を思い出した。普段は飄々とおどけているけれど、とても強い人なのだと。
廉蔵はまだ一度も千種が刀を抜いた姿を見たことがない。だから最初は半信半疑だったけれど、こういうところを見るとそうなのかもしれないと思う。
後ろをついて歩き、じいっと背中を見上げていると、ふいに真上にのっかっている顔がこちらを振り返ってきた。

「廉蔵」
「はい」

真剣そのものな面持ちで見つめられ、思わず廉蔵も真面目な声で返した。けれど、次の瞬間それが無駄であったことを悟った。

「いい店知ってんだ。…ちょっと寄っていかねぇか?」

だらりと千種の相合が崩れる。一瞬耳を疑った廉蔵だったが、千種のお猪口をつまむような手の形を認め、めまいがした。この人は昼のさなかから飲もうというらしい。
前言撤回ちょっと見直そうとか思った自分がやはり馬鹿だった。

「駄目です。寄りません」

確固たる意思を込めて言えば、「かたいこと言うなよ」という猫撫で声が返ってくる。
融通云々の話ではない。日頃の鬱憤その他もろもろ内心言いたいことは山ほどあったが、ぐっと抑えて廉蔵は再度繰り返した。

「駄目です。帰りますよ」
「ほう。じゃ、道案内お前に任せて大丈夫なんだな」

千種にそう言われて、廉蔵ははたと気がついた。
ここは、どこだ?
無茶苦茶に走り回ったから、自分が一体どこにいるのかわからなかった。だからもちろん、戻り方も。
周りを見回していた視線を、ぎぎぎぎと油をさし忘れたカラクリのように首をめぐらせ元に戻せば、満面の笑みがある。

「行こうな?」
「………はい」

折れざるを得なかった。
渋々再びついて歩き始めると、前からくくっという忍び笑いが聞こえてきた。

「…なんですか」

若干ふてくされながら尋ねれば、「いやな」という笑みを含んだ声が返ってくる。

「前にも弟子ちゃんと、こんなやり取りしたよなって、思い出してな」
「…お弟子さんがいるんですか」

これは初耳だ。廉蔵はちょっと興味がひかれた。

「ああ。お前ほど口煩くはなかったけどな」

口うるさいは余計だ。持ち上がりかけた気分が急降下した。
ぶすくれていると、振り返ってきた顔がなだめるように「まぁまぁ」と言う。

「でも、真っ直ぐなのは似てるな…それだけに可哀相だったけど」
「可哀相?」

繰り返した廉蔵には答えずに、千種は前を向く。

「いや、気にすんな。…忘れてくれや」

振り仰いだ横顔は、この男にしては珍しく、ほんの少し悲しげに見えた。
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