過去拍手【山崎】



9月1日。二百十日になった。
二百十日というのは9月の季語の一つだ。9月1日が立春から数えてちょうど二百十日にあたり、台風が相次いで襲来する頃だということで台風の多い頃というニュアンスもこめられていると、先週古典の授業で土方先生が言っていた。
だからくれぐれも傘を忘れないように、とも。
しかし正午直後で満腹になり、激しい眠気に襲われていた私はこのときになるまでそれをすっかり忘れていた。
そう。
近づく台風で学校の外が豪雨に見舞われるまで。

「…うそでしょ」

ばたばたとパチンコ玉並みにみえる雨粒がグラウンドの土の上ではねる。というか爆ぜるとう表現が一番近い。雨どいの排水口からはひっきりなしに大量の雨水が吐き出され、風で運ばれてきた雨によって玄関口はすでに水浸しだった。
履き替えはしたが、外のあまりの惨状にローファーのままその場に立ち尽くす。
…油断した。
朝は晴れていたし大丈夫だと思って傘を持たずに出たらこれだ。傘を持って出たときは晴れるのに、傘を持たずに出たときほど雨が降る。いつも狙っているのかとさえ思うほどだ。あーあ、昨日ゲームなんてしてないでちゃんと天気予報をみておくんだった。なんて今更後悔しても仕方ない。

「弱まるまでしばらく避難させてもらおうかな」

溜息をついてローファーからまた上履きに履き替え、私は玄関口を後にした。
向かった先は保健室。

「山南先生、いる?」

もう顔なじみになった保健室の先生の名前を呼びながら入口の引き戸に手をかける。
がらりという音とともに扉を開けた先には。

「山南先生なら会議でいないぞ」
「げ、」

苦手な人間の顔があった。
パイプ椅子の上に座ったその姿を目にするなり、私は今すぐにでも逃げ出したくなったが、あいにく今日は逃げこむ場所がない。下校時刻を少しまわった今は、どこの教室ももう閉められ始める頃だからだ。
私はしぶしぶ保健室に入ると後ろ手で扉を閉めた。

「…なんで山崎君がここにいるのよ」
「…いては悪いのか」

小さく呟いたつもりだったのだけれど、耳ざとい山崎君にはしっかりと聞こえていたようだ。眉をひそめる山崎君に私はそっけなく言い放つ。

「別に」

悪いとも良いとも言っていない。ただ、できれば顔を合わせたくないと思っているだけだ。
視界の端に溜息をはく山崎君の姿が見えた。
きっと向こうも同じことを考えているのだろう。
私と山崎君はどうにも折り合いが悪い。嫌いというわけでもないけど、今は好きでもない。はっきり言ってよく分からなかった。
山崎君といえば斎藤君につぐ生真面目さで、折り目正しいんだけどあんまり笑わなくて、何を考えているのかよく分からないというのが私の印象だった。
保健委員の彼と重い月のものでほぼ毎月保健室通いをしている私は顔を合わせる機会がよくあって、最初は私も挨拶をしたりしていたのだけど、彼のいつまでたってもよそよそしくてそっけない態度にだんだん嫌われているのではないかと思い始めるようになった。
真面目な彼にとって、派手に見える私は苦手なのかもしれない。
それ以来私もだんだん彼を避けるようになり、今に至るというわけである。
自分を苦手だと思っている相手に歩み寄るというのはなかなか難しい。嫌な顔をされると思うと自然と顔を合わせたくなくなる。
だから山崎君にとっても自分にとっても、きっとできるだけ顔を合わせないほうがいいのだと私は考えている。精神衛生的に。
なるべく視線を合わさないようにと、窓辺のベッドに腰掛けた私は窓の外をぼんやりと見つめる。
薄暗い窓の外をはっきりと見通すことはできない。ただ窓ガラスを打つ雨の音だけが聞こえる。
無為に時間が過ぎるというのは、退屈だった。
だからだろう。

「なんで帰らないの?」

なんて山崎君に声をかけたのは。
そのまま無視されるだろうと思っていたんだけど、意外なことに山崎君はちゃんと返事を返した。私の言葉に一拍置いて声だけが返ってくる。

「雪村君に傘を貸したんだ。…こんな雨の中傘なしに帰ろうにも帰れない」

彼もまた似たような理由でここにとどまっているようだった。
それよりも雪村とは1年の雪村千鶴ちゃんのことだろうか。私の意識は理由よりも返事のなかに出た名前にひきつけられる。
確か彼女も保健委員に所属していて、そのつながりで確か山崎君とも仲が良かったはずだ。
おっとりとして大人しそうな彼女の顔を思い出す。廊下ですれ違ったときに見た二人は気がよく合っているようで、そのときは珍しく山崎君も笑っていたような気がする。
暇だということも手伝って私のなかのイタズラ心が頭をもたげた。

「へー、山崎君って千鶴ちゃんのこと好きなの?」
「なっ」

にやにやしながら後ろを振り返って言う私に、山崎君は見るからにうろたえたようだった。
慌てて言葉を詰まらせる。

「なんでそうなるんだ!」
「だって傘貸してあげたんでしょ?自分が帰れなくなるって分かってるのに貸してあげるって、好きじゃないとなかなかできないと思うけど?」

期待通りの反応に私はにやにや笑いを深くして言葉を重ねる。本当は何もないと分かっていたけど、茶化してみたくなった。
真面目でこうゆう手のことが不得手だと思われる山崎君は、案の定私の思惑通り顔を赤くする。

「た、確かに後輩として彼女のことは好ましいと思っているし困っている彼女を助けたいと思ったのも事実だが、君の言っているような感情では断じてない!!」

半ば叫ぶように言う。
私がそうなるように仕向けたとはいえ山崎君はかなり興奮していたのだろう。きっと自分でも少しわけが分からなくなっていたんだと思う。
だから。

「だいたい、俺が好きなのは君だ!!!」

勢いのまま堰き止めていたものが出ちゃいました。
次の瞬間そんな感じでとんでもない爆弾が投下された。
爆弾の威力は絶大だった。最後の一音を言い終えるや否や、先程の騒がしさが嘘だったように部屋の中が静かになる。山崎君は自分がいった言葉のとんでもなさに。私は言われた言葉の突飛さに硬直してしまったからだ。
なんともいえない雰囲気が二人の間を漂う。
表面的には静かだけど、内心互いに軽くパニックを起こしていた。
え、「すき」って「好き」だよね?で、私のこと指してたよね?
ややあってようやくパニックを起こしていた頭が落ち着いて、問題の一言を処理し終える。
理解した途端急激に顔に熱が集まってくるのが分かった。何せ異性にこうやってはっきりと好意を告げられたことが一度もなかったのだ。パニックになった頭は「いや、冗談でしょ」とも考えたけど、相手はあの山崎君だ。彼の真面目な性格上そんなことをするとは考えられない。だとすると残る答えはひとつだ。それでもあまりの恥かしさとありえなさに、私はごまかすように笑う。

「いやいやいやいや!冗談でしょ!!?」
「冗談じゃない」

しばらく時間が経って山崎君も落ち着いたようだった。声音に先程の慌てた様子はない。
しかし顔はほのかに赤らんだままだった。

「本気だ」

熱に浮かされたようにうるむ目に見据えられ、さすがの私も笑ってはいられなくなった。今度は私がうろたえる番だった。

「でも山崎君私に対してそっけなかったじゃない」
「それは…意識しすぎて接し方が分からなかったからだ」
「避けられもした」
「顔を直視できなかったからだ」
「無視された」
「返事を考えている間にあんたが行ってしまった」

パイプ椅子から立ち上がった山崎君によってじりじりと距離を詰められる。窓際のベッドの上に腰掛けた私に、もう逃げ場はない。体重を支えるためにベッドについた両手を握り締められる。

「避けないでくれ」
「…先に避けたのは山崎君でしょ」

あまりにも近い距離に顔を背けながら怪訝な顔をする私に、山崎君は少し悲しそうな顔をする。

「俺のことは嫌いか?」

苦しげにつむがれる言葉に、私は弱る。
嫌いではない。本当は真っ直ぐな彼に対してむしろ憧れのような感情さえ抱いていた。だから彼のどこかよそよそしい態度に落胆を感じて、だんだん避けるようになっていたのだ。
しかしそれをはっきり言うのも恥かしくてはばかられる。
結局私は一番あいまいな言葉を選んだ。

「…嫌いじゃない」

雨音にまぎれそうなほど小さな声だったけど、山崎君はしっかり聞き取ったみたいだった。両手を掴む熱い手に力が入ったのを感じて山崎君のほうをちらりと一瞥する。嬉しそうにほころんだ彼の顔に胸が鳴った。
こんな顔ははじめて見る。

「好きだ」

繰り返される言葉に、私も小さく頷く。
重ねられた唇は、雨の冷たさに反して燃えるように熱かった。
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