望むなら、いくらでも



雨のあとの空気は湿っていて少し土の匂いがする。
開けた窓から吹き込んでくる風にあたりながら、良玄は夏が近いなと思った。
雨独特のにおいに混じって草の青い匂いがするのは本格的な夏が近い証拠だ。
今はまだ雲が覆っているが、この梅雨が明ければその下から顔を出した太陽が容赦ない日差しをなげかけ干上がるような暑さになるのだろう。
スーツ姿でコンクリートジャングルのオフィス街を歩く身としては、強い日差しと暑さはかなり堪える。
梅雨明けは一週間後。それまではこの涼しさを堪能しようと良玄は涼風に目を閉じる。
風呂上りの火照った身体を冷やしてくれる風は、気持ちがよかった。
しばらくそうして窓際でじっとしていると、後ろで引き戸が開けられる音とともに少し濡れた足音が近づいてきた。
フローリングの床にぺたりと足裏がくっつく音が間近にする。
うっそりと瞼を押し上げて見やれば、目の前に瑞希が立っていた。

「疲れた?」

しずくの垂れる髪をタオルでごしごしと拭きながら聞いてくる。
気だるげな自分の様子に、仕事で疲れていると思ったのだろう。実際多少は疲れていたが、はっきりというほどでもなかったので良玄は「いや」と否定してみせる。

「風が気持ちよくてな」

言った瞬間、ふわりとカーテンの裾が揺れて強い風が部屋の中を吹き抜けた。
ああ。これはまた、気持ちがいい。良玄は力を抜くように息を吐く。
その合間でつと見やった先に、上気した頬にあたる涼風に心地よさげにほんの少し目を細めた瑞希の顔が映った。伏し目がちな瞳と赤い頬が色っぽい。

「夏の匂い」

ぽつりと呟かれた言葉は、先ほど自分が思っていたことと同じだった。
そのことが、少し嬉しい。心持ち口元をゆるめながら良玄は「こっちにこい」と瑞希を両足の間に引き寄せる。

「髪、ちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」

自分の足の間で体育座りになるように座らせ、頭にかぶせてあったタオルで瑞希の髪を拭いてやる。そうすると瑞希の肌から立ち上る熱気とふわりと香るシャンプーの香りが鼻をかすめた。
同じものを使ったはずなのにより甘く感じられるそれに、女を感じぞくりとする。自分の身体にすっぽりと覆われたこの柔らかな肢体を、征服したいという欲求が頭をもたげる。が、それは一瞬のことだった。
ぺちぺちと不満げに自分の手を叩く手にはっとする。
こちらを振り仰いできた瑞希の顔は自分が想像していた女の顔ではなく、ぶすくれた小さな子供のような顔をしていた。

「その言い方、やめてくれないか。小さな子供じゃあるまいし」

どうやらさっきの子供に言い聞かせるような言葉が瑞希にはお気に召さなかったらしい。
けれどそう言う姿はふてくされた子供そのもので、良玄は漏れ出しそうになる笑いを必死にかみ殺した。これで笑った日には猛烈に怒るに決まっているからだ。瑞希は子供扱いをされるのをひどく嫌う。
とはいえ、

「言われたくなければ今度からはちゃんと髪を乾かすんだな」

溜息まじりに良玄にそう言われてうっ、と言葉につまる瑞希。
良玄に子供扱いされるようなことを瑞希がしていることもまた事実だった。本人も自覚はあるらしく、ばつの悪そうな顔をしている。良玄はその顔を前に向かせ、髪を拭くのを続行する。

「雨に濡れて冷えた身体をせっかく温めたんだ。また冷やして風邪なんてひきたくないだろ」

もっともな良玄の言葉にぐうの音もでないらしい。髪を拭かれる瑞希は借りてきた猫のように大人しく、されるがままになっていた。
その背中はどこか気落ちしているようだった。しばらく何も言わずじっとしてる瑞希に、良玄はだんだん少しきつく言いすぎたかと思いはじめる。
そんなとき。
さざめきのような音とともに、さきほどより冷えた風が窓から吹き込んできた。
雨がまた降り始めたようだ。
良玄は窓を閉めようとそっとタオルから手を離し立ち上がる。そこで視界の端に見慣れないものがあることに気づいた。
窓の向こう。さっきまで自分からはカーテンの影になって見えていなかったところに、なにか植物の葉が覗いていた。
風にさわさわと揺れるそれは。
笹………?
思い当たった瞬間、良玄はそれが何かを理解した。今月は確か、

「あっ」

後ろでしまったというような声があがる。
しかし、もう遅い。
服の端にすばやく伸びた手をかわし、良玄は網戸をあけてベランダに出る。背中にあー…とかいう声が当たるが、無視だ。
ベランダの端っこには、予想していた通り手すりにもたれさせて括り付けた小ぶりな笹の枝があった。ところどころに七夕飾りがぶら下げられ、先端にほど近い部分にだけ一枚短冊が下げられている。
風でひらひらと踊る短冊をつかまえて裏返す。


逢いたい。


薄青色の短冊には、ただ一言そう書かれていた。
トメとハネをきっちりと書いたその筆跡は、瑞希のものだ。
ここのところずっと出張で瑞希に会えない日が続いていた。
口にこそ決して出さなかったが、瑞希は寂しく思ってくれていたらしい。
たった一言。けれどなかなか自分に甘えたがらない、甘えるのが苦手な瑞希の精いっぱいの願いに、良玄は胸が甘く締め付けられるのを感じた。
当の本人はというと、良玄がベランダから室内に戻ってみると、ほっかむりのように頭にタオルをかぶって、こちらに背中を向けて座っていた。
隠し損ねた耳の先が真っ赤に染まっている。
それに忍び笑いをしていると、それが分かったのか「見るな」という声がとんできた。

「…子供っぽいって思っただろ」

むすっとした声。
見られまいと必死に止めようとしたのは、それが原因か。
馬鹿だな。
良玄は肩で一つ息をつく。とっくに気付いていた。瑞希が年上の自分に合わせようとして必死に背伸びをしていることは。
だから寂しい時も寂しいとは口に出さないし、なかなか甘えてくれない。
それはそれで幼い少女が高いヒールを履いてお澄まししているようで可愛かったが、自然体の瑞希ではないし、良玄としても本音を言うと少し寂しかった。
反抗してくるのが可愛くてついつい子ども扱いしていじめてしまうが、良玄が一番好きなのは少し子供っぽくて、頑固で、寂しがり屋な瑞希だ。
良玄は手近にあった紙を細く破いて、そこら辺にあったペンで書き付ける。それを、座りこんだ瑞希の後頭部にたたきつけた。
すこし勢いをつけたそれに、ぺしりといい音が鳴る。

「った!何するんだ………」

涙目になって振り返ってきた瑞希の目の前に紙片をかざしてやると、急にその勢いが止まった。
見開かれる目。

「これでおあいこだ」

短冊のように細く切った紙片に、良玄はこう書いていた。


甘えろ。と。


最初は驚いていたが、瑞希の目がだんだん呆れたものになる。

「…それ、お願いじゃなくて命令じゃ……」
「命令だな」

良玄はあっさりと切り返し、瑞希を素早く抱きよせた。
あっという間のことに困惑して動きがとまった瑞希の耳朶に、唇を寄せる。

「わざわざ願わなくても、お前が望むことなら俺がいくらでもかなえてやる」

だから。

「甘えてくれ」

良玄の言葉に、両肩におかれた瑞希の手に力が入ったのが分かった。
それからほんの少しして、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声がする。

「……キス、してほしい」

顔を真横に向けてみると、恥ずかしさで目が潤んで真っ赤に染まった瑞希の顔があった。
その姿が、狂おしいほどに愛しいと思う。
けれど突き上げる衝動を抑え込み、良玄はいたって冷静に言う。

「おおせのままに」

まずは触れるだけのキスから。
瑞希の熱い頬を片手で包み込み、良玄は唇を重ねた。



*****************************

渚様、リクエストありがとうございました!
大変お待たせいたしました。
甘めでということでしたので、当サイトにしては珍しくとりゃーと砂糖大量投入。
甘えるのが苦手な彼女と甘えて欲しい良玄のお話でした。
七夕が近かったので七夕を題材に。
七夕の夜には、普段伝えられないことも短冊に託してみるのもいいですね。
ALICE+