告白


お昼休憩が終わり、食堂から教室へ戻ってくるとざわざわと騒がしかった。
何だろう?
不思議に思って騒ぎの中心をのぞいてみると、皆川さんが友達に背をさすってもらいながら机につっぷして人目をはばからずに泣いていた。
激しい泣き方だ。何かあったんだろうか。
押し殺した嗚咽に胸が痛み、不安になる。
人の泣いている姿というものは、見ているこっちまで悲しくさせるものだ。
見ていられなくて思わず視線を逸らすと、後ろにいた友美と目が合った。
友美は困ったふうに苦笑いする。

「フラれたんだって」
「え?」

誰が誰に?
唐突に言われた言葉の意味をつかみそこねて聞き返すと、友美は今度ははっきりと告げた。

「皆川さん。三年の原田先輩に告白したらしいんだけど、『好きな人がいるから』ってフラれちゃったらしいんだわ」

そりゃショックよねー。
同情をこめて、だけどあくまで軽い口調で友達が言う。
けど、その言葉はほとんどわたしに届いていなかった。
まるで水の中にもぐったときみたいに、まわりの音がずっと遠くから聞こえてくる。



原田先輩に、”好きな人”がいる………?



その一言に、わたしは捕らえられていた。















きっかけは、ささいなことだった。


「これで良かったか?」


進路指導室の棚でお目当ての大学受験用の赤本を見つけたものの、背丈が届かなくてめいっぱい手を伸ばしていると、後ろから手が伸びてきてその本が抜きとられた。
驚いて振り返ると、上級生らしい背の高い男子生徒が後ろに立っていた。
ブレザーの校章が青だから新三年生だ。
どうやら彼も資料を探しにきたらしく、脇に何冊か学校のパンフレットを挟んでいた。
本を手渡され、見知らぬ上級生に助けられたことにわたしはちょっと萎縮しながら感謝の言葉を伝える。

「あ、ありがとうございます」
「他に何かとりたいものとかあるか?」

上の段でとりたかった本はこれ一冊だ。
わたしはふるふると首を横にふった。
それを見て彼は「そっか」と口元をゆるめた。
目を細める笑い方が印象的な、優しい笑顔だった。

「勉強頑張れよ」

部屋を出る間際に、彼はそう言ってわたしの頭をぽんぽんとなでて出て行った。


優しい先輩。
それがわたしの原田先輩の第一印象だった。


思えばそのときには、先輩のことをすでに好きになっていたんだろう。
いつの間にか廊下ですれ違うときに自然とその背を目で追うようになっていたり、先輩の笑顔から目がはなせなくなっていることから、あるとき自分の気持ちに気がついた。
そうか、わたし原田先輩のことが好きなんだ、って。
でも、自覚すると同時に大変な人に恋をしてしまったとも思った。
面倒見のいい性格で、顔立ちも整った原田先輩は、女の子たちにとてもモテたからだ。
”学校一の色男”というのが先輩の評判で、バレンタインになれば女の子たちから段ボール箱いっぱいになるほどのチョコをもらい、下駄箱には月に3回以上はラブレターが突っ込まれているという噂だった。
わたしのクラスのなかにも原田先輩のことが本気で好きだという子は多く、恋敵はそこら中にいた。
でも、それでもわたしが安心していられたのは、先輩は告白されてもすべてことごとく断っていたからだ。
自分も玉砕するのが怖くてなかなか思いを伝えれずにいたが、わたしにもまだチャンスはある。そう思えた。
なのに…


好きな人がいるって………


そのことを思っただけで、胸が握りつぶされたかのように痛んだ。
先輩が他の誰かのことが好きだなんて、考えたくもなかった。
名前もしらない相手に、じりじりと胸がやけるような嫉妬を覚え、そんな醜い自分に嫌悪した。
こんなことなら、玉砕覚悟で告白しに行けばよかった。フラれたらどうしようと思ってなかなか自分の思いを伝えられずにいたことにわたしは後悔した。
だんだん暗い感情が胸のうちに滞ってきて、鼻の奥がつんとしてくる。
やばい、泣きそう。
うるむ目元を袖でぬぐって、わたしはいつものようにふるまおうと努めた。
下校時刻で人が少ないとはいえ、図書室で泣くわけにはいかない。誰かに見られでもしたら、もっとみじめになる。
早く学校を出て、家で思い切り泣きたい気分だった。

さっさと終わらせよう。
わたしは高い本棚の間をぬって、メモしておいた宿題のレポートに使う資料を手早く選んでいく。
ところが、最後の一冊だけ手がなかなか届かない場所にあった。
くっ、こういうときだけは小柄な自分の体格が憎い。
つま先立ちして取ろうと手を伸ばすが、本の背表紙の下のあたりに当たるだけで抜き取るにはいたらなかった。
専用の脚立を使おうと思って周りを見渡してみるのだが、誰かが使っているのかいつもの場所にない。
仕方ない。近くの椅子でも使うか。
そう思って、本棚から離れようとしたときだった。

「この本か?」

背中に大きな気配を感じたかと思うと、真上から取りたかった本が差し出された。
驚いて上を見上げると、前に見たときとまったく同じ笑顔があった。
目を細めて、彼は笑う。

「前と同じだな」
「あ…」

覚えてくれていたんだ。
原田先輩。そう言おうと思ったが、言葉がのどにはりついてしまったかのようにうまく出てこなかった。
逢いたくて、今一番逢いたくない人。
先輩の顔を見た瞬間に、嬉しさとか悲しさとか、堰を切ったように色んな思いがない交ぜになって胸から溢れ出し、それと一緒に涙が出てきそうになる。
ダメ。泣いちゃダメ。
そう思うのに、視界がぼやけて頬に生暖かいものが伝った。
いきなり泣き出したわたしに、先輩は動転したみたいだった。心配そうに眉を下げて「お、おい。大丈夫か!?」とうろたえながら言う。
ああ。わたし、今先輩に迷惑かけてる。

「大丈夫です」

そんな自分にまた嫌気がさして、そう言って強がって袖で涙をぐしぐしとぬぐうのだが、涙は一向に止まらなかった。
両頬に涙がいく筋も流れていく。

「ちょっとコンタクトがずれちゃって…」

だんだん声まで震えてきた。
止まってよ。
こんなひどい姿先輩に見せたくないのに。
鉛を呑んだように、胃の辺りがいっそう重くなったときだった。
肩に何かが触れて、ふわっと引き寄せられたかと思うと、白い布に顔を押し付けていた。
白い布がシャツで、先輩に抱きしめられたんだと理解するのにわたしは少し時間がかかった。
突然のことに言葉がでなかった。
なに、どうして?
疑問だけが頭の中を飛び交う。
原田先輩は何も言わない。
ただ、抱きしめる腕にぎゅっと力が入った。シャツ越しに伝わってくる先輩のぬくもりが心地いい。「泣いていい」とばかりにぽんぽんと優しく背中を叩かれて、わたしは声を押し殺して泣いた。
今だけは、先輩の優しさに甘えたかった。





「落ち着いたか?」

ひとしきり泣いて、涙が引っ込むころに先輩はそう言ってわたしを放してくれた。

「…いきなりごめんなさい」
「ああ。急に泣き出すもんだからびっくりしたけどよ、…なんか、つらいことでもあったのか?」

心配そうに顔を覗き込んでくる先輩に、言葉がつまった。
あなたのことで泣いていました。とは言えなかった。これ以上先輩を困らせたくなかった。
だからわたしはあいまいに笑って、

「どうして先輩は、わたしに優しくしてくれるんですか?」

代わりにそんなことを聞いていた。

「先輩には、好きな人がいるんでしょう?他の女の子にこんなことしていたら、勘違いされちゃいますよ」

苦笑してみせて言うが、ちゃんと笑えているか不安になった。
言っていて、胸がすごく苦しかった。
ああ、そうだなと頷いてください。わたしがちゃんとあなたをあきらめられるように、わたしにこれ以上望みを持たせないで。
――けれど、先輩の口から出た言葉は、わたしの予想のはるか斜めをいくものだった。


「まいったな…」

ぽつりと呟くように言った先輩は、困ったような顔をしていた。

「勘違いも何も…俺はお前のことが好きなんだが?」
「え…」


頭が真っ白になった。
聞き間違いだろうか。
今、先輩が…


「聞こえなかったか?」

呆けているわたしに原田先輩はふっと苦笑して、顔を近づけてきた。
後ろに逃げようとするのだが、本棚に背中がぶつかって逃げられない。

「俺が好きなのは―――瑞希、お前だ」

真摯な、だけどどこか熱っぽい目で見つめられたかと思うと、唇に柔らかなものが押し当てられた。
そっと触れるだけの優しいキスに胸が甘く締め付けられた。
苦しい。
けど、さっきの苦しさとはまったく違うものだ。

「……指導室で会ったときから、ずっとお前のことが忘れられなかった」

先輩の指が涙の跡をたどる。

「お前は、俺のことどう思ってる?」

じっとわたしの両目を見て、先輩はわたしの返事をまつ。
先輩の熱をはらんで少し潤んだ目と頬に、頭がしびれた。
わたしのことが欲しいと、何のためらいもなく物欲しげな目を向けられて、これは現実なんだとやっと実感した。
それと同時に、返すべき返事も浮かんだ。

「わたしも」

ほんのちょっと間を空けて、今まで言えなかった言葉にたくさんの気持ちを乗せて伝える。



「原田先輩のことが好きです」





わたしも、先輩のことが忘れられませんでした。
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