序 07



八重は「お父さん」と言ったが、指し示しているのは八重の実父のことではない。京の花街で芸妓たちが「お父さん」と呼ぶ場合、それは大体自分たちが属している置屋の主人のことをさす。
椿屋の主人の私室は、置屋のなかでも最も奥まった場所にあった。

「良玄、来たぞ」

そう部屋の主に声を掛けながら、障子戸を開く。

「遅い」

間髪いれずにそんな声が飛んできた。
部屋の奥で文机に向かっていた男が、貴舟のほうを振り向いた。
匂い立つような色香のある美丈夫だ。歳は三十がらみ。高い鼻梁と涼しげな目の整った顔立ちをしていて、左目の下にある黒子がよりいっそうの艶をそえている。置屋の主人というよりは、役者のような男だ。
しかし、相手の機微を少しでも見逃さんとする鋭い目は、たしかに商人のものだった。その鋭い目が貴舟を貫く。心の奥底まで見透かすようなそれが、貴舟は苦手だった。荒げてはいないが威圧感十分な声音とその目によって、貴舟は「うっ」とひるんだように立ち止まった。
この男には叱られることが多かったせいか、昔からどうにも逆らえない。

「…好きで遅くなったんじゃないって」

そう口をとがらせて反論するのが精いっぱいだった。良玄は呆れたようにため息をつくと、「座れ」と目で促し、文机の上に広げてあった文を行灯の火で燃やした。割り印がされたそれは、"仕事用"の文だ。

「依頼か。誰から?」

良玄の目の前に腰を下ろしながら貴舟はそう切り出す。ああ、と良玄は興味なさそうに言った。

「過激攘夷派の浪士からだよ」
「最近、そういうお客が多いな」

眉をひそめる貴舟に、良玄は袂から取り出した煙管をくわえながら淡々と言う。

「奴らも躍起になってんだろう。八月の政変以来、一気に肩身のせまい身になってしまったからな」


八月十八日の政変。
尊王攘夷の気運が高まるなか、政治の中心である京には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されていて、朝廷内でも長州藩の急進派が実権を握るようになっていた。だが、その横暴さを見かねた薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放する政変が起こった。
それが八月十八日の政変だ。
これにより、それまで京の町を肩で風を切って歩いていた尊攘派志士たちはお尋ね者となり、捕えられたり斬られたりと今までとは全く逆の立場となってしまっていた。
しかし、半年前に比べればその勢いは衰えてしまったものの、今も京に潜伏する尊王攘夷派は失地回復に向けて裏でこそこそと活動しているようだった。前ほどではないにしろ、町を歩けば「どこそこの藩の人間がやられた」だの「会津の役人が斬り殺された」だの、そんな話が耳に届いてくる。
そんな物騒なお客が、最近頻繁にここへ文を寄越すようになっていた。
妓を買いにではない。
"情報"を買いに、だ。
良玄はやり手の置屋の主人としてだけではなく、政界でも良くも悪くも何かと有名だった。ただし、こちらは裏の顔としてだ。
表で置屋の主人をする一方で、良玄は情報屋という裏の顔も持っていた。
京は政の中心地であり、人が多く集まる場所だ。特に島原は幕府の重鎮や大店の主人をはじめ、公家や浪人など、さまざまな身分の者が連日出入りする。もたらされる情報の量も半端ではない。ただ遊ぶために座敷にあがる者もいるが、会合の場所として座敷を使う者も多く、お偉方と同席した芸妓が幕府の重要機密や奇襲の計画などを耳にするということもしばしばだった。
大体は信用第一の商売だし、その口止め料としての料金も花代に上乗せしてもらっているわけだから、よほどのことがない限り芸妓たちも客個人の情報を漏らしてしまうということはない。
どんな客でももてなし楽しませるというのが、島原芸妓の誇りである。
が、どうしたって人の口に戸は立てられないものだ。
置屋を訪れる人間や芸妓、娼妓と世間話をしながらそれとなく色々な情報を引き出し、つなぎあわせ、それを色んな人間に売りさばくのが良玄の副業だった。
依頼は仲介屋である水引茶屋の藤爺を通して、良玄のもとにこうして文として届く。

「…何を頼まれたんだ?」

あまり良い予感はしないなと思いながら、貴舟は良玄に聞く。良玄は形のいい唇を引き上げ、人の悪い笑みを浮かべた。
嫌な笑みだ。

「幕臣たちが会合を開いている場所が知りたいから調べてくれだと。大方、そこを襲撃する腹積もりなんじゃないか?」

予想していた通り、随分物騒な答えが返ってきた。自然と顔が険しくなる。

「お前幕府からも過激攘夷派の動向を探ってくれって頼まれてるのに、それ受けたのか?」

貴舟の問いに、良玄は愚問だというように鼻で笑った。

「当たり前だ。俺は客を選ばない主義だ。どんな客でも金を払ってくれる限り客は客。平等に扱うべきだ」
「とかなんとか言って、結局高く金を積んだ方に有利な情報を流すんだろ?」
「まぁな」

悪辣だ。けろっとして言う良玄に頭痛がした。
おそらく先約である幕府の依頼が優先され、過激攘夷派の浪人たちは幕臣たちを罠にかけるどころか、逆にお縄を頂戴するはめになるのだろう。
貴舟はげんなりとした顔で攘夷派の浪人たちを憐れむと同時に、また面倒事が増えるなと内心ため息をついた。
人の秘密を握るというのは、それだけ誰かの恨みを買う。しかも良玄は敵対する組織のどちらにも情報を売りさばくので、常に多数の人間から命を狙われていた。大半は下手に刺激して向こうの組織にしか情報を流さなくなっては困ると思っているのか、探りをいれてくるぐらいで手を出してくるということは少なかったが、それでもかっとなって襲ってくる奴は襲ってくる。
その露払いをするのが貴舟の仕事だった。
何かと仕事を増やしてくれるこの主人には色々と不満があるが、働きの分だけきっちり給金をもらっているし、昔から世話になっている義理もある。文句を言ったとしても「それがお前の仕事だろう?」と言われるのが目に見えて、結局貴舟は喉元までせり上がってきた文句を噛み殺すしかなかった。
そんな貴舟を尻目に、良玄はうまそうに煙草を吸い、煙草盆の灰吹きのふちを軽く叩いて灰を落とした。
コン、と固い音がする。

「話がそれたな。そろそろ本題に入ろう」

 
本題。
この男がわざわざ私のことを呼び出すなんて、絶対面倒事に決まっている。貴舟は今すぐこの場から立ち去りたい衝動にかられた。しかし、今ここを逃げ出したとしても待っている結果は変わらない。
嫌な顔をして良玄の次の言葉を待っていると、「そう身構えるな」と言われた。

「なに、もうすぐ年末で年を越せそうにない奴らが、盗みを働いたりと物騒になってくるだろ?店の男衆だけじゃ心許ないから、お前を三日ほど貸してくれって鹿野屋の旦那に頼まれただけだ」
「…で?」
「話を受けた」
「私の意思は?」
「無い」

清々しいまでにばっさりと切り捨てられ、貴舟は畳に突っ伏した。
…この男、いつか絶対ぼこぼこにしてやる!!

「まぁ、そういうことで、お前明後日から三日間鹿野屋に行け。分かったな」

もう受けてしまったものは仕方がない。三日もそばを離れるのは少し心配だったが、良玄もそこまで弱い男じゃない。むしろ悪辣さにかけては最凶だ。うん、放っておいても大丈夫だ、多分。
げっそりした顔で貴舟は了承した。

「分かった」
「じゃ、戻っていいぞ」

言うや否や、良玄はくるりとこちらに背を向けて文机に向かった。まるで早く出て行けとでもいうような態度である。
言われなくともさっさと出て行きますとも。貴舟はむすっとした顔で踵を返し、戸に手を掛けた。

「貴舟」

しかし開けようとした瞬間に呼び止められた。
まだ何かあるのか?
ちょっといらいらしながら振り向くと、何かを投げつけられた。
手巾だ。

「ちゃんと手当しておけ」

こちらを振り向かずに、良玄は文机の前に座ったまま自分の左頬を指さす。
自分の頬に手を当ててみると、指の先にほんの少しだが血が付いた。刃先をよけ損ねたのか、知らぬ間に斬られていたらしい。

「…無事に帰ってきてよかった」

戸を閉める間際に聞こえたかすかな声には、気恥ずかしかったので聞こえなかったふりをした。








遠ざかっていく足音を聞きながら、良玄はそっと溜息をはいた。
煙草盆に煙管を置き、文机の上を見る。
文机の上には、硯や筆の他に、燃やした文以外にも何通かの文があった。
その内の一通には、幕府の情報と引き換えに、ある男の動向について調べてもらったことが綴られてある。
その一通を、良玄は物憂げな表情でじっと見た。

「…一体、何をやっているんだ。お前は」
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