あなたのしあわせが、わたしのしあわせです。



「"恋人らしい"って、どんなだろうな」


ぼんやりしながら呟いた言葉に、良玄が反応した。

「…いきなり何だ?」

訝しげな顔をしながらコーヒーの入ったマグを手渡してくる良玄に、私は「あのさ」と言いながら受け取る。

「大学の友達にお前とのこと話したら、その…『本当に付き合ってるの?』って言われて」

良玄は私の言葉にちょっと考えるそぶりを見せる。そしてソファに座る私の隣に腰を下ろしながら何を今更というような雰囲気で言った。

「付き合ってるからこうして同棲してるんだろう」
「まぁそうなんだけど…」
「だけど?」

瑞希領を得ない受け答えをする私を焦れったそうに良玄がせっつく。ああ、もうせかさないでくれ。心の準備ってものがあるだろうが。
そう思いながらも、しぶしぶ私は答える。

「…いわゆる恋人同士の触れ合いが極端に少ないんじゃないかって言われて…」

早い話が、直接に「もう寝たの?」と聞かれたのだ。
オブラートもかけようとしないその言葉に恥かしさのあまり赤くなりながら「寝てない」と答えると、「同棲してるぐらいなのに一度もないの!?」とすごくびっくりされた。その挙句根堀り葉堀り聞かれてキスも数えるぐらいしかしたことがないことを暴露させられ、「それって絶対おかしいよ!」と断言されてしまったのだ。その後囲まれて友達たちの体験談のあれやこれやを聞かされたのだけど、胸やけを起こしそうなぐらいの甘さだった。
それにはもちろん夜のことも含まれて…いや、やっぱり思い出さないでおこう。

「まぁ、確かにな。ベッドも違うし」

かなりぼかした表現をしたのだけど、良玄には伝わったらしい。コーヒーに口をつけ、うなずく。興味なさそうな顔だ。
頬杖をつきながら、だろうな、と思う。
私も友達が彼氏に言われたらしい「お前がいてくれれば他に欲しいものないから」なんて甘い台詞を口にする良玄なんて想像できないし。
そもそも大学の友達カップルたちと比べるにしても、私と良玄の歳はかなり離れているし、お互いそんなにべたべたするような性格ではない。かなりビターな仲であることは間違いないと私も思っている。大体、良玄が私に言うことといえばいつも上から目線で「お子様は早く寝ろ」とか「色気がない」とか…ん?あれ、いつも言われることだから気にしてなかったけど、甘くないどころか、かなりひどいこと言われてる…?
もろもろの仕打ちを思い出し、じとっとした目で隣を振り返る。一方その元凶はさっきのことなどどこ吹く風、平然とした顔で雑誌を読んでいる。不平不満が喉元まで一気にせりあがってくるけれど、口でも頭でも経験でも勝てないことを思い出し飲み込む。年の功とは厄介だ。
良玄の横顔を一瞥し、私はマグをテーブルに置いてひそかに溜息をついた。
コーヒーの黒い水面が揺れる。
…本当を言えば、「おかしい」と友達に言われたとき、ひどくどきっとした。
まったく不安じゃないといえば嘘になる。
かなり年上だし。(性格に難アリだけど)そこそこ美形だし。実際社内の女性に狙われているみたいだし。
良玄の心が自分から離れたときのことを想像すると、不安になる。
手を出してこないことだって、私が年下すぎて魅力的に見えないからかもしれない。
…やっぱり同じ年頃の綺麗な女の人のほうがいいんだろうか。
そう思うと、胸が痛んだ。
いつの間にか考えることに没頭するあまりぼんやりしていたらしい。私はそのとき横から伸びてくる腕にまったく気がついていなかった。
いきなり横合いから強い力で腕をひっぱられ体勢を崩す。

「わっ」

コーヒー入りのマグがそばにあるのに、いきなり引っ張るなんて危ないだろうが。そう思って私は怒鳴ろうと振り返りかけ、次の瞬間言葉をのみこんだ。
代わりにうつむいて相方の名前をためらいがちに呼ぶ。

「…えっと、良玄?」
「何だ」

返された声はいつも通りのものだったけど、響き方も大きさもいつもと違うものだった。
それはそうだ。
なにせ私は、ソファの上でクマのぬいぐるみよろしく良玄に抱きしめられていたのだから。
耳のそばにある良玄の口元から吐息や声が漏れるたびに、背筋がぞくぞくしてしかたが無い。艶のある低い声は距離をとって聞く分には心地よくて好きだけど、至近距離では凶器だ。全然落ち着かない。
背にはほどよい硬さとあたたかさ。身体の前に回された腕はしっかりと包み込んでくれて安心するんだけど、同時にそわそわとした気分にさせられる。
後ろによりかかったら美声の餌食。前に逃げたら程よい筋肉のついた腕によるホールド地獄。
前門の腕。後門の美声。逃げ場なし、である。
身じろきもできない状況に硬直しながらどうしてこうなったと思う。
内心慌ふためく私に、良玄はつとめて冷静に言う。

「さっきお前、"恋人らしい"ってどんな感じか聞いてきただろ」
「え。…うん」
「お前やお前の友達が想像している"恋人らしい"ことを実践してやろうと思ってな」
「それってどういう…」

意味、と聞こうと後ろを振り返りかけ、弾みでふと耳にかけていた髪が一房落ちた。
身体の前に組まれていた手がはなれて、良玄の片手が持ち上がる。髪を一房ひっかけた指が耳の後ろにまわって髪をかけなおす。その際耳の上を撫ぜていく指の感触にどきりとして言葉が霧散してしまう。するりと抜けた手はそのまま戻らずに私の髪へともぐり梳きはじめた。一番弱いところだ。首筋がぞくぞくする。

「…瑞希」
「っ、」

止めとばかりに首筋に顔をうずめられ、うなじに口付けられた。ひときわぞわりと肌があわ立ち、一瞬息を呑む。
息を詰める私に良玄は笑ったようだった。ふふ、という低い笑い声と吐息が首筋からダイレクトに伝わってくる。
擽ったいんですけど。心臓が飛び出しそうなんですけど。というかお前そんな糖度高めな男でしたっけ!?
平素とのあまりの落差に軽くパニックになりながら一生懸命顔を手で押しのけようとしたら、その手にちゅ、とキスされた。柔らかくて少し濡れた感触にびっくりする。思わず手をひっこめてしまった。
それがまずかった。クルリ、と身体をひっくり返されて、気がつけばソファに押し倒される形になっていた。上から良玄が見下ろしてくる。逆光で影になっていても分かるほどに、熱がこもってうるんだ瞳に捕らえられた。

「瑞希」

もの欲しげな、私のまったく知らない表情に、こわいと感じる。
だんだん近づいてくる顔に、思わずぎゅっと強く目をつぶった。
真っ暗な視界のなか、ふっと唇に生暖かい吐息がかかるのが分かる。でも、いつまで経っても覚悟していた感触はやってこない。
不思議に思って薄目を開けて見ると、少し困った様子の良玄の顔があった。

「そんなに脅えた顔をするな」

ぎゅっと鼻をつままれる。
加減はしているけど痛いそれにむっとすると同時に、いつもの調子の良玄にちょっとほっとした。
ゆるんだ私の表情をみて、良玄は苦笑する。

「ほら、やっぱりお前にはまだ早い」
「え?」
「お前舌入れただけで半べそかいてただろ」
「あ、あれは…!!」

そのときのことを思い出して顔に急激に熱が集まる。ゆでダコみたいになった私の顔を見て良玄が吹き出した。失礼な男だな。
ひとしきり喉の奥で笑うと、良玄は笑いすぎで目じりに浮いた涙をぬぐった。

「普通のキスだけでもいっぱいっぱいな様子の人間に、俺は無理強いなんてしないから安心しろ」

なだめるように手の甲で頬を撫ぜられる。

「じゃあ、今まで何もしてこなかったのは…」
「お前が怖がるからな」

何だ別に私に興味がないとかじゃなかったのか。ほっとすると同時に、ん?と思う。

「じゃあ、本当は…?」

おそるおそる私が聞くと、意地の悪い笑みが返ってくる。嫌な予感。
身をひねってよける間もなく、両肩をつかまれて首筋に顔をうずめられた。

「…めちゃくちゃに乱してやりたい」

かすれた囁き声と共に首筋にちぅ、と吸い付かれる。
腰のあたりや首筋がぞわぞわして、いてもたってもいられなくなった私は足をばたつかせて抵抗する。良玄もそれ以上何かするつもりはなかったようで、あっさりと離してくれた。
ソファのすみっこに避難して膝を抱える私を見て、良玄は一段と意地の悪い顔をする。
そうだった。今さっきの甘い雰囲気がイレギュラーで、本来はこういう意地の悪い男だった。
ぷんすかする私に「そう警戒するな」と言って良玄はコーヒーのマグを渡してきた。
「冷めるぞ」若干及び腰になりながらマグを受け取る私を見て、薄く笑った良玄は頬杖をつく。

「人の体験談がどうとか、恋人だからこうしなければいけないなんて、俺はないと思う」

コーヒーに口をつける私を見つめながら言う。

「大事なのは、本人達がどう感じているかだろ」
「どう感じているか?」
「お前、自分がしたいけど俺が嫌がることしたいと思うか?」

したいけど良玄が嫌がること?そもそも思いつかないんだけど、もし思いついたとしてもやらないだろう。嫌がる顔は見たくないし、困らせることもしたくないと思う。
首を横に振る私に、良玄は「そういうことだ」と言う。膝の上に置いた手に良玄の手が重なる。

「俺はお前の嫌がることはしたくない。お前の嬉しそうな顔が俺は一番好きだし、お前が嬉しそうだと俺も嬉しい」

いとおしげに細められた目に胸がはねた。良玄のなかが優しくてあたたかい感情に満たされているのが分かり、自然と笑みがこぼれる。
ああ。私も。

「私も」


あなたのしあわせが、わたしのしあわせです。 


(焦らなくていい。自分たちの歩調で。)
(「でも俺の自制も延々保わけじゃないからな。お前のペースに合わせてやるから慣れていけよ」)
(「…善処します」)
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