第三夜
久しぶりの暖かい水に密かに沸き立つ。それが湯船にもつかれたのだから喜びも一塩。完全に脱力して疲れを癒やす。
 この新宿のビルは水を貯められるシャワーも完備していた。ホテルで見かけるトイレと繋がっている、あれだ。きっとボロボロになる前は大層有名な高級ビルだったのだろう。
…それにしても、水やら明かりやらは扱う人がいないのに何故延々と付いていられるのか。これも魔術の力というやつなのだろうか。全く摩訶不思議な世界である。

 一通り流し切ると、そろそろ良いかと栓を抜き水を止める。髪と身体を乾かすため早々に外に出た。

「いよっ。髪を乾かしにきてやった…ぞ!?」

 手にしたボトルを顔面にぶん投げる。見事にクリーンヒットして顔を抑えたすきにタオルを身体に巻いてシャワー室に籠もる。
最低。変態。死して詫びろ。

「いきなり何するんだ子猫!自慢の顔が歪んじまっただろぅ!」

 うるっさい馬鹿。そして死して詫びろ。

「…えーと、何か悪いことやらかしたか、俺?」

 乙女の裸姿を無断で見た瞬間に有罪は確定です。何の為にわざわざ個室を借りたと思っているんだ。一人の時間をゆっくり堪能したいと思っていたのに…干からびる私の純情。あなたは私のプライベートまで侵害するおつもりですか。阿呆なんですか。

「…あー…そうだったそうだった…確かに当然だよなぁ…悪い」

 突然塩塩と謝り出すが、悪いと思っているのなら最初から入らない・見ない。そして早く部屋から出ていってください。そう捲し立てるとドアがガチャりと閉められる音がする。…どうやら本当に出ていったようだ。そう思ってテキパキ下着をつけ雑に身支度を済ませると安易に扉を開ける。…開けるんじゃなかった。

「…あら、もういいの」 

 まったく見慣れない黒のパーカーを着た美人白髪の美人さんが立っていた。吊り目がちな目に宿る薄黄の瞳がついとこちらに向けられる。え、誰だ。どちら様だ。パニックになる私を他所にじっと彼女は覗き込んでくる。

「…ほら。何してんの、さっさと入れて」

 美人さんは一言告げると強引に中に押し入り、私に座るように促す。髪がまだ濡れているから乾かしてやる、とドライヤーを片手に手招きされ、微妙な気持ちになりつつ有無を言わさぬ勢いに押されるままに言われたとおりにする。彼女は存外に優しい手付きで私の髪をドライヤーに近づけ、櫛で丁寧に梳いていく。

 当然違和感はもつだろう。突然登場したサーヴァントが、こんなふうにパーソナルスペースを狭めて私と接しているなどと。初対面にしては馴れ馴れしい気がしなくもない。もっとも、その考えは直ぐに間違っていないと分かることになる。沈黙に耐えかねて、私はそのまま一つの可能性を提示した。何やってるの、変態さん。

「____バレちゃったか」

 そりゃバレる…と言いたいところだったが、正直あまりに雰囲気が違っていたので騙されるところだった。こんなにも偽装が巧みなのか。気づいた途端、頭に当たる手は大きく硬いものに変わっていたし、きっと姿形も戻っているのだろう。
それにしても、わざわざドアを開けて閉める手間まで入れて私をおびき出したのは何か意図があってのことなのか。

「いやいや、俺ってば人格ごと化けることが出来る訳だから、さ。俺じゃない女性に成ればこの問題も解決ってことには…ならなかったか」

 当たり前だ。大人しく出ているというのが最適解だったのに何故わざわざ残っていたのか。…もう尋ねるのも馬鹿馬鹿しくなってきて素直に身体を預けていた。
しかし、彼が私をどうしたいのかが一向に分からない。殺そうとしたり、殺さなかったり、手懐けようとするかと思えば壊そうと迫る。

「さっきのはジョークだよジョーク。実際はサーヴァントはマスターを殺すことは出来ないからな。だからあんたはやっぱりペットな訳で…お互いウィンウィンな関係とも言う!」

 ああ、殺せなかったのか…と思うとともに、まったく考えもしなかった話題が登る。ウィンウィン?一方的な勝ち逃げではなくて?

「俺はあんたと契約して霊器を保てる。んで暇つぶしにあんたで遊べる。んであんたは俺の助けもあり美味い飯、快適な生活を堪能できる。…ウィンウィンだろ?」

 相手側の利益が私にとって碌でもないことは置いておいて、私は今までその快適な生活とやらを味わったことがあっただろうか。

「…でも、あんたあのまま拾われてなかったら死んでたぜ?こんな人もいない場所に概念だけ存在してるもんだから目を疑ったなぁ…魔力で繋ぎ止めないと消えてただろうし」

 …がいねん?概念ってあのもやぁとした、実態のつかめない存在のことか。そんな訳はないだろう。流石に幽霊ですと言われているような話には同意出来ない。私には五感はある。相手も私が見える。捕らえられる。それもジョークか。笑みを浮かべて相手を見るが、あくまで相手は真剣だった。

「…信じるのが難しいだろうけどな。幽霊、ていうのは的を射た例えだ。あんたは死んだのかも、生きているのかも分からない。まともな人間はひとり残らず死んだこの世界に僅かな魔力だけで漂ってたもんだ…いや、驚いた」

 …到底信じられるものじゃない。私が既に、死んでいるかもしれない?私はこうして息をしている。話を聞くと私がまるで未練を残した亡霊のようではないか。これだけ死にたくないと足掻いておいて、今更死んでいたなどと告げられるのは…余りにも胸糞悪い。

「あくまで可能性の話だ。あんたが違うってんなら、そういうことにしておくかぁ」

 相手はさして興味はなかったようだ。それきり黙ると私を外に出るように促す。急にとんでもない話をされたことへの動揺に咎めるように相手を睨みつつ、言われたとおりに廊下に立つ。シャワーの件でごたついたが、それとは別に私にはやることがあった。
 彼にも許可は取ってある。同行する条件付きで私はこの館内を散策することができた。他に服もないからそのままの物を着直し、私達はエレベーターの前に辿り着く。こちらも何故か壊れる階の手前まで稼働しているらしい。

チン、とベルが鳴り二人で中に乗り込む。まず上から下っていく形で歩くことにした。エレベーターはなんら機能に問題なくゆっくりと上へ上昇し始める。

「なぁ子猫」

 …だから子猫って。後ろにいる彼に生返事で返す。

「少し思い出したことがある」

 少しだけな。そう言って身体を頼ってくる相手を背中で押し返しつつ話を聞く。そんなに短時間に何か思い出せたのか。私は全くなのだが。

「いやな、あんたの言葉に何か引っかかる物があって考えてみたのよ。…どうやら俺は主という物にマスター以上に拘りをもつ人間だったらしい」

 確かに、私がマスターではなく主と偶々叫んだとき彼は明らかな動揺を見せた。そして…諫言、がどうのと言っていた。漢詩の単語で知っていた。それは目上の人を諌めるという意味のもの。それが彼の出自に纏わるワードだったのか。そうかもしれない。

「…妙な話だ。あんたが来るまで何も分からなかったのに、来た途端少し何か思い出した」

 …そうか。それは何より。何故私が彼と出会うことになったのか相手も私も分からない。しかしその事が契機となって記憶が戻ることが確実なら、一緒にいて損ばかりではないのかもしれない。
 とはいえ、距離感はもう少し遠くしてほしいものだ。現に人の気も知らず相手はよりこちらにしなだれかかり、頭を首元に近づけてくる。居心地の悪いせいで胃がむかつく。

「…考えてなかったが、あんたにもっと近づけば色々思い出せんのかねぇ…あんたも気になるだろ?」

 耳元で囁かれたところで居心地の悪さは限界を迎えた。ぞわりと身体が跳ねるとともにドアがあき、私は相手に渾身のアッパーをかまして出る。

 
 随分掃除していないのか、上はより悲惨な場所になっていた。割れたガラスがむき出しになり、破片が至るところに飛び散っている。凡そ会社のオフィスにそぐわない場所に剥き出しにある光景を目に留めつつ、私は内部に潜入する。

 広いホールのような場所だった。天井は頂上を起点として放射線上に広がり開放感がある。細い支柱が幾つも建てられており…そこまでならまだ普通だが、中央にどんと置いてあるものが取り分け目を引いた。なんだろう。…クリスタル、のような。

「おーい、子猫、どこに…って、あぁそこ…」

 神秘的でいて、きな臭い。ひし形の立体は形は綺麗に保たれてはいたが中は暗かった。モニュメント、なのだろうか。彼はゆっくり隣にきてため息をつくと、徐ろにそれを指差す。

「あれは諸悪の根源。魔力が溜まっていた場所さ。ここで俺達は召喚された。ここで全てが始まり、全てが終わった」

 やはりこの世界は『何か』が起こった後の世界で、とうに過ぎ去った時間軸だった。この場所が、始まりと終わり。一見すると奇妙だが、特別何か良からぬものが潜んでいた印象は感じられない。会社の中のインテリアスペースと片付けられそうな場所で、どんな事を企て、達成しようとしたのだろう。

「さぁな。もう昔の話だ。特に何か目的があって動いてた訳じゃなかったからな…どうでも良かった。結局、計画はおじゃん、何もかも失って、俺は意図があろうとなかろうと行動すること自体に意義を見出だせなくなった」

 召喚されたときからブレた思考を持っていたのかと聞くと、そうではないらしい。ただその時仲間とは主従でなく同盟関係で、いざとなれば消される程度の仲だったらしい。疑心暗鬼に動いていて、長くそうしている内に理由を失ったのだとか。

「…その顔を見るに同意してなさそうだな」

 私の所感は…あまり良いものじゃない。同盟を結んで彼らがしたことは決して良いことではなかったのだろう。

「そうさ。ありとあらゆる悪事を働いた。男は殺し合わせるか配下に置き、女は犯し、子供は中身も外見も利用した。それもまた、大きな目的あってのことじゃなかったからな」

 日頃から意味のない行動ばかりやっていたから、余計破滅したんじゃないのか。私にはそれが自業自得のように思える。きっとそれは、前の彼ならやり得ないことだったのだろう。
元の自分の中で禁忌としていたことを冒したから、あなたはあなたでなくなったのではないか。

「……手厳しいねぇ…ま、否定はしないが。…じゃあ罰が当たったんだな、きっと」

 へらへらと笑う相手を置いてそのクリスタル状の物に触れてみる。少し冷たい。中は空っぽで何も含まれていないようだ。…私の記憶に関する手がかりは、ここにはなさそうだ。
 一通りあたりを捜索してもめぼしいモノは見当たらず、落ち込む私を不思議そうに彼は見つめる。

「…そんなに自分のことを思い出したい?」

 勿論。でないと何故ここに私がいるのか、これからどうしていけばいいのかずっと分からないじゃないか。

「記憶を戻さなくてもちゃんと生きていけるのに?取り戻したって辛いだけかもしれないよ?」

 仮に、記憶が有る私が彼以上に最低だったとしよう。確かにそれなら思い出さない方が良かったかもしれない。…それでも、元々私の身体は『私』の物だから。どんな『私』でも、私は『私』を死んだことにしたら行けない気がする。

「……そういうもんかねぇ」

 案外興味はあったらしく、私の顔をじっと見つめたあと腕組みをして目を閉じる。それはほんの数秒。次に目を開けたときには、彼はいつもの飄々とした調子に戻り、薄笑いを浮かべながら次へ行こうと私を案内した。
3/8
prev  next