東卍の紅一点



紗羅がいなくなってしまう。そんな不安と恐怖に支配されてしまった俺は勿論眠ることなんてできるはずもなく、結局紗羅が朝起きるまでずっと、離れていかないように抱きしめることしかできなかった。

「おはよう」とまだ少し赤らんでいる瞳が俺を写した瞬間、心の底から安堵して、そしてようやく上手く呼吸ができる気がした。
朝がきた。隣に紗羅がいる。生きている。きちんとここに、存在している。


大袈裟でもなんでもなく、紗羅は俺の酸素だ。


もしもこの世界から姫野紗羅という一人の人間が消えてしまったら、俺の世界は、心は、命は、きっとーー。


「おはよう。紗羅」


終焉するだろう。














「…マイキー。そんなにくっついてたら朝ごはん作れないよ」
「ん〜…」
「ねえ、聞いてる?」
「ん〜…きいてる、」
「朝ごはんできるまでテレビでも見ながら大人しく待ってて」
「ヤダ」
「ヤダって…ガキかよ」


はあ、とため息を零す紗羅は本当に困っているようで、仕方なくすっと紗羅から離れるとすたすたと歩いてちょこんと体育座りをする。机の上にあるリモコンを取って、別に見たくもないテレビをつけると、ただぼーっと流れるだけの映像を眺める。

紗羅は後ろを振り向かずに手際よく料理を続けていて、俺は少しだけつまらない気持ちになってしまう。


「…紗羅」
「なあに、マイキー」
「俺、ちゃんと大人しく座って待ってるよ」
「うん。お利口さんだねえ、マイキーは」
「俺、えらい?」
「うん。えらいえらい」
「…さみしいから、早く朝ごはん作ってね」


少しむくれながらそう言えば、紗羅はようやく俺の方を振り向いて、そして「マイキーは寂しがりやさんなんだから〜」とくしゃりと笑ってそう言った。
俺は幼い頃からずっと変わらない紗羅のこの笑顔が大好きだ。めちゃくちゃかわいいなあって思う。


「うん。だから、絶対絶対、俺から離れていかないでね」
「…もし私がマイキーから離れたら、寂しくて死んじゃう?」


その言葉にこくんと頷くと、紗羅はすたすたと俺の元まで歩いてきて、そして膝立ちをしたままぎゅーって俺を抱きしめる。


「もう朝ごはんできたの?」
「うん。寂しがりやのマイキーのために急いで作ったんだよ。えらいでしょ?褒めて褒めて」
「紗羅はお利口さんだなあ」


目を細めてそう言えば、幸せそうに微笑む紗羅。

もしも昨日、隣に紗羅がいないことに気が付いてリビングまで行かなかったら。そう思うだけで、あまりの恐怖に俺の世界は真っ暗に染まって、吐き気がして、呼吸さえ上手くできない。

時を戻すことなんて不可能だ。だから“もしも”なんて考えたところで無意味なことくらい分かってる。でもどうしたって、考えてしまうのだ。あの時。あの瞬間。紗羅があの包丁を使って、自らの命を絶っていたら。

せっかく紗羅が作ってくれた朝ごはんも食欲がないせいかあまり箸が進まず、紗羅が心配そうな顔で俺のことを見つめている。


「…ごめん。ちゃんと味見したつもりだったんだけど…あんまり美味しくない?」
「ううん。ンなわけない。めちゃくちゃ美味いよ」
「そう?それなら良かったけど…じゃあ、あんまり食欲ないとか?」
「うん」
「…そっかあ」


ごめんね。ぽつりと紗羅がそう呟く。それは一体、なんの“ごめん”なんだろう。昨日のことを指しているのか。まあ、話の流れ的に十中八九そうだろうな。


ずっとずっと、思っていたことがある。
いつ言うかずっとタイミングを見計らっていたけど、その時は今のような気がする。いや、絶対にそうだ。今まで俺の勘が外れたことがあったか?ないだろう。

箸を机の上に置いて、じっと紗羅のことを見つめる。


不安そうな顔で見つめ返してくる紗羅に、俺は口を開いた。


「紗羅に大事な話があるんだ」
「…うん」

「一緒に住もう。紗羅。

すぐにとは言わない。紗羅のお母さんにもきちんと話さないといけないし。また俺の家で、じいちゃんとエマと俺と紗羅の4人で暮らそう。寝る場所は俺の部屋でいいよね?ちなみにじいちゃんとエマにはもう話してあるから安心してね。二人ともまた紗羅が来てくれるのがよっぽど嬉しいみたいで、ずっと嬉しそうにその話ばっかりしてるよ。……ねえ、紗羅、ダメかな?」


しーん

しばしの沈黙。…そうきたか。驚くとか喜ぶとか困るとか、そういう反応は予想していたけど沈黙は想定外で少しばかり焦ってしまう。
言葉がでないほど嬉しい?それとも、それくらい嫌だってこと?紗羅の気持ちが分からなくて「…紗羅?」と名前を呼ぶと、紗羅はハッとした顔で俺を見て、そして大きな瞳からぽろぽろと、綺麗な涙を零す。


「えっ?え?なんで泣くの?まさか、泣くほど嫌だった?!」
「ちがっ…ちがうよばかぁ…っ」


いよいよ本格的に泣きだした紗羅に駆け寄って抱きしめると、紗羅はひっくひっくと肩を揺らしながら俺の背中に腕を回した。拒絶されていないことにホッと息を吐いて、安堵する。


「どうしたの?なんで泣いてるの?」
「……っ」
「ゆっくりでいいよ。ゆっくりでいいから、紗羅の今の気持ち、俺に教えて」
「………いいの?」
「え?」
「…またみんなとっ、一緒に暮らしてもいいのっ?」
「っ…当たり前だろ。俺はずっとずっと、そうしたいと思ってた」


紗羅のお母さんがほとんど家に帰らなくなったあの日から、ずっと思っていた。この家に一人でいる紗羅は、いつもどんなことを思って過ごしているんだろうって。寂しくないわけがない。もしかしたら母親想いの紗羅は自分のことを責めているのかもしれない。なるべく紗羅を一人にさせないようにしていたけれど、それだって限界がある。
この静かな部屋でたった一人でいる紗羅のことを思うと、胸が張り裂けそうな思いがした。


紗羅の母親は、母親であるより、一人の女であることを選んだ。


俺は、俺はーー。


「もう絶対、紗羅を一人にさせないから」
「っ、ありがとう、マイキー」


目尻から流れる涙を優しく指で拭う。


「あと…」
「…ん?」
愛美愛主メビウスに勝ったら、紗羅に話したいことがあるんだ」


もし拒絶されたとしても、絶対に諦めない覚悟ができた。俺は、愛美愛主メビウスとの抗争が終わったら、勝ったら、その時は。もう一度紗羅に、愛を伝えるよ。

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