序 51


何日かぶりに見世に帰る。
歩き慣れた通りを歩けば、次第に頭の中が、見世のみんなは元気だろうか、自分がいなかった間何事もなかっただろうか、などといった考えでいっぱいになり、足が自然と早まった。
気がつけば、あっという間に見世に着いていた。
家々の窓から上がり始めた炊煙に、そろそろ何人かは起き出した頃だろうかと思う。しかし、大半はこの時刻になっても寝入っているので、結局裏から入ることにする。
木戸を開き、裏手の庭を通って見世に入ろうとすると、庭に面した縁側にぽつりと誰かが座っているのが見えた。
良玄だ。
物憂げにぼうやりと庭を眺めるその姿に、そういえばと、貴舟は思い出す。
早くに目が覚めた日は、こうして庭を眺めるのがこの男の日課であったと。最近は見なかったので、すっかり忘れていたが。
驚いて止めていた足を動かし再び歩きだせば、足音に気がついた顔がこちらをゆるりと振り返る。
眠れなかったのだろうか。良玄の目の下には、うっすらと黒い隈が浮かんでいた。もとの色が白いだけに、それは一層痛々しく感じられて、貴舟はなんとなく声がかけづらくなった。
本人は冷淡ぶって認めたがらないが、存外面倒見が良く繊細な性質なのだ。口にこそ決して出さないが、心配してくれていたのだろう。
それを示すかのように、貴舟の姿を認めると、良玄は安堵したようにほんの少し目を細め、くわえていた煙管をかたわらの煙草盆に置いた。
一拍おいて、口が開かれる。

「少し、話がある」

くゆる紫煙の向こう側に見える表情は、やはりどことなく精彩を欠いているように見えた。



良玄の自室へ招かれついていくと、聞かされたのは驚くような知らせだった。

「……伊勢谷さんが」
「ちょうど俺を訪ねて帰る最中のことだったそうでな。袈裟掛けにバッサリ、だそうだ」

良玄は言いながら、指で己の左肩から右脇腹にかけてをななめになぞる。
立場上、良玄との仲は良くなかったが、貴舟のことは自分の娘のように可愛がってくれる人だった。
時世が時世なので、こんなときがくるかもしれないとは思っていたが、それでも近しい人間の死というのは受け入れがたいものだ。
貴舟は沈鬱な気分になってしばらく言葉を失っていたが、畳に落としていた視線をあげ、重い口を開く。

「やった奴は捕まったのか?」

貴舟の問いに、良玄は横に首を振ってみせた「いや、まだだ」

「だが、お上は俺がやったんじゃないかと疑っているみたいでな」

はっとなって気色ばむ貴舟に、良玄は「まぁ待て」と落ち着くように身振りで示す。

「少し話をきかれただけだ。そもそも、やってないんだからいくら探られようが何も出しようがないがな」

貴舟はほっと胸をなでおろした。
心の臓に悪い。

「驚かせるなよ」
「驚かせたつもりはない。お前が勝手に驚いただけだ」
「勝手にって……」

心配してやってるのに。むっとして言い返そうとしてその場から身を乗り出そうとすると、たちまちぶにっと鼻をつままれた。つまんだ相手はもちろん、良玄だ。
貴舟は半眼になって、自分に狼藉をはたらく向かいの人間を見上げた。

「……ぶぁにすんだよ」
「お前なぞに心配されるようになったら、俺も終いだな」

これみよがしに嘆息される。
これにはさすがの貴舟もされるがままになってはいられなかった。完全に腹をたてた貴舟は、猫のように俊敏な動きで良玄の手を払い落とし、ふいっとそっぽを向く。
心配するだけ損した。二度と心配などしてやるものか。
むっつりとした顔で無視を決め込む貴舟にしかし、良玄はふっと笑ったようだった。
かすかな衣擦れの音とともに立ち上がる気配がして、あたたかいものが髪の間に差し込まれる。

「まあ、無事に帰ってきてなによりだ」

いつにない行動に反応が遅れる。だから、差し込まれたあたたかなものが良玄の指で、頭を撫でられているということに気がつくのに少し時間がかかった。
振り払おうか。そんな考えも浮かんだが、さきほどとは打って変わってやさしく髪をすく指には、どうにも抗えなかった。
それになにより。

「おかえり。貴舟」

どうしてだか、良玄が泣いているように感じたのだ。
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