第?夜
その場所は、最早平和だった彼の都市にあらず。善人は死に絶え、互いを利用し貪りあう極悪人が闊歩する世紀末と変わり果てた。外界と隔絶した監獄の町、魔境にして魔郷、そしておぞましき悪都。
__隔絶魔境新宿と、我々は呼称する__
腐った匂い。死臭。そしてくぐもった悲鳴、断末魔__笑い声。
召喚されたときには既に地獄と化していた、らしい。如何せん前の状態を知らない。
誰かに呼ばれ、強制的にそちらに引っ張られた。いつもの儀式。しかし、どこか不穏な気配。
良くない予感を胸にかすめ、目を開く。淀んだ神聖味のない光がくすぶった。
他に誰もいない陰鬱なホール。棺桶に青い蝶の羽を着飾った奇抜な老翁が目の前にたたずんでいる。
そう、老翁だ。一見すれば取るに足らないと判断してしまうやもしれぬ。しかしその気迫、その姿は力をなくした老いぼれとは程遠く、無表情にも関わらず笑っているような、感情、思考すら何かのヴェールで覆い隠しているような不気味さがあった。その存在は人でなく、自分と同じサーヴァントであることはすぐに分かった。
何故、同じ立場の者同士が主従を結ばんとする儀式に居合わせているのか。
加えて、毎度ながら強制的に従わされることになる事実に辟易する。
『さて、いきなり呼び出して難だが一つ質問をしよう。君は善か、悪か。どちらかね?』
つい先ほどまで話をしていたかのようにとりとめもなく、不意打ちを叩き込まれる。答えに窮したのは想像に難くないだろう。善だったら、悪であったなら何だというのか。どちらにせよ選択を間違えると自分は排除される。そんな確信があった。
まず自分の経歴を辿る。不思議なことに、抑止の使者たるに相応しい自分の過去の行い、思考が客観的なものに思えてならない心地がした。記録された文面を読み上げるというより、第三者の話を興味もなく聞かされているよう。
いや、いや。それは関係ない。
自分は善か、悪か。データを参照してもはっきりと善、悪と分かるものが見つからない。なら、違う。自分はきっとどちらでもない。また誰でもない。
『ならば、これから完全な悪になる覚悟はあるか』
完全な悪とは。そも、それに成るのにどのような心づもりが必要だというのか。お伽話の悪役のような語り草で、如何にも善ではない男は口角を上げる。
続けて語られる気が狂ったような計画の数々。単純な興味で世界を破壊する。この建物を起点とし、人、ましてや並のサーヴァントでは到底止められぬ規模の弾丸を落とすと言うのだ。彼らはもちろん、何も知らぬ人々を巻き添えにこの世界は滅び去る。自滅、意味不明なことを彼は大真面目に言ってのけた。
すべては実行したことが成功する望みのために。自分の計算がどこまで届くのか、という数学者さながらの悲願のために。
『私の邪魔をしなければ君は何をされることもない。好きなようにこの場所を支配し、好きなように生きるといい』
ただし、悪として。相手の悲願を加担せずとも放任しろと言う。あまりに道理の通らぬ計画。成功する確率も低く、無謀甚だしい。
血が滲む。赤い雨が降る。
この計画は完全に破綻している。理解ができない。ならば、止めなければならない。
これは人理に反しているのだから、抑止の使者として一度は彼の殺害を試みようとはしたのだと思う。記憶はある。断片的なものだが。
血が滴る。泥だらけの水たまりは心なしか鉄臭い。
罪なき人を犠牲にするのは間違っている。いくら既に腐った街だろうと、まだ徳を持つ者は残っているはず。哀れな彼らを救わなければ。何としてでも、止めなければ。
血で潤う。何度言葉をかけようと、むせ返る赤には抗えない。
『__そうか、君は化けることができるのか』
蜘蛛の糸で絡めとられたが最後、獲物はただ喰われるのを待つのみ。抵抗の末に捕縛され、身動きできぬ自分を睨めつける。反抗はした。何故止めを刺さぬ。愚かにも俺は体が使えぬままもがき続けた。ギリギリと嫌な音がする。
何だ、目の前のアレは。人ではない。言葉を使う。人を人とも見ぬ、一切衆生を見下し、破壊せんとする輩。
俺の前に首をもたげ、ぎょろぎょろと蠢く眼は一斉にこちらを凝視する。
__令呪を以て命じる__
聖杯が掲げられ、諸悪の根源は言葉を紡ぐ。
そのまま、否応なしに。
__俺は奴らに呑み込まれた。
傍らには死体。腕、手、首。五体不満足のそればかり。人であったものの山、ヤマ、やま。全て俺が殺した。
彼らの痛みを知ったから、殺した。知らされたから、殺した。全員殺そうとした。救おうとした。自分一人ではどうにもならないことを知っていた。苦痛、無念、恨み、憎しみを骨の髄までしみこまされた。きっと俺は最早、いや最初から俺ではなかった。気づけば僅かに燻っていた正義心すら擦り切れて、どす黒い何かだけの存在になっていた。
『もう一度問おう』
『君は我らが同盟関係として、完全な悪に染まることはできるかね?』
勿論。既にそうなっているとも。
無駄なあがきは止めた。可能性はなかった。主従としてではなく同盟として問われた条件に、俺は容易く頷いた。
全て遅い。手遅れだ。召喚された時期も、行動を起こそうとしたタイミングも全てが遅すぎた。この都市は死んでいる。とっくのとうに望みは潰えていた。俺はまた、止めることができなかった。
ならばもう要らぬ。以前までの誓いも、自分も、もう不要だ。想像することもできない程凄惨な場所を更にぐちゃぐちゃにしてまわった。意味もなく、悦楽のためだけに。何かを忘れた。何かを捨てた。欠けてしまったものすら思い出せない程混濁し、遊び尽くした。
せめて殺すなら一思いに殺してしまおう。どうせ世界は滅びるのだから。この新宿自体、特異点として宛がわれた消えようと人理になんら影響のない世界なのだから。
これは夢。どうなろうと外は何の干渉もする必要のない別世界。既に従来の聖杯との関係も希薄なものにされた時、崩壊に向かうのは必然だった。
やはり、悪として染まり続けよう。悪が蔓延る場所では正に悪が正当なのだ。来るべき時まで残虐の限りを尽くさねば、…意味がない。意味がないのだ。
気づけば同盟は広がっていた。獣や首なし男、得体の知れない無骨な始末屋。他にも召喚され、初めから歯向かってきた輩は処理された。取るに足らない、どうでもいい奴らばかりだったが。
『己すら忘れた哀れな者よ。お前の行く末に、一切の希望はない』
仮面により表情は読めなかったが、声には僅かに憐憫の色が込められていたように思う。そいつを丁寧にいたぶりとどめを刺してから、化ける。何度目かの苦痛を味わう。
混ざりに混ざった信条は使い物にならない。理性も、本能も混合物。唯一の頼りは揺るぎない事実と、私が出来た当初に決めた目的のみ。
これは破滅へと向かう道。それに我は一端として加担している。
何が善なものか。既に貫いてきたモノすら思い出せず、それすら生前は成し遂げることが出来なかった、そんな無念のみ残っている。
ぐちゃぐちゃのゴミ溜めの中に立ちつくし、邪魔なものは狩りつくす。
不要。用無し。邪魔、ジャマ。全て要らない。お前は、死んでいい。
ようやっと今日の仕事を終え、血塗れの拳を揺らしながら首を鳴らす。ビル街に鳴り響く不快な音。それは俺だけのものではない。歯車が油もなしに無理やり合わさり動いているような…もっと機械的で、虫酸が走る音。
自分と同じくらい悪に傾倒し、自分よりは分かりやすく殺伐としている、彼からの兵器。感情を持たぬ、人から作られた紛い物。
今日も仲間を作り上げたのか。無数に広がる惨状を前に一人呟く。無機質な瞳は質問に答えることもなく、ただ虚ろに俺を見返した。
たしか、それの名前は。
6/8
prev next△