序 06



貴舟が奉公している椿屋は島原の西門にほど近いところにあった。大門から東西に走る「道筋(どうすじ)」と呼ばれているところに店を構え、椿屋はそこで置屋を営んでいた。
引手茶屋を介した身元の確かな客しか取らない島原でも五指に入るような大見世で、夜ともなればほとんどの妓たちが揚屋へと呼ばれていき、見世のなかは閑散とする。貴舟が帰ってくる頃には、見習いの禿(かむろ)や舞妓たちが残るばかりとなっていた。
貴舟はほっとして胸をなでおろした。姉さんたちにかまわれるのは嫌いではないのだが、あれはどうにも疲れる。面倒くさいのに絡まれてへとへとに疲れている今はそっとしておいてもらいたかったので、ちょうどよかった。
とりあえず食べ損ねていた夕餉を食べようと貴舟が玄関から台所へ向かうと、ちょうど奥の方から舞妓の八重がこちらへ来るところだった。
湯上りなのか、その顔はほんのりと上気している。
ああ、私も早くお風呂に入りたい。
先に気がついた八重が人懐っこい笑顔をみせて声をかけてきた。

「あ、貴舟姉さん。お帰りやす」
「ただいま。私の分の夕餉とってくれてる?」
「はい、もちろん。いつものとこに置いてますよ」

今日は茶蕎麦がでたんどす。と言う八重に、貴舟は目を輝かせた。茶蕎麦は貴舟の好物の一つなのだ。「ほんとに!?」身体の疲れも忘れ、喜び勇んで台所へ行こうとする貴舟。しかし、

「ああ、ちょっと待って姉さん」

八重の制止の声によって、その足は止められた。
何?というように眉をあげる貴舟に八重はちょっと苦笑気味に言う。

「お父さんに、姉さんが帰ってきたらすぐ自分のところへくるように伝えてほしいと、言付けられとるんどす。帰りが遅いて、お父さん、えらいいらいらしてはりましたから、そっちの方へ先に行かはったほうがええと思いますよ?」

…ああ、そういえば一番厄介なのが残ったままだった。
貴舟は心底げんなりとした顔をしたあと、とぼとぼと台所とは反対の廊下を歩き出した。
夕餉と風呂はもう少しお預けになりそうだった。
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