過去拍手【黒子】



「あ」

ぱしゃん。
小さな水しぶきが上がる。
わたしのつまむ小さなポイの上から逃れた赤い金魚は、シフォンのような尾ひれを左右に振り、また無数の仲間と一緒に水槽の中でゆうゆうと泳ぎ始めた。

「あーあ…」

ポイには置き土産とばかりに、大きな穴がぽっかりと開いている。のぞきこんだ穴の向こう側にテキヤのおっさんのにやにや顔が見えた。

「お嬢ちゃん、おしかったねー」

「もういっぺんやる?」そう言って、おっさんは足元のダンボールから真新しいポイを取り上げる。しかし、これで2回目だ。これまでに計600円も使ったことになる。今わたしが持っている残金は1400円。そろそろ他のところもまわりたいところだけど…。
破れたポイを片手にわたしが悩んでいると、

「おじさん。一回、お願いします」
「あいよ!」

抑揚のない声とともに、わたしのすぐ隣から音もなく白い手が伸びてきた。手のひらの上には300円が握られている。
人がいるとは思っていなかったわたしはすごく驚いて後ろを振り返る。

「黒子君!?」

振り返った先には、同じクラスの黒子君がいた。

「こんばんは」

わたしの隣に中腰で立つ彼は、相変わらずの無表情で挨拶をしてくる。それに相変わらずの影の薄さだ。心臓が飛び出すかと思った。

「こ、こんばんは」

つられて思わず挨拶を返すわたしに、黒子君はポイを受け取りながらわたしの隣にしゃがみ込み、「一人ですか?」と首を傾げる。

「そういう黒子君こそ…バスケ部のみんなと一緒じゃないの?」

わたしの問いかけに、黒子君はゆらゆらと水が波立つ水槽を見つめながら「んー」と小さくうなる。

「最初はみんな一緒にいたんですけど…まず黄瀬君が女の子たちに囲まれて、それからみんなばらばらに…」

愚問だった。
そうだよね。あの個性のきついバスケ部の面々が最後まで一緒に行動していられるわけがなかった。それに、そもそも黒子君はこの影の薄さだ。きっとみんなとはぐれてなかなか見つけてもらえないのだろう。

「なんか…ごめん」
「いえ、いつものことですから」

黒子君はすくった金魚を入れる器を手元へ引き寄せながら、気にした様子も無く淡々と言う。そしてこちらをちらりと見やった。
君は?と言うような視線に、わたしは苦笑して「わたしも黒子君と似たようなカンジ」と答え、屋台から一歩外を見やった。
わたし達がしゃがみ込む屋台のすぐ外は神社への参道になっていて、一番賑わう今の時間帯は人でいっぱいになっていた。
最初はわたしも友達と一緒にいたのだけど、この人ごみではぐれてしまったのだ。おまけに浴衣に着替えたときにケータイを忘れてきてしまった。…自分の不注意とはいえ、せっかくのお祭りなのに今日はついていない。
ふぅと溜息をつき、屋台のほうへ顔を戻す。戻して、驚いた。

「…え?」
「あげます」

わたしの目の前には、小さなビニール袋に満たされた水のなかでゆうゆうと泳ぐ赤い金魚の姿があった。その隣には、それを差し出す黒子君の姿。
一体いつすくったのか。って、いや…そうじゃなくて。

「あげますって…それ、黒子君のじゃ」

わたしの言葉に、黒子君はゆるゆると首を横に振る。

「君のためにすくったんです」

だから君のものです。
おっとりとした雰囲気とは裏腹に、彼はきっぱりとした口調でそう言う。
そして黒子君は強引にはならない程度ではあるけど、わたしに金魚の入ったビニール袋を持たせると立ち上がった。

「あの…」
「迎えがきたみたいですよ」
「へ?」

もらったはいいけど、どうすればいいか分からなくてまごついていると、黒子君はそう言って人ごみのほうを見た。つられてその視線を追えば、はぐれてしまった友達たちが人ごみの向こう側からこちらへ来るところだった。
よかった。内心ほっと胸をなでおろす。本当は、一人で心細かったのだ。

「それじゃ、僕行きますね」
「あ、ちょっと待って!」

踵を返そうとする黒子君の腕を、わたしはとっさにつかんで引き止める。なんでそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、何か言わなければいけない気がして。

「…ありがとう」

迷った挙句、その言葉が口をついて出ていた。
黒子君はゆるやかに口の端を緩める。

「はい」

初めて、彼の笑った顔を見た。儚くて、優しい笑み。何か特別なものを見た気がして、わたしはどきっとした。
あれ?…黒子君って、こんなカンジだったっけ?
なぜだか顔に熱が集まる。
そして熱が最高点に達した瞬間。

「見つけた!!」

背後から鋭い声とともに、肩をつかまれた。
振り返れば、友達の一人が仁王立ちで目の前に立っていた。すごい形相でこちらをにらみつけるその姿は、まさに仁王像そのものである。
お、怒ってる!!
ものすごい威圧感にわたしは一瞬怯む。

「ケータイに電話かけてもアンタでないし、マジで変な男に絡まれでもしてるんじゃないかって、みんなでめちゃくちゃ心配したのよ!!」
「ご、ごめん。でも、黒子君が一緒に…」

そう言ってわたしは横を振り返り、

「あれ?」

さっきまでそこにいた黒子君がいなくなっていることに気がついた。

「黒子君って、同じクラスのあの影の薄い?」
「う、うん」
「どこにもいないじゃない」

友達の言うとおり、まさに影も形もない。
でも、確かにさっきまではいたのだ。
わたしは自分の手首にさげられたビニール袋を見る。そして、驚いた。

「あ」
「何?」

小さく声を上げたわたしに、友達は不思議な様子でわたしのほうを振り返る。

「どうかした?」
「…ううん。なんでもない。気のせいだったみたい」
「そう?」

友達はしばらく首を捻って不思議そうにしていたけど、結局わたしの言うとおりだろうと思ったんだろう。「じゃあ、見つかったことだし、ゆっくり遊べなかった分取り戻しに行こうか!」またみんなの先頭へ走っていくと、参道を歩き始めた。

「ほら、行こう?」
「うん」

別の友達に声をかけられて、わたしはみんなの後ろを歩きはじめた。歩くたびに、手元からちゃぷんという水の音がかすかにする。
袋のなかに満たされた水のなかでは、赤い金魚と黒い金魚がゆったりと尾ひれを動かしながら優雅に泳いでいた。









「黒子っちー、今までどこ行ってたんスか!?すっげー心配したんスよ!!」
「すみません、黄瀬君」
「いきなり走っていくから、びっくりしたじゃないスか。一体どこ行ってたんスか?

「…内緒です」
「えぇーっ!!!??」
「黄瀬ぇ、さっきからうるせぇんだよ」
「同感なのだよ」
「黄瀬ちん、マジうるさい」
「黄瀬、ハウス」
「みんなひどいっス!!!」
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