序 52


「そういうわけで、ほとぼりが冷めるまで、しばらくあっちの稼業は休業にすることになる。……まあ、お前にはちょうどいい機会だな。まとまった休みをやるから、身体を休めておけ」

と、言われてもなあ。
貴舟は階段を登りながら、先刻の良玄の言葉を思い出していた。
時刻は夕刻。
窓から差し込む光はなく、見世の中はすでに薄暗くなってきていた。しかし、花街はこれからがさかりだ。通りからは、かすかであるが清掻きの音が聞こえてくる。
あの後さすがに疲れていたのか、良玄の部屋から出て自室に入るやいなや貴舟は久方ぶりの布団で惰眠をむさぼるだけむさぼった。だが、習慣というものはなかなか変わるものではないようで、見世を開ける頃になると勝手に目が覚めたのだ。そうなると、身体はくたくたであってもなかなか寝付けない。
心配していたという夕霧太夫たちに後で顔を見せるように良玄に言われていたのもあり、しかたなしに貴舟は布団から足を引き抜くと、姐さんたちの部屋をまわりはじめた。

「貴舟。起きとって大丈夫なんか?」
「さっき見たときは死人みたいに寝とったけど」
「なにもされへんかった?」
「……松助姐さんたち、苦じい」
「あらいやだ。ごめんなさいね。ほほほほ」

もみくちゃにされた。
豊満な胸に思い切り抱きしめられ、息ができないことを訴えると、ようやく解放してもらえた。
死ぬかとおもった。
新鮮な空気を胸いっぱい吸い込みながら、貴舟は思う。あれをされて極楽浄土にのぼるようだと言う男も多いと聞くが、とうてい理解できそうにない、と。
別の意味で極楽浄土――いや、三途の川を見かけた。
などと思っているとこれまた手ひどく両ほおをつままれた。

「いでででで」
「なんでやろなあ。どうも失礼なことを思われてるような気がしてなあ」

賽の河原の鬼婆の本性があらわれた。
しばらく顔をめちゃくちゃに弄ばれた挙句、「そうだ」となにか思い出した様子の姐さんの手が緩んだことによって、貴舟はやっと解放された。
頬がびよびよに伸びきっていないか、それだけが気がかりだった。
ぺたぺたと頬を触っていると、背後にまわった姐さんによって両肩に手をのせられる。

「で、どうやった?」
「頬がのびるかと思いました」

頬に白魚のような指先がささった。

「そっちとちがうて。そっちやなくて、ほら」
「新選組の土方はん。おうたんやろ?」
「噂通り、ええ男やった?」
「ああ、わかりましたわかりました。話しますから離れてくださいって!」

ずいずいと迫ってくる姐さんたちにたまりかねて、貴舟は四つん這いになって畳の上を逃げる。
すると。

「小紫どす。貴舟さん。こちらにおりますか」

出入り口の襖の向こうから、鈴をならすような声が響いた。姐さんたちの動きがぴたりと止まる。
小紫は夕霧太夫の身の回りの世話をしている禿だ。

「はいりよし」

この部屋で一番格の高い松助姐さんが居住まいをなおし招けば、襖を開いて小紫が姿を現した。
流麗な所作でもって開け閉てし、畳の上をにじり寄ると貴舟に向かって言う。

「こったいがお呼びどす」



「その顔。また松助らにおもちゃにされたようやね」

開口一番。貴舟の赤くなっているであろう両頬を認めるなり、夕霧は困ったように柳眉を下げた。

「あの妓らも、しかたのないこと」

ふ、と花弁のような紅い唇から吐息が漏れ出し、袖口からわずかに覗いた白い繊手がこちらへくるように差し招く。畳の上をにじって近づけば、その手でもって頬を挟まれた。自分のものとは全く違う手荒れなど知らぬ柔らかな手だった。触れる手のぬくもりに、知らず肩の力が抜ける。

「まあでも、よう帰ってきたなあ。なにもされへんかった?怪我は?」
「そんな大袈裟な」

矢継ぎ早に繰り出される質問に、貴舟は微苦笑で応えた。

「なにも悪さはしていないのですから、別段なにもなかったですよ」

なにもなかったことはないのだが、姉のように思う夕霧にはいらぬ心配をかけたくない一心でついた嘘だった。

「そう」

夕霧は一言そう言って頷いたが、納得していないのは明らかだった。言葉には寂しげな響きがあった。
心苦しさをごまかすように、貴舟はあえて明るい声を出す。

「それに、新選組の人たちは噂ほど恐ろしい人たちではなく、意外といい人たちでしたよ。八番組の組長の藤堂というやつなんて……」

騒動のことは伏せて、貴舟は新選組であったことを話せる限り夕霧に話してみせた。
夕霧は相槌をうったり、時折笑みをもらして貴舟の話に聞き入っているようだった。

「そうなん。沖田はんは、えらい局長はんのことを尊敬してはるんやねえ」
「ええ。それはもう」

最後には皮肉をこめて貴舟は力いっぱい頷く。ここ数日の出来事を思い返し、ほんとうに面倒な男だったと、げんなりとした気分で思う。そんな貴舟に夕霧は袖で口元を隠しながらふふふと笑ってみせた。

「?どうしたんですか」

そんなに面白い話だっただろうか。疑問に思って貴舟が聞いてみれば、「あ、いや」と夕霧は口元を押さえていた手を振る。

「なんや、貴舟と千種はんみたいやな、と思て」

思わずこぼれ落ちたというような言葉だった。
他愛もない言葉だったが、その一言が落とした波紋はことのほか大きかった。
しん、と部屋の中が静まり返る。

「あ……」

なにより、驚いたことにこぼした当の本人が一番衝撃を受けているようだった。慌てて夕霧は口元を押さえたが、一度出した言葉を戻せるわけもない。
らしくない反応に、貴舟もまた動揺する。

「太夫……?」

違和感が、あった。
問うように貴舟が声をかければ、夕霧の落とされた視線が持ち上がる。その目は不安と迷いで揺れていた。
「伝えようか、迷うとったんやけど……」とつとつと、夕霧は話し出す。

「千種はん、今京におるみたいやわ」

知らず、貴舟は息を止めた。なにか言わなければと思うのに、なにも言葉が出てこない。
やっと絞りだせた声は、ひどくかすれていたように思う。

「そ、れは……、師匠が京にいるって、本当なんですか?」

本当かと確認する貴舟に、夕霧は目を伏せ頷いた。

「出入りの結髪師が祇園で見かけたて……」

最後まで聞き終わらないうちに、貴舟は刀を手に見世を飛び出した。
ALICE+