夏の夜


「疲れたー…」


夜の巡察から帰ってきた私はへろへろの身体を引きずり、布団を敷き始めた。
まぶたがすでに落ちかけている。

明日も早いし、さっさと寝よう。
私は重い布団を運び、最後に掛け布団をかけた。

後はもぐりこむだけだ。

そう思って、全身の力を抜いたときだった。


「!」








部屋の隅を、真っ黒な”何か”がはしった。














「……こんな夜更けに何の用だ」

斎藤さんは部屋と廊下を区切る障子を開けた状態で、廊下に正座した私を見下ろした。
言外に、”夜中に男の部屋を女一人でたずねてくるのは、感心しないな”という言葉が見える。
分かっている。それは自分でも分かっているんだが。

「いや……、その……頼みごとがあるんですけど……」

私は胸に抱えた枕をぎゅっと抱きしめ、歯切れ悪く言った。どうしても目が泳いでしまう。

「頼みごと?」

斎藤さんは小首をかしげる。
その拍子に、髪が一房さらりと肩に流れ落ちた。

そういえば彼が髪を下ろしているのを見るのは初めてだな。

そんなことをぼんやり考えながら、私は「はい」とうなずいた。



こんなことを言い出すのはものすごく恥ずかしかったが、背に腹はかえられない。
私は意を決して、口を開いた。


「一晩、私をここに泊めてください!!」


正座をした状態で頭を下げる。




一瞬の空白。




何の反応も返ってこないので、おずおずと顔を上げると、あっけにとられた斎藤さんの顔があった。
一見するといつもの無表情だが、軽く目を見開いている。

ああ、やっぱり……。

予想の範疇の反応に、私は密かに肩を落とした。

「あの……斎藤さん?」

意識をどこかにやっている斎藤さんに、私は声をかける。
彼ははっとしたようになると、「あ、ああ」とだけ声を返した。
困ったような声。
それで、彼の次の言葉は容易に予想できた。


「……それは、できない」

まぁ、いきなり泊めてくれなんていっても無理だよな。

「そうですか。いきなりすみませんでした。じゃあ、左之さんのところへ行って頼んできます」

私はそう言って立ち上がり、斎藤さんにきびすを返す。
斉藤さんに断られたとなると、あと頼れるのは左之さんだけだった。
ひんやりとした廊下を歩き出そうとする。
しかし、


「待て」

後ろから短く声をかけられ、腕をつかまれた。
手のひらから、じんわりと斎藤さんの熱が伝わってくる。
思いのほか強い力でつかまれ、私が驚いて後ろを振り向くと、彼の目とあった。
彼にしては珍しくほんの少し焦ったような色が見えた気がして、私はじっと見ようとする。
でも、すぐに目線をそらされた。

「まだ理由を聞いていない。理由によっては……―泊めてやらないこともない」

そう言って、彼は「とりあえず部屋の中に入れ」と私の腕を引いた。






部屋の中に入ると、私と斎藤さんは向かい合うようにして座った。
斎藤さんが目線で話すように促してくる。

私は「笑わないでくださいよ?」と前おきして、ことの発端を話し始めた。

「実は、部屋に”アレ”が出たんです」
「”アレ”?」
「黒くて楕円形でカサコソ動いて今の時期に大量発生する”アレ”です」

私は部屋で見つけてしまった”アレ”の姿を思い出し、ぶるりと身を震わせた。
あのとき、よく悲鳴を上げなかったものだ。

「寝ている間に”アレ”に身体を這われるかもしれないかと思うとぞっとして、思わず部屋を飛び出してきたんですけど、戻るに戻れず……」


最初は千鶴のところへ行こうと思ったのだが、もうずいぶん遅い時間だ。
もう眠ってしまっているかもしれない千鶴を起こすのは、気が引けた。
一番気の置けない平助も、今日は昼の巡察だったから今頃腹を出して寝ているころだろう。
新八さんは、部屋の散らかり具合からして論外。
”アレ”は汚いところが大好きだ。
土方さんならまだ起きているかもしれないが、仕事をしているだろうから駄目だ。
沖田さんは――絶対からかって寝かせてくれなさそうだから嫌だ。
そうなると、残るのは左之さんと斎藤さんだけだった。
斎藤さんは真面目で几帳面な性格だ。
部屋はいつもきれいで”アレ”も出なさそうだし、彼なら手を出すとかそういうのはないと思った。だから一番初めに彼のところを訪れたのだが―…



やっぱり無理かな。

私は斎藤さんの顔をそっとうかがう少し思案するような顔をした後、彼は顔を上げて聞いてきた。

「そんなに”アレ”が嫌いなのか?」
「嫌いというかもう怖いです。”アレ”のいる部屋に戻るくらいなら野宿したほうがいいです!」

”アレ”のいる部屋には絶対に戻りたくなかった。
私はぶんぶんと顔を横に振り、懇願するように斎藤さんの目を見つめる。

ほんの少しの間のあと、彼は根負けしたというように目を伏せて、ふっとため息をついた。

「……今夜は俺のところに泊まっていけ」
「!ありがとうございます」

私はほっとして安堵の表情を浮かべる。

助かった。

そう思っていると、ふいに斎藤さんが立ち上がった。
つられて視線を上げて見上げると、こんな言葉をかけられる。

「俺は外で寝るから、あんたは俺の布団で寝るといい」

そう言って彼は外へ出て行こうとする。
私は慌てて彼の袖をつかんだ。

「いや、待ってください!私が無理を言って泊めてもらうんですから、斎藤さんを外で寝かすなんてできません。場所を貸していただくだけでいいんです。私は畳で寝るんで、斎藤さんが布団で寝てください!」

私に気を遣ってくれているんだろうが、寝る場所をかしてもらう相手を外で寝かせるなんてことはできない。
それにいくら夏とはいえ、夜は冷える。
彼が風邪をひきでもしたら大変だと思い、私は何とか彼を引き止めようとする。
しかし、彼もなかなか引かなかった。

「あんたを畳で寝かせるわけにはいかない」
「でも、それじゃあ斎藤さんが風邪をひきます」
「…………」
「…………」



どちらも譲らない。


そのままそんなやり取りが続き、結局、埒が明かないということで私と斎藤さんは同じ布団を使うことになった。
子供なら二人はいっても十分余裕なのだろうが、大人の身体ではさすがに狭い。私と斎藤さんは背中合わせになって布団に横になった。


……そういえば、誰かと一緒に眠るのって初めてだ。
記憶のなかにいる私は、いつも一人で眠っていた。


静かな部屋で、一人眠りに落ちていく。


それが私にとっては当たり前のことで、だから誰かがいるとこんなに安心するなんて、知らなかった。
目を閉じると、背中からじんわりと彼の心地よいぬくもりが伝わってきて、ほっとする。身体から自然と力が抜けて、意識がどんどん沈んでいくのが分かった。

まるで泥のなかに沈んでいくような感覚。
でも、嫌じゃない。




私はそのまま意識を手放し、いつの間にか眠ってしまっていた。













後ろからおだやかな寝息が聞こえてくる。


……眠ったか。

俺は瑞希を起こさないようにそっと身を起こし、彼女のほうを向く。
白い褥の上に彼女の長い黒髪が広がり、寝息にあわせて背中がわずかに上下しているのが見えた。

よく眠っているようだ。
俺は瑞希の顔にかかった髪を、指先でそっとどけてやる。
窓からかすかにさす月明かりに、彼女の顔がほの白く照らし出された。
そこに普段の凛とした彼女の表情はなく、安心しきった幼子のような表情だけがある。
いつもは決して見れない彼女の無防備な姿に俺は目を細め、そっと髪をなでた。
男とは違う、絹のようにつややかな手触り。



やはり女なのだな。

あの虫を町娘のように怖いという彼女は、可愛らしかった。
総司と張り合うぐらいの剣の腕を持ち、男の格好をしてざっくばらんな言葉をはなす彼女を見ていると、時折彼女が女であることを忘れそうになるが彼女は女なのだ。
今の彼女を見ていると、いやおうなしにそれを意識させられる。

いつもは高い位置で結っている長い髪を背に流し、白い寝巻きを着た彼女には、しっとりとした色香があった。
同時に、儚く消えてしまいそうなもろさを感じ、守ってやらねばと思う。
胸が締め付けられるような気がして、同時にあたたかいものが俺の心に満ちた。


彼女が愛おしい。
触れたい、抱きしめたいと思う。


―そして、誰にも触れさせたくないとも。


だから、瑞希が左之のところへ行くといったときは焦った。
左之もにくからず彼女のことを想っている。
こんな姿の彼女を左之のところへ行かせたら、どうなることか。
容易に想像できて、俺は思わず彼女を引き止めていた。



だが、今はそのことをほんの少し後悔している自分がいる。


……理性が持たん。


俺も男だ。想い人が隣にいて、何も思わないわけではない。
しかし、瑞希は俺のことを信頼してここへ来たのだ。
俺は彼女の信頼にこたえるべきだろう。

そう思って俺はぐっと我慢する。



でも、






これぐらいはいいだろう?







俺は彼女をそっと抱き寄せた。
そして眠っている彼女の耳元で、普段の俺なら決していえないことを囁く。







愛している、瑞希。
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