第五夜
ここに誘拐されてから、恐らく数日。天文学には詳しくないので、月の変化で経過した日数が分かるはずもない。おまけに何日も陽光を浴びないから常に生活リズムが狂う。
 重たい瞼をこじ開けて、私は大きく伸びをする。未だ眠たい気持ちを押し殺し、顔を洗って個室の外に出る。彼を探すといつもの場所で呑気にコーヒー片手にくつろいでいた。何かを読んでいるようだ。
 目敏くこちらに気づいて顔を上げると、おはようさんと声がかかる。

「すぐ目が覚めるキツイ奴を用意した。あんたも飲みな」

 テーブルには彼の位置の真正面に白いカップが湯気を吐いていた。私のために作ってくれたのか。驚きつつ素直に礼を述べて席につく。
取っ手から持ち上げて小さく匂いを嗅ぐ。どこか馴染みのある濃厚な匂いだ。幾分か覚めており火傷するほどの熱さはないと判断して、そっともう片方の手を底に添えて軽く口にした。…むせた。

「おいおい、大丈夫か?ガッついて飲むなよ」

 心配する口ぶりを他所にニヤついてる相手に構う暇もなく、必死に咳をして異物を出そうとする。辛い。ヒリヒリというよりツーンとして鼻にくる辛さだ。あえて言おう。…やりやがったな!!
 私が叫ぶと相手はとうとう堪え切れずに笑い出した。

「哈哈哈!ここの辛子は中々キツくてな!わさびって言うらしい。そら、目が覚めただろう?」

 最早いじめだ。いつまでも笑い続ける相手にムカついて彼の手にあるコーヒーを引ったくる。スルリと抜けたそれを相手が間抜けな声を出したと同時に口にする。…うん、辛くない。やっぱりただの嫌がらせじゃないか。

「そうだけど?じゃなきゃそんなもの混ぜたりしないよ」

 極めつけはこの態度。言うまでもなく確信犯である。私は叩きつけるようにカップを置くと、喚き散らしたくなる衝動を抑え、相手を睨みつけながら問う。今日も私は中にいなければならないのか。

「あぁ、そのこと。そうさなぁ…ずっと建物の中って言っても気が滅入るだろ。特別に連れて行ってやるよ」

…本当に?聞き間違いではなかろうか。しかし確かに外へ連れて行ってくれると言った。そうか、やはり近い未来の話だったのか。
 予想はしていても嬉しいもので、初日以来見ることが出来なかった新宿という場所をまた訪れることが出来る。そう思うと自然に顔が綻ぶ。
 私の反応に気を良くしたのか、口笛を吹いて反応する彼に早く行こうと急かす。色々と見て回りたいし、きっと何か手がかりがあるはずなのだ。そう思うと気が急いてしまうのは致し方ない。

「落ち着けよ。といっても、今回はそう遠くに行かないからな。ちょっくらブラリと夜を楽しむってだけ」

 それでもいい。想定内の条件だ。私は立ち上がって靴で地面を軽く叩く。気分はやはりプチ旅行。この閉鎖空間に出られるならどんな事も平気である。

「そ。楽しそうで何より。…それじゃ、こっち来な」

 ちょいちょいと手招きされ、疑問符を浮かべながらも応じる。相手のそばに来るが早いか、肩をつかまれてぐいぐいと引っ張られる。中々に痛い。…自分で歩ける、と振りほどこうとしたが意味もなくホールドされたままエレベーターに押しやられる。片手で私を抑え込んだまま、相手は躊躇なく上ボタンを押した。
上ボタン?何故、上に行く?問いかけようと彼の顔を正視した。
笑みを浮かべ、あくどい表情になっている。手遅れながら気が付く。あ、これ悪い話だ。

 
 数時間後、私はビルから落とされて絶叫していた。
…いやいやいや何ムリムリムリ!!何この状況!?

「いやっほぉぉぉう!!」

 私を抱きかかえて落ちる彼とともに叫ぶ。両者意味合いは全く違うもの。
 説明なしに行けるところまで行けば、ひょいひょいとビルの上のむき出し部分まで上がられて、ダイブ。流石にその段階で察して死力を尽くして暴れたのも空しく、私は空を舞う。奴め、ついにタカが外れたのか、元々ないようなものだった物が!叫ぼうがわめこうが臓器という臓器が浮かび、否応なしに地面がどんどん近づいてくる。これは死ぬ。絶対に死ぬ。反射的にギュッと目をつぶった。

「しっかり掴まってな」

 浮遊感が無くなり、かわりにとんでもない力が下にかかる。グッと首にまわす力を込めると、彼も私をしっかりと抱え直した。浮遊、落下、また浮遊。しかしいくら待っても墜落という予想していた衝撃が来ず、やがて私は恐る恐る目を開けた。

…光。街灯の光、ビルの光。沢山の輝きがそこにはあった。空に星はない。それを埋め合わすに余りある光が、眩しすぎるほど瞬いている。
私達は車道上に点滅する信号機の上に立っている。
彼は大きく跳躍すると、電柱の上にまた足を下ろす。次いで他の柱、また他のとゆっくり飛び回っている。
 段々慣れてくるとまわりに目が行くもので、車一つ通らない道の脇を軽やかに移動する私達は、無数の光に包まれている。光を発さない私達は、きっと外から見れば陰に見えるだろう。

「中々良いもんだろ」

 他所を見ながら彼は笑う。それは何時ものあくどい笑みではなく、純粋に楽しんでいるようだった。何を言うこともなく、静かにうなずく。
とても綺麗だ。こんな幻想的な光景、前に見たことあっただろうか。

「人もいない、この悪くない景色を独占できるんだ。これほどオトクなことはない」

 確かにこれを自分だけが見れるのは何とも嬉しいものだ。人がいないが灯りは灯るという、不思議なこの場所の現象あってのことだ。
暫く車道に沿ってから、建物を介して近くのマンションに飛び移る。住宅街に出たようで、比較的背の低い家々の上を滑らかに飛び抜けていく。
 やがてビルにも飛び移っていき、屋上に出たところで降ろされた。風が容赦なく吹き抜ける。やはり寒い。半裸の彼を信じがたい物を見るかのように見つめていると、見当違いにも照れると言いつつ伸びをしている。

「んで、言葉にできない思いとやらは体験できた?」

不意に声がかかる。…まぁ、聞かれるだろうとは思っていた。彼は手を後ろに組み横目を向いている。興味があるというより暇つぶしに聞いた話題だろう。
そして私は一連の出来事を思い浮かべる。あっという間に連れていかれた外の世界。暗闇を照らす無数の光。きっと感じたのは解放感と、感動と…胸を満たす思い。私は頷いた。

彼は何度か瞬きすると、つまらないような、退屈そうな顔をする。口を尖らせてそっぽを向くと、大きなため息をつく。

「そりゃ何だ。よく分からねぇ…あんたもこの景色を独占出来たから満足した。違うのか」

 合っているが全てではない。私は首を傾げる。
…綺麗なものを見たら誰だって感動するのではないのか?すると彼は肩をすくめた。

「ここに召喚されてから何一つ変わらない景色に、何を喜ぶことがある。少なくとも、感激出来る理由は最初から俺には無いな」

 眼下に広がる光を眺めながら無表情に呟く。その言葉に偽りは無いようで、家の隅の埃でも眺めているかのように彼の視線は無関心のそれだった。
少し残念だと思う。見飽きたにしろ最初から興味がなかったにしろ、感じるものは人それぞれでも、身近に潜む物に感動を見出だせない様なのは。


 暫く座り込んで夜景を眺めていた。彼はすっかり飽きてしまい姿を消し、それでもそのままぼんやりと座っている。
空気は冷たいけれど、新鮮で旨い。久々の外を心行くまで堪能したいと景色を目に焼き付けながら大きく息を吸う。

 何もすることがないと、ついつい思考は深みにはまっていく。専ら彼と交わした取り決めに関する事がぐるぐると頭を巡る。
 やはり何を考えても彼を納得させる有効な手立ては思いつかない。抽象的で、はっきりしない内容。

 己のためだけに、欲望のまま生きていた彼。心は欲求の延長、ほぼイコールだと言って心というもの自体は存在しないとまで言ってのけた。

 新宿という場所が、彼にそうさせたのか。
感動も一切の余分な感情は不要なものとして削ぎ落としたのか。
それとも、元々の性格か。
 
 彼がそうなってしまった原因は何なのか。
ここで私は、この場所や彼について全く何も知らないということを思い知る。
賭け事に敗れれば私の身も心もピンチな以上、それは今や私の記憶以上に大切なことかもしれないとも。

「考え事か」

 真横からクシャクシャになった紙包が渡される。注視すると、あの例のハンバーガーだった。食べ物を取りに戻っていたのか。既に半分欠けた一つを持ちながらそれを寄越してくる。

 ありがたい。実は小腹が空いていた。
素直に礼を言って(勿論毒味をしてもらってから)開封して口に突っ込む。パンは水分がいくらか抜けているが、味は変わらず。濃厚なトマトソースが肉と手を組んで絶妙に舌にのってくる。…味の宝箱や。

 …吹き出された。
 違う、違うから。ちょっと言いたくなっただけで…その、別に大した理由はなくて、何で私も言いたくなったのか分からないからさっさと笑い抑えて下さい。変なところにツボがあるのか。

「クッ、ヒヒ…いやあんた、ちゃんと冗談も言えるじゃねぇか」

 カラカラと笑いながら乱雑に頭を撫でられる。髪が絡まり、鋭い痛みと共に無理やり引き離す。
 それでもなお緩んでいる口元を掌で覆い隠して、私は口に入れたものをごくりと飲み込む。子供扱いしないでほしい。これでもそれなりの精神年齢は有しているつもりだ。実年齢がどうであれ。
 
 話を戻したい。先の取り決めについての話についてのことを。
私は考えていたことを洗いざらい彼に吐き出した。凡そ、彼を説得するには彼を知らなければならないこと。それに対して私は彼についてあまりにも無知だということを。

「当然だな。俺もあんたのことは何一つ知らない訳だし、自分についてすらあやふやだ。そんな奴らが自分差し置いて相手を知ろうなんざ笑える話」

 鼻を鳴らし一蹴される。物言いは腹が立つが言っていることは一理ある。しかしこのまま平行線では何も始まらないのは事実。私は彼を知らなければならない。この場所で何が起きたのか、何故他に人がいないのか。対等に勝負と言うのなら、私は背景を知る権利がある。

「…」

 じとりとこちらを見ながら一口で食物を飲み込むと、彼はくしゃりと紙包みを丸めて懐にしまい込む。

「そうだな。そうじゃないと不公平だ。…ああ、いいよぉ。んじゃ、さくっと話してやろう」

 あっけらかんとして素直に頷き、胡座をこちらに向けて向かい合う。予想外にとんとん拍子に進んだ出来事に驚きつつ、身を固くした。やっとここの実態が掴めるのだろうか。これから聞かされる話を想像する。不安。されど興味がある。冷静に見定めるため、シャンと背筋を伸ばして彼の話に聞き入ることにする。何を言うこともなくその様子を静観していた彼は、頬杖をつくと大きく息を吐いた。そして、僅かに顔をしかめる。

「この世界は混沌と破壊のために造られた」
 
 衝撃的な一言と共に、その惨劇は再生される。

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